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令和元年七月の旅・熱海鉄道

2019年07月04日 | ★イベント★
熱海軽便鉄道7号機
国鉄熱海線(現東海道本線)開業前の明治40年から大正12年まで、熱海=小田原間を25kmを2時間40分で走っていた軽便鉄道の機関車。
↑ 熱海駅前に保存されている熱海鉄道7号蒸気機関車(駅前改装前) ↓ 駅前改装移設後
 
関東大震災によってこの路線は廃止されたが、各地の鉄道建設工事で活躍し神戸市の国鉄鷹取工場内で標本車として展示されていたものを熱海市が払い下げを受け修復。
 
交通記念物として展示されている。その低重心な形状から「へっつい機関車」とも呼ばれた。
1907年、池貝鉄工所製。1976年にJR東日本より準鉄道記念物に指定されている。
 
↑ 熱海鉄道7号蒸気機関車 ↓
 
 
 
 
 
 
 
 
 
熱海鉄道とは、
現在の東海道本線が開業する前、小田原と熱海の間を結んでいた軽便鉄道線である。
ここでは、その前身となる人車軌道の豆相人車鉄道(ずそうじんしゃてつどう)についても記述する。
 
熱海は古くから温泉の町として知られていたが、この辺りは地形が険しく、東海道本線も当初は熱海を通らず現在の御殿場線のルートを取るなど、交通の不便な場所でもあった。
 
そのため、この地に鉄道を敷設する運動が地元民などから起こるようになった。丁度、国府津駅前から小田原町(現、小田原市)内まで小田原馬車鉄道(1900年に路面電車化し、1920年廃止)という馬車鉄道が開通していた。
 
それと連絡する形で当初は普通の鉄道を敷設しようとしたが、資金が集まらなかったため事業家雨宮敬次郎の発案により人力で車両を押す人車軌道に規格を変更し、雨宮と地元有志が共同で豆相人車鉄道を設立して1895年から1900年にかけて漸次開通させた。
 
これは営業的には高運賃(全線の運賃は工夫の賃金1日分だったといわれる)を取ったこともあって成功したが、原始的であり押し手の賃金も高額となることから、社名を熱海鉄道と改めて1907年に蒸気機関車牽引の軽便鉄道へ切り替えた。
 
翌年には、営業が不振であったことから雨宮が設立した大日本軌道に買収され、同社の小田原支社管轄となる。

その後、東海道本線のルートを丹那トンネルの開削などによって、御殿場経由から現行の熱海経由に変更することが発表されると、大日本軌道では、勝負にならないとして補償も兼ねて一切の設備車両を1920年に国へ売却した。
 
買収後は熱海軌道組合を新たに設立し、施設一切を国が同組合に貸し付け、職員は組合が雇用する形で運営され、主に丹那トンネル建設作業員の輸送手段として運行された。
 
そして、1922年に新東海道本線の小田原駅 - 真鶴駅間が「熱海線」の名で開業すると、その並行区間を廃止して残存区間で営業を継続したが、翌年に発生した関東大震災で壊滅的な打撃を受け、そのまま廃止となった。
なお、その翌年となる1924年には熱海線は予定通り熱海駅までの開業を果たし、1934年には丹那トンネルが開通して熱海線は東海道本線へ改められた。
 
↑ 大正時代の熱海鉄道蒸気機関車 ↓
 
豆相(ずそう)人車鉄道
人車鉄道、小田原~熱海を走る(写真16)
かつて、人間が客車を押すという世界的にも珍しい鉄道が、小田原~熱海間を走っていました。
 
明治28年7月に熱海~吉浜間で営業を開始し、翌29年3月に熱海~小田原間が開通しました。当時、熱海は温泉宿約30軒ほどの保養地で、政財界の大物や文人が盛んに訪れていました。
 
しかし、東京・横浜方面から熱海に至るには海沿いの険しい道(熱海街道)を歩くか、駕籠か人力車を利用していました。
 
そこで、熱海の旅館業主を中心に地元有志や京浜の実業家等が小田原熱海間に鉄道計画を興し、経費も安価であったことから人車鉄道を建設しました。
 
豆相人車鉄道と呼ばれ、小田原熱海間25.6km。駕籠で約6時間かかっていたところを約4時間で走りました。

豆相人車鉄道は、1車両に客は平均6人、それを2~3人の車夫が押していました。
6両編成で、小田原熱海間を日に約6往復し、急な上り坂になると、客も降りて一緒に押したというのどかな風景も見られました。
 
雨宮敬次郎を社長とする豆相人車鉄道株式会社として事業に当たっていましたが、明治41年8月に軽便鉄道に転身し、約3時間の所要時間になりました。
 
しかし、大正12年に起きた関東大震災によって軌道は寸断され、復旧を断念。翌13年に鉄道事業の幕を閉じました。
(写真14・15・16はウェブサイトより拝借)
↑ 湯河原吉浜付近での豆相人車