脳出血で無職になった親父のブログ

株式投資に腕時計が好きなオッサンのブログです。年齢を重ねスピリチュアルにも興味を持ったお蔭で人生感も変わりました。

堅い身持ちの大切さ。

2019年01月05日 15時00分17秒 | 徒然なるままに
徒然なるままに(^。^)

最近の女性は肉食系だというが。
それはそれで構わない。

自分を大切にしているだろうか。
複数の男性とのセックスは年齢を重ねたあと
後悔となるか。
それとも武勇伝となるか。
それは別として

女性の身持ちが軽いから
男も軽くLINEなどてホテルへと誘う奴もいる。

その昔
女性の身持ちが堅かったころ。
男は、それに相応しい男として
自分を向上させるか。
それとも演じるか。なりをし
軽さを持った男は軽さを隠し
女を口説こうとする男が多かった。

男女どちらが良い悪いではない。

そもそも。
動物などはメスにオスを選ぶ権限がある。
人間も、その例外ではない。
どんな遺伝子を残したいのか。
女は本能で持っていて、それは無意識でもあったりする。

選ぶ側が簡単に身体を許せば
ハードルが低くなった分、
男は労をせず女を口説こうとする。

いきなり。『やろう!』とセックスを求める男も昨今は少なくないそうである。

セックスは子孫を残す行為であるが。
神様はそこに『愛』を注ぐべき行為とし、快楽も併せ与えてくれている。

女性の処女性が今日、極めて希薄となった。

人から見れば
性病は厄介な代物であるが。
天から見れば戒めでもある。

神様は人間に対し『愛』を学んでもらうためであるが
人間はセックスを快楽を求める行為と考えている。

どうすれば
より高い快楽を得られるか。などである。

女は、今一度。
自らを何故、大切にしないといけないのか。
世の男に不満や不平を持つ女も増えている。
それが晩婚化や少子化にも影響している。
なぜなら
遺伝子を残したい男が減っているからである。

動物の世界では
弱小なオスは一生、交配は出来ない。

人間も本来はそうなのである。
だから
かつての日本の男は
出世を望んでいたのである。
英雄の多くは
多くの者を支配下にしたい。
それによって
多くの女とセックスしたい。
美人を側に置きたい。

そんな強さを持つ男に女は惹かれていったのであるが。
今の時代は違う。
弱小男子も
うまく行けばセックス出来る時代である。
割り勘男子も。

そのには愛はなく
単に欲求を満たしたいだけが少なくない。

男が男たる男になるには
女が処女性を重んじ
男をしっかり選ぶ
ことであると思う今日この頃である(^^)
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当たり前を口にする人

2019年01月05日 11時30分09秒 | 徒然なるままに
当たり前( ͡° ͜ʖ ͡°)

仕事、スポーツ、勉強などの場面で。
『こんな事を出来て当たり前だろ?』
『そんな事も知らないの?知ってて当たり前。』

残業して当たり前。
大学卒業が当たり前。
車を持っているのが当たり前。

当たり前を言葉に多く出す人が時折、存在する。

一体、何を根拠に?基準に当たり前だと言っているのであろうか。
それは大抵の場合、自分の価値観か少なくない。

校則は守って当たり前と思う先生。
校則は破って当たり前と思うヤンキー生徒。

国公立大を卒業して当たり前と思う親もいれば
関関同立を卒業して当たり前と思う親もいれば
別に高卒であれば良いと思う親もいる。

当たり前を言葉にする人は
感謝の心が少ない。
なぜなら『当たり前』なのだから。
やってもらって当たり前。
ノルマ達成して当たり前
プレゼントしてくれて当たり前。
ボーナス○○万円貰えで当たり前。
家を買ってくれて当たり前。

なのだから。
その後に『ありがとう。』の言葉は無い
もしくは形だけの ありがとうしか言わない。

当たり前を多く言葉にする人は
上から目線
傲慢
支配欲
自己顕示欲が強い傾向がある。

人の意見に耳を傾けない。
自分の話ばかりする。
自慢話が多い
など。

それは、それで放って置くしかない。
人は
自分が痛い思いをしない限り治らないものである。
当たり前を多く言葉にする人は
苦労が少なく困難な経験も少ない。

当たり前を多く言葉にする人は
優しさが少ない傾向にある。
優しさを提供したら
大抵の場合、見返りを求めてくる。
あの時、○○してやっただろ?と。

見返りを要求するのが当たり前だからである。

このような人を見て思う事は数々あるかも知れないが、自分も?その傾向が強いのかな?と振り返ってみる時期と考えることが大切である。
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与える(^ν^)

2019年01月05日 11時13分45秒 | 徒然なるままに
与える喜び( ^ω^ )

貰ってもらえて喜んでもらえた、その笑顔が嬉しいからである。

与えるものは物とは限らない。
それはお金であったり。
時間であったり
行動であったり。
役に立ってもらえた。
それが嬉しいのである。

与える時
さりげなく。
決して、やってあげたという言葉を出してしまうと、台無しになる。

感謝は求めるものではないからである。
やってもらった相手が
有り難みを感じれば、自然と感謝してくれる。

与える側は
見返りを求めてはいけないのである。
期待もである。

それは
相手にやってあげた事は
相手が、どう感じようが思う事があろうとも、
それは、やってあげた当人自身の徳となる事が大切なのである。
相手がどう思ったかは結果でしかない。

自分が欲しければ
先ずは与える事である。
しかし、人間は、先ずは自分が第一であり他人は二の次になりがちである。
魂が幼ければ幼いほど、その傾向は強くなる。

魂が成長し人となりが向上してくると
この傾向は少なくなっていく。

何人かで居酒屋などへ行くと、それが顕著にわかりやすい。
割り勘で飲み食いすると
食べないと、飲まないと損とばかりに
ガッツク人の魂は幼い。

かと思えば。落ち着いて、ゆっくり飲み、食べ
むしろ他のメンバーにどうぞと言っているような人もいる。

与える場面は意外にも日常的にあるのである。
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