ポーランドからの報告

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ボローニャ旅行記 III

2006年09月26日 | その他のヨーロッパ

今回泊まったのは Ramada Encore という新しいホテルです。ホテル予約サイトで予約したら 50ユーロという破格の値段で宿泊することができました。

このホテルは街の中心部からはやや遠く、Via Ferrareseという幹線道路沿いにあります。とはいえボローニア中央駅や旧市街までは25番のバス一本でいけますのでとても便利です。

  

ただ、ホテルのウェブサイトに、駅まで2kmと書いてあったのですが、どう見ても5km近くはありました。ですので駅から歩いては行かれません。このホテルに限らず、ホテルのサイトに書いてある○○まで○kmというのは2倍ぐらい見ておいたほうがよいことがあります。


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ボローニャ旅行記 II

2006年09月25日 | その他のヨーロッパ

ボローニャ中央駅からインディペンデンツィア通りを歩くこと20分で、マッジョーレ広場に到着します。このマッジョーレ広場は中世から街の中心だった場所で、周囲には、モランディ美術館や市立絵画コレクションなどが入る市庁舎、サン・ペトロニオ教会、市立考古学博物館、アルキジンナジオ宮殿などの見所が集中しています。

とりわけサン・ペトロニオ教会(写真右中)は14世紀に街の守護神である聖ペトロニオに捧げられて作られたもので、イタリア最大の規模を誇るものの、未だにファサード上部が未完成となっています。内部のジョヴァンニ・ダ・モデナの作品の数々や天文家カッシーニの日時計などは必見です。

そしてマッジョーレ広場に隣接して広がるのがネットゥーノ広場です。この広場の中央にはネットゥーノの噴水(写真左中)があり、市民にジガンテ(巨人)と呼ばれ親しまれています。

  
  
  

中世ボローニャは100以上の塔が林立する街でした。現在でも20本ほどの塔が残っています。そのうち並んでたつアッジネリの塔とガリゼンダの塔の2本の塔は、ボローニャのシンボル的存在です。高い塔がアッジネリの塔(写真の右側)、低い塔がガリゼンダの塔(写真の左側)です。このうちガリゼンダの塔のほうは傾いており、あまりに傾斜が激しいため、修復工事で上部が削られました。近くでみると、ピサの斜塔も真っ青の驚きの傾き加減です。前回のイタリア旅行ではフィレンツェに一週間滞在しながら、時間の都合でピサに行かれず残念な思いをしたのですが、今回このガリゼンダの塔を見てやや満足しました。

この2本の塔の前から通りを右に折れ、サント・ステファノ通りをやや歩くと、一段と歴史の古い教会が姿を現します。8~13世紀の4つの教会、2つの礼拝堂、2つの中庭が連なるサント・ステファノ教会群です。


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ボローニャ旅行記 I

2006年09月25日 | その他のヨーロッパ

仕事で再びイタリアを訪れました。かつて日本に住んでいたころ、イギリス、スペイン、フランス、フィンランド、ロシア、クロアチアなどヨーロッパ各地を旅行しましたが、観光の定番であるイタリアだけは長らく行く機会がありませんでした。ところが先月に始めてイタリアを訪れて以来、すっかりイタリアの魅力のとりこになってしまい、仕事とはいえ完全なリピーターになってしまいました。

今回私が訪れたのは、イタリア中部エミリア・ロマーニャ州の古都、ボローニャBolognaです。ボローニャは音楽の都、料理の都、ワインの都として知られ、2000年にはクラクフとともに European Capital of Culture ~ 欧州文化首都 に選ばれています。またヨーロッパ最古のボローニャ大学がある街でもあり、古来より文化人の集った学問の都として知られています。変わったところでは2002年の日韓FIFIAワールドカップで日本-トルコ戦の主審を務めたピエルルイジ・コッリーナ監督の出身地でもあります。

  
  
  

ボローニャへはクラクフから Centralwings の直行便が1時間20分で就航しています。ポーランドとイタリアは1000km以上離れていますが、最近の格安航空各社の健闘のおかげで、飛行機を使えばあっというまの到着です。ただ残念だったのが、今回2泊3日の日程で出かけたのですが、初日ボローニャ→クラクフ便の到着が夜7時、帰りクラクフ→ボローニャ便が朝9時40分発だったため、実質フリータイムは中一日だけだったこと。とはいえボローニャはそれほど大きな町ではないので、一日でも十分に街の魅力を堪能することができました。(もちろん逆にイタリア発着であれば、3日間たっぷりと堪能することができます。)

