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江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

新説百物語巻之五 6、ふしぎの縁にて夫婦と成りし事

2023-08-02 22:28:59 | 新説百物語
新説百物語巻之五 6、ふしぎの縁にて夫婦と成りし事  
                     2023.8 
 河州に森という姓の人がいたが、こんな事を語った。その友に武田直次郎と言う者がいた。

二十歳(はたち)ばかりであったが、ぶらぶらとわづらい、養生をしたが、良くならなかった。
それで両親は、大いに嘆いて、ある年の春、両親がつきそって京へのぼり、部屋を借りて(借座敷に滞留し)養生をさせた。
治療の甲斐あって、次第に快気して、おおかた平生のようになった。
もう一月も滞留して、国もとへ帰ろうと思って、あなたこなたと物見遊山に出かけた。
三月の初めの頃の事であったが、直次郎も供の者を一人つれて、東山の花など見めぐりさまよいあるいた。
とある所に、これも借座敷と見えて庭先に一木の桜が咲いているのを、何心なく立ち止まってみていた。
すると、部屋の内より若い女が出てきて、
「ここはかし座敷でして、今日一日かりて、私の主人が花見をしております。遠慮するような所ではございませんので、お入いりになって、ゆっくりと花を御らんになって下さいませ。」と言った。
直次郎は、「ありがとうございます。」と庭に入って、縁側に腰を打ちかけ、花をながめていた。
そこに、奥より大変優雅で、たおやかな十六七の娘が出てきて、
「私は今日こちらへ花見に参った者ですが、母は用事があって、先に帰りました。私は日暮れてかえれば良いので、まづまずこちらへ、御あがりください。ゆっくりと花も御覧になってください。」と、菓子や酒などでもてなした。
直次郎も若い者であるので、とやかくとたわむれて思わぬ枕をかわした。
供の者に、「もう、夕ぐれになりましたよ。」とせかされて名残りが惜しかったが立ち帰った。
又逢う事のしるしとして、香箱にはまぐりの絵を描いたのを取り出して、二つに分けた。片方のふたの方だけを形見のしるしとして彼女に贈り、もう片方の身の方は、我がふところに入れた。
帰る間際に、このように詠んだ。
   玉くしげ ふたみの浦に よる貝の
       またこと方に 打ちやよすらん
このように詠むと、娘が返してきた。
   玉くしげ ふたみの浦に よる貝の
       ことかたならで あふよしもかな

と詠みあって、涙ながらに立ちわかれた。

そののち一両年も過ぎて、直次郎もいよいよ健康になって、江戸づとめをすることになった。
東へ赴き、宮仕えをした。
ある年の春になって、上野の花などを見めぐり、過ぎた日の事などを思い出して、ふと とある幕の内を見いった。
すると、何とやら見たことのある女がいて、その女も、向こうからつくづくながめていた。
思い出せば、以前に都で会った女であった。
とやかく、胸も高鳴って、かつ驚き、どうしようかと思っていると、娘もそれと幕の内より出てきた。
「そののち別れてより、さる御方に宮仕え致しました。ひと時も、あなた様を忘れる事はありませんでしたが、尋ねようもなくておりました。
こちらの姫君につきそって、去年の秋に、江戸に下ってまいりました。私を、忘れないでください。」
と、その場は別れた。

それから縁故を求めて、うまい具合に、主人より御いとまを給わった。

両親とも、息子たちの不思議な縁を喜んだ。

二人は、まことの夫婦となった、と森という人が語った。

  

新説百物語巻之五 5、肥州(肥後:熊本県)元蔵主あやしき事に逢ひし事

2023-08-01 22:22:44 | 新説百物語
新説百物語巻之五 5、肥州(肥後:熊本県)元蔵主あやしき事に逢ひし事  
                                2023.8


肥後の国に元蔵主(もとぞうす)と言う僧がいた。
或る時、檀家に死者がでたので葬礼をした。
寺での引導の時に至って、死人が棺の内よりすっつくりと立ち上がった。
元蔵主は、これを見ても、すこしも騒がず座っていた。
しかし、傍らの僧が、
「死人が立ち上がりました。」と伝えた。
それで、元蔵主は、死人をはったと睨みつけ、すこしも騒がず、側に焼香箱を持っていた小僧のあたまを、扇で、はたと打つと、彼の死人は、もとのように倒れた。

その後さまざまな仏事をしたが、何のさしつかえも無かった。

一七日過ぎて、ある夜、死人が元蔵主の座敷に来て、「さまざまの御弔い、ありがたくこそ存じます。
御礼のために、今度も小僧にとり憑りついて、申しあげました。
これ以後は、このような怪異な事はおこしません。
もう、死人の私の顔は、お見せしません。」と、言った。

