縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
夢に見た生活を楽しんでいます。

「八ツ場ダム」を憶えていますか?

2013-11-04 11:58:51 | 最近思うこと
 先日、八ツ場ダムの建設予定地に行った。もとい、偶然訪れた。

 僕らは、関越道を渋川伊香保ICで降り、国道145号を通って草津へと向かっていた。その途中、車は、ナビ上では145号を外れ、道なき道(?)をずんずん走っている。ウチの車のナビが古いため、新しくできた道を認識していないのである。いくつかトンネルを抜け、ふと見ると「道の駅 八ツ場ふるさと館」の看板が。そうか、ここがあの八ツ場ダムの場所だと気付いた。なるほど、道理で新しいトンネルや橋、立派な道路、そして道の駅にしては洒落た施設が出来たわけだ。

 ふるさと館の裏から吾妻渓谷を見ることが出来るが、八ツ場ダムの建設場所やダムの規模はよくわからない。しかし、草津からの帰り道、今度は国道145号の旧道を走ってみたが、するとその規模の大きさがよくわかった。旧道は吾妻川の川沿いを走っており、ダムが出来るとこの区間の多くが水没するという。おそらく4、5kmは水没してしまうのではないだろうか。このため2年前新道(八ツ場バイパス)が作られたのであった。
 旧道は、所々周りの草が伸び放題であったり、また廃墟となった家屋が散見されたりと、忘れ去られた、取り残されたといった感じが強くした。ダム建設のため将来の生活に展望が持てず、この地を去った方が随分いるのであろう。なかなか一つの集落が消えることの実感は湧かないし、うまく理解できないが、やはり目の前の現実は重い。

 ご存知のように八ツ場ダムは、前民主党政権の「コンクリートから人へ」のスローガンの下、無駄な公共事業の代表として話題になった。民主党はいったん建設を中止したものの、その2年後、一転ダム建設継続を表明し、現自民党政権もその方針を受け継いでいる。その治水効果、利水効果を考えれば、事業継続の効果が費用を大きく上回るとの判断である。が、実態としては、地元・群馬県長野原町の反対や、既に多額の資金を拠出している関東の1都5県の反対に依るものであった。

 八ツ場ダムの建設が決定したのは1967年。ダム建設により川原湯温泉はじめ340世帯が水没することから地元住民は建設にこぞって反対した。源頼朝が発見した川原湯温泉や美しい吾妻渓谷の大部分が水没しては観光業が、生活が成り立たないからである。
 しかし、補償の問題、代替地の提供、道路整備や観光業支援などダム建設後の生活基盤再建に向けた提案や交渉が長い間続けられ、地元住民は建設を受け容れるに至った。その間、四半世紀近い月日が経っていた。住民の方にしてみると、ダム建設の是非はともかく、動きようのない現状から抜け出したい、時計の針を動かさないといけない、といった思いだったのであろう。

 そして、実際に工事が動き始めたのは1994年。本来であれば、この時点で事業の費用対効果を十分検証すべきだった。ダム建設は高度成長期に決まっているが、90年代半ばには、今後の人口減による水需要の減少が見込まれ、また堤防等の整備により治水の効果も当初より薄れていたと思う。おそらく交渉が長期に亘って継続、硬直化する中、当初の建設目的だった治水や利水の効果に代わり、ダムを作ること自体が目的になっていたに違いない。
 長良川河口堰にしろ、諫早湾干拓にしろ、政府が一度決めると、その後の環境や経済等状況の変化に拘わらず、やらざるを得ないのだろうか。

 ある意味、ダム建設中止を決めた民主党の判断は正しい。ただ問題は遅きに失したことである。既にダム建設後の生活に向け歩き始めていた地元住民をいたずらに混乱させてしまった。
 八ツ場ダムを教訓とし、政府には既成事実や慣習に囚われず、やめるべきはやめる、改めるべきは改めることを期待したい。