着いた日の夕方、さっそく街を散策してみました。ボローニャの旧市街は、ミラノやフィレンツェのような派手やかさはなく、どちらかというとモノトーンカラー。それだけに夕方のライトアップされた街並みは、赤レンガ色の建物に照明の明るい色が加わり、とても魅力的でした。


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ヴィエリチカ岩塩坑の楽しみ方

2006年09月20日 | 観光ガイド

クラクフ南東15kmにあるヴィエリチカ岩塩坑は 、中世から現代まで残る岩塩坑で、ユネスコ世界遺産にも指定されている人気の観光地です。全部で地下第九層まである採掘坑のうち、ダニオヴィチ立坑の第三層、地下約135mまでが観光コースとして公開されています。

  
  

ヴィエリチカは中世の時代からすでに人気の観光地で、コペルニクスやワイマール、ピウツスキ将軍、ヨハネ・パウロ2世など歴代の有名人が訪れており、それにちなんだコペルニクスの間、ワイマールの間、などを順路を追って見学していきます。随所に人形や模型があり、当時の様子が再現されています。

見学コースの一番の見所は、地下100mの深さにある聖キンガ礼拝堂。階段から足もとのタイル、天井に輝くシャンデリア、中央の祭壇から周囲の壁の彫刻まで、もちろんすべて岩塩でできています。現在でも日曜日のミサや結婚式などに使用されています。

  

ところであまり知られていないのですが、岩塩坑の見学コースは二部構成になっており、第一部を見学後、希望者はさらに第二部のミュージアムを見学することができます。ミュージアムでは、様々な色や形の岩塩の結晶や、岩塩採掘に使用したつるはしや灯油ランプなどの工具、岩塩の運搬に使われたかごや馬、馬力で動く木製エレベーターなど、岩塩坑に関する興味深い品々が展示されています。団体ツアーでは第一部のみの見学となることがほとんどですが、第二部の料金は入場料に含まれていますので、個人ツアーなどで時間に余裕がある場合は、ぜひ訪れてみてください。


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日本人に馴染みの深い ○○○ がポーランドにもあった!

2006年09月19日 | 雑学

日本人にとても馴染みが深い ○○○ が、なんとここポーランドにもあるんです。
それは何だと思いますか??

クラクフ旧市街南を流れるヴィスワ川。その河岸を散歩していると、あれ!?こんなところに!?日本でもお馴染みの、『あるもの』 があるではありませんか!?

答えは、、写真を見ていただけるとわかりますが、「忠犬ハチ公の像」なんです!

 

ポーランドの忠犬は、ジョク(Dżok)という名前でした。ヴィスワ河の近くにに、ロンド・グルンヴァルツキェというとても交通量の多いロータリーがあるのですが、ジョクのご主人は、このあたりを歩いているときに心臓発作で倒れ、そのまま救急車で運ばれて亡くなりました。

ご主人と永遠の別れとなってしまったジョクは、1990~91年の二年間、ずっとこのロータリーでご主人の帰りを待っていたそうです。親切な人が現れては水や餌をやり、家に連れて帰ろうとしましたが、ジョクは頑なにその場を動こうとはしませんでした。1992年になってやっと、新しいご主人に引き取られましたが、1998年にそのご主人も亡くなると、同年のイースターの日に、トラムに轢かれて亡くなりました。まるでご主人を追いかけて行ったかのような最後だったと伝えられています。

この忠犬ジョクの話を後世に残そうと、動物愛護団体が中心となって、ジョクの像を設置するための運動を行い、2001年春に除幕式が行われました。銅像の多いヨーロッパの街並みですが、それでも犬の像というのはめずらしく、当時とても話題になったそうです。

しかもなんと、犬が除幕を行いました!!

 

ちなみに、ポーランドは世界一イヌの保有率が高い国だとか。
確かに、町行く人の多くがイヌを連れています。

参考:http://www.tresura.pl/gz01.php


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ヨハネ・パウロ2世ゆかりの地を歩く ⑥ ヨハネ・パウロ2世号

2006年09月17日 | ヨハネ・パウロ2世

今年の6月から、ポーランド国鉄(PKP)ではクラクフ-ヴァドヴィツェ間で ヨハネ・パウロ2世号-TOTUS TUUS-を運行しています。2005年9月ポーランド国鉄の社員がクラクフ南部ワギェヴニキのサンクタリウムを訪問した際、「ヨハネ・パウロ2世への感謝の気持ちを込めて、特別列車を運行しよう」というアイディアが生まれ、それからわずか一年未満で事業が完成しました。ポーランド国鉄といえば万年予算不足で、今年も大量リストラやダイヤ1/3カットなどの問題が伝えられていましたが、それでもこういう事業は驚くべき速さでことが進みます。