元蔵主が、後で
「成る程、その顔はなんとも言えない恐ろしい顔であった。」と語った。

この怪異は、小僧の恐い恐いと思った一念で引きおこれた、と推量した。
それで、小坊主を扇でたたいて、正気に返らせ、怪異を消したものであった。

頭のよい僧であった。
 

新説百物語巻之五 4、定より出てふたたび世に交はりし事

2023-07-02 17:47:06 | 新説百物語
新説百物語巻之五 4、定より出てふたたび世に交はりし事
                  2023.7
大坂での事である。
ある人が、大屋敷をもとめて、増築などして、その家へ移ってきた。

すると、その家のはるかの地の下から、こんこんと鉦のたたく音が聞こえてきた。
ふしぎには、思いながらその年も過ぎたが、春になってもその鉦の音は止まなかった。

あまりに不思議なので、地の下をおよそ一丈ばかり掘らせると、石の棺があった。
それを掘り出し、ふたを明ければ、やせ衰えた人が入っていた。
頭には髪の毛ばかり、体は、骨と皮とばかりなるものが、鉦をたたいていた。
事情を聞いたが、物をも言わなかった。
それから湯などを与え、そろそろと白粥などを与えた。
その名を聞いたが、覚えていなかった。
時代を聞いたが、これも覚えていなかった。
ただ頭の髪がのびていったばかりであった。
一月たち二月たち、段々に肉もついてきて、その後には、普通の男のようになった。

どう扱うことも出来ないので、台所の片隅において、火などを扱わせた。
四五年も過ぎると、普通に歩いたり、座ったり寝たりが出来るようになった。
しかし、その家の下女と密通して、大坂から駆け落ちした、との事である。

新説百物語巻之五 3、神木を切りてふしぎの事

2023-07-02 17:45:21 | 新説百物語
新説百物語巻之五 3、神木を切りてふしぎの事
                 2023.7
丹州(丹波:京都府北部)の事であったが、一村の郷士で、気も丈夫なる者がいた。
その村の社(やしろ)には、決まった神主はいなくて、その村より、老婆一人に???をわたして世話をさせていた。

この郷士は、我が屋敷を新築しようと、
「この宮の前の大木を切って、新築の材木としよう。」と申しこんだ。
それを、彼の老女が、
「この大木はいつの頃よりといふことを知らぬ古い木ですよ。切ったら、祟りがあるかもしれませんよ。」と止めさせようと言った。
しかし、郷士は、気にもせず、あっさりと切り倒した。
そして、大工事は、ほどなく完成した。
「崇るのも、人によるものだ。」と、不信心な事などを言った。

一二ヶ月も過ぎると、彼の郷士は、少しずつわづらい出し、時々はとんでもない事などを口ばしったが、終に程なく、死亡した。
淋浴して棺に入れ、僧を頼み、寝ずの番の人を置いあた。
しかし、夜中に幾度ともなく棺よりはい出て来て、つけ木に火を付け、そこらを見あるき、又は帚を持って座敷などを掃除する事が、夜の内に六七度であった。
「とにかく、早く葬儀をして、埋葬しよう。」と、一門の者たちは言って、その明くる日に葬礼をした。

その屋敷の門を出るやいなや、稲光が何度もした。
大きな雷(かみなり)であったので、一向に目も明けられなかった。
やっとのことで、埋葬して帰って来た、とその村の人が、語った。

  

新説百物語巻之五 2、女をたすけ神の利生ありし事

2023-07-02 17:43:21 | 新説百物語
新説百物語巻之五 2、女をたすけ神の利生ありし事
                2023.7
京の上長者町に、ひしや治郎兵衛という者がいた。
若い時より伊達男であって、ずっと仏の教えには関心がなく、夫婦で暮していた。

しかし、ある時、夢に衣冠正しくしている人が来たのを見た。
「我は、大宮七条あたりのものなり。」と言って飛び去って行った。
ふしぎの事に思って七条に行くと、古がね店に夢に見たような天神の像があった。
さしもの伊達男も信心をきもに命じ、買い求めて持ち帰り信心した。

ある年、大熱病を患って、命も亡くなろうとしたので、女房は水ごりをして、彼の天神に夫の命を助けてくれるよう祈願した。
天神は、夢で女房にこのように告げた。
「汝が願うのは、もっともである。何であれ大切のものを捨てよ。病気を快気させよう。」と、はっきりとした霊夢をみたので、疑いようがなかった。

夫婦の二人暮らしの事であるので、さして大切の物もなかった。
何を捨てようかと相談して、長年秘蔵して育てていた豊後梅の鉢植を引きぬき、小野の天神の神前に捨て置いた。
女房が家に帰ると大熱が全く下がって、程なく本復した。