このヨハネ・パウロ2世号は、ヴァチカンカラーの黄金色の最新式車体で、側面に TOTUS TUUS の文字が刻まれています。この TOTUS TUUS とは「私のすべてはあなたのもの」という意味のラテン語で、ヨハネ・パウロ2世が生前に好んで使ってた言葉です。

  
  

電車はクラクフ中央駅を出発し、ワギェヴニキ、カルヴァリアとヨハネ・パウロ2世ゆかりの地に停車して、約1時間後にヴァドヴィツェに到着します。クラクフ中央駅発ヴァドヴィツェ行きが8:55、12:55、16:55の3便、ヴァドヴィツェ発クラクフ行きが10:30、14:30、18:30の3便で、料金は片道券が11.50zl、往復件が18.00zl。切符は一日有効ですので、ヴァドヴィツェに行く道中に途中下車してワゲヴニキ(Łagiewniki)の サンクタリウム(Sanktuarium Bożego Miłosierdzia)やユネスコ世界遺産の カルヴァリア・ゼブジドフスカ(Kalwaria Zebrzydowska)を訪問することができます。さらに車内では液晶モニターでヨハネ・パウロ2世の特集DVDが放映されていて巡礼地訪問のよい予習(?)ができたりと、まさにヨハネ・パウロ2世号の名前にふさわしい設備が備わっています。地元の人の交通手段としてはもちろんのこと、世界中からのカトリック巡礼者の利用が期待されています。

クラクフへ来る日本人観光客は、そのほとんどの方が、郊外のアウシュビッツ=ビルケナウ収容所を見学後、急ぎ足で別の街に移動してしまいます。クラクフ=アウシュビッツの街のようなイメージをもたれることもしばしばですが、ポーランド人にとって、クラクフはなによりも旧市街とヴァヴェル城の街、ヴィエリチカ岩塩坑の街、そしてヨハネ・パウロ2世の街なのです。ヨハネ・パウロ2世号ができて、ヴァドヴィツェ訪問もとても便利になりました。クラクフまでいらしたら、ぜひヴァドヴィツェやカルヴァリア・ゼブジドフスカまで足を延ばしてみてください。


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ヨハネ・パウロ2世ゆかりの地を歩く ⑤ 法王の生家

2006年09月16日 | ヨハネ・パウロ2世

ヨハネ・パウロ2世の生家は現在記念館となっており、亡き法王をしのんで世界中からカトリック信者が訪れます。記念館には幼少時代に使用していたベビーベッドや大司教や枢機卿時代の洋服や靴、さらにはスキーウェアやスキー板などの私用品まで、ヨハネ・パウロ2世に関するありとあらゆる展示がされています。広くはありませんが、入り口で入場制限をしているので混雑はしていなく、比較的ゆっくりと見学することができます。

  
  
  

この生家は大聖堂のすぐ裏ですので、迷うことはありません。そのほか通っていた小学校や、美味いクレムフカのケーキ屋さんなど、ヨハネ・パウロ2世に関する場所には説明パネルが設置されていますので、このパネルを辿りながら観光することができます。びっくりするのが、ヨハネ・パウロ2世の生活範囲の狭さ。生家、大聖堂、小学校、ケーキ屋がすべて大聖堂前広場から半径100メートルの範囲に収まっています。移動がいらないので観光客にはとても便利ですが、それにしても驚きの行動範囲の狭さです。

以前から思っていたのですが、家と学校が近い人は、通学の時間を勉強に当てられるからでしょうか、優秀になる傾向があるように思います。余談になりますが、私の知り合いの東大生も小学校が家の目の前でしたし、クラクフ大学医学部を出た私の夫も、やはり高校が家から50メートルでした。調べてみれば他にももっと例があるように思います。ヨハネ・パウロ2世の場合も、こんなに家と学校と教会が近いのだから、きっと毎日学校帰りに教会によって、ミサに参加したり神父の説教をきいたりしながら、信心を培っていったのでしょう。そういった意味で、ヴァドヴィツェはまさに「法王を生んだ街」の名にふさわしい街であると思います。


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ヨハネ・パウロ2世ゆかりの地を歩く ④ 法王のクレムフカ

2006年09月15日 | ヨハネ・パウロ2世

クレムフカ(Kremówka)とは、たっぷりのクリームをパイ生地にはさんだケーキで、りんごのケーキ・シャルロトカ(Szarlotka)やチーズケーキ・セルニク(Sernik)などと並び、一般家庭でよく食べられているポーランドの伝統的なケーキです。