その後、この治郎兵衛は、油小路あたりを通った。
初夜(午後8時ころ)過ぎの事であった。
女が一人で、泣き泣き物を探している様子であった。
「何を探しているのかい?」と尋ねると、
「私は、さる武家に奉公している者でございます。
今日の夕方、御出入りの小間物屋へ使いに参りましたが、金子(きんす)十両ばかりのタイマイ(鼈甲)?の櫛を買って、三枚持ち帰りましたが、一枚を取り落としてしまいました。
探しましたが、見あたりません。
ご主人様からは、
もしもその櫛が見つからなければ、手打ちにする、と言われました。それで、あてもなくこのように探しております。」
と答えた。

治郎兵衛は聞いて、
「それは、ばかげた事だ。」と言って、その近所で提灯を借りて、二人で探したが、見つけ出せなかった。女は、泣く泣く言った。
「これで、帰っても、ひどい目にあうことですので、これより河も身を投げましょう。
思いももよらぬ御世話にあづかり、ありがとうございました。」
と語った。

それを聞いた治郎兵衛は、不便(ふびん)に思い、
「それは、悪い考えだ。これから、故郷に帰り、親とも相談して、主人へ詫びごとをするのがよい。」
とすすめた。
しかし、
「いいえ、故郷に女の身では、ひとりでは帰れません。まして親に苦労をかけるも申し訳ないことでございます。」
と、いかにも身をも投げる様子であった。
「それならば、まづまず我が家に来なさい。
一宿してから考えなさい。」と言って、無理に家にともない帰った。

女房とともに話して、在所の勢州(伊勢)の雲津へ送ることにした。
人を雇い路銭も与えた。

この女は、草津に知る人がいたので、それまで送りとどけて、雇い人は京へ帰ってきた。

その後、段々親よりも御主人へ御わび申しあげた。

しかし、失せ物は、その女が落としたのではなく、悪いものがいて、取り隠したことが、明らかになった。女に落ち度は無い、との身の証は立って、
「又々奉公に来てくれ。」と、主人よりの言葉があった。

しかし、奉公にこりて、そのまま在所に暮らしていた。

それから三年すぎて、このひしや治郎兵衛は、伊勢太々講の一員として、伊勢参りに行った。

ある日、治郎兵衛が、雲津(三重県津市)から一里ばかり離れた所で、笠をかぶりながら進んで行った。
その時に、在所のわきから女が、一人の小さい女を供につれて来たのに出あった。
すると、治郎兵衛の顔をつくづくと見て、そばへより、
「もしもあなた様は、京の治郎兵衛さまではございませんか?」と問うた。
治郎兵衛も立ち止まって、
「そのとおり、私は京都の者で、名は治郎兵衛と申します。
あなた様は、何となく見たことのある人の様ですね。」と答えた。
女が言うには、
「私は、先年、櫛をおとし御世話になったものでございます。
その後、私の潔白な証も立って、あなた様を命の親と存じ、両親とともに御礼を申しあげるべきでございました。
けれども、あまりに心が急いて、住所も、家の名も知らなくて、ただただ治郎兵衛様とばかり覚えておりました。
どこへも尋ねるすべもなく、恩返しも出来ませんでした。
毎日毎日、家ではこのことを話しておりました。
私の家は、ここより一町ばかり奥でございますので、ぜひ御立ち寄り下さい。」と言った。
「いやいや、それは奇遇ですね。
しかし連れもいますので、この次お伊勢様に参宮する節に立ち寄りましょう。」
と治郎兵衛は言ったが、女は、なかなか承知しなかった。

治郎兵衛をむりに家に連れ帰えった。
そして、両親をはじめ兄妹、その他近所の人々が打ちより、涙をこぼして礼を言った。
そして、無理にとどめて、夕飯などを出し、盃を取り交わした。
日暮になって、やっと駕籠を呼んで、雲津の宿まで送らせらた。

そこから十町ばかり行けば、雲津川であった。
夕立でも降ったのであろうか、河は大水であった。
川端には、松明や提灯がおびただしく、伊勢参りの人の船が転覆して、八人も死んだ、と騒いでいた。
その内に、水中より旅人一人の死がいが引き上げられた。
見ると、治郎兵衛の連の同行者であった。
大いに驚いて、それから、夜が明けてみれば、八人の死骸が残らず引き上げられた。
水も少々おだやかになって、先に対岸に渡った者もこちら側に戻ってきた。

くわしく聞けば、同行の三十人の内の二十一人は、先の船で向こう岸に渡り、残った九人のうちの八人が同じ船に乗って、このように水におぼれて死んだことが、わかった。

雲津の在に、治郎兵衛が無理矢理つれて行かれなければ、一緒に水におぼれ死んだであろう。

陰徳をなしたので、治郎兵衛一人が助かったのだ、と皆は話した。