そのクレムフカが、ある日突然 法王のクレムフカ(Kremówka Papieska) として一躍人気になりました。1999年6月、ヨハネ・パウロ2世のヴァドヴィツェ凱旋の時のことです。広場でのミサにて、ヨハネ・パウロ2世が、子供時代によく通った中央広場の一角のケーキ屋のクレムフカが美味しかった、とのエピソードを話したところ、翌日には町の全部のケーキ屋からクレムフカを筆頭にありとあらゆるケーキが売り切れてしまったのです!それ以来「クレムフカは法王のケーキ」というイメージがすっかり定着しました。

  
  

ヨハネ・パウロ2世ご用達のケーキ屋さんは残念ながら1950年代に廃業し、現在その建物には銀行が入っています。しかしヴァドヴィツェの街のカフェでは、必ずこのクレムフカを出しているので、ヴァドヴィツェを訪れたら、クレムフカを食べるのが、通な楽しみ方となっています。

というわけで、私も先日ヴァドヴィツェを訪れた際に、ヨハネ・パウロ2世の生家の真向かいにあるカフェに入ってみたのですが...残念ながらここのカフェのクレムフカは全然美味しくありませんでした。クレムフカはクリームの味が勝負なのに、そのクリームが全然美味しくなくって...しかも値段は安かったとはいえ、一切れが小さかったですし...どうにもこうにも近所のケーキ屋のクレムフカの方がよっぽど美味しかったです。というわけで、法王のケーキとはいえ、クレムフカにもあたりはずれがあるようです。私の場合ははずれでしたが、多分ほかのカフェでは美味しいクレムフカが味わえると思いますので、ぜひお試しになってみてください。



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ヨハネ・パウロ2世ゆかりの地を歩く ③ ヴァドヴィツェの人々

2006年09月14日 | ヨハネ・パウロ2世

ヴァドヴィツェの人々は、ヴァドヴィツェ出身であること、そしてカトリック教徒であることにとても誇りをもっています。

かつて共産主義時代、ソ連(ロシア)の経済支配に苦しめられていたポーランド人にとって、ローマ法王がポーランド出身であるということは、非常に誇らしいことでした。ロシア人とポーランド人は同じスラブ民族ですが宗教が異なり、ロシア人は東方ロシア正教を信仰しています。そのためポーランド人にとって、カトリック教徒であることは民族のアイデンティティそのものであり、その総本山のバチカンに君臨するローマ法王が、ポーランド人の、そしてヴァドヴィツェ出身の法王であるということは、カトリック教徒としてなによりの誇りでした。

  
  

そしてポーランド人にとって、ヨハネ・ パウロ2世はカトリックのシンボルであるとともに、東欧民主化運動のシンボルでもあります。80年代のポーランド民主化運動を支持したのが、ヨハネ・ パウロ2世まさにその人であるからです。1979年の第一回目ポーランド凱旋の際、ヨハネ・ パウロ2世は、ワルシャワのピウスツキ広場に集まった聴衆に向かって Nie lękajcie się (恐れてはいけない) と呼びかけ、当時ソ連による共産主義支配の絶望の中にいた人々に希望を与えました。このヨハネ・ パウロ2世の呼びかけでポーランド人は目を覚まし、その4ヵ月後には、ワレサ氏を中心とした「連帯(Solidarność)」運動がおこり、民主化への道を歩むことになったのは、いまだ記憶に新しいところです。

それゆえヴァドヴィツェの住民は 「すべてはこのヴァドヴィツェの街から始まったのだ」と「連帯」発祥の地グダニスクに加え、ヴァドヴィツェこそが20世紀のポーランドそして東欧の民主化の歴史の原点なのだとの誇りを持っているのです。


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ヨハネ・パウロ2世ゆかりの地を歩く ② ヴァドヴィツェ

2006年09月13日 | ヨハネ・パウロ2世

ヨハネ・パウロ2世の生まれ故郷、ヴァドヴィツェ(Wadowice)は、クラクフ西54kmの小さな街です。

ヴァドヴィツェの歴史は古く、はるか14世紀にさかのぼります。1430年にカジミエジュ1世により市町権(prawa miejskie)を与えられると、1489年までヴァドヴィツェ公国の首都として栄え、16世紀には手工業や商業が発達しました。街の見所は、大聖堂とヨハネ・パウロ二世の生家。ヨハネ・パウロ二世の生家は大聖堂のすぐ裏にあり、内部は博物館になっています。

 
 

世界中からカトリック信者が巡礼に訪れる街だけあって、その芳名帳の大きいこと!クラクフからの交通の便がよいことに加え、道中にもうひとつのカトリック巡礼地でユネスコ世界遺産のカルヴァリア・ゼブジドフスカ(Kalwaria Zebrzydowska)も経由できるため、ヴァドヴィツェとカルヴァリアの両方をクラクフから日帰りで訪問するコースが定番となっています。


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