『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

旧暦6、7月の間  奥参り その5  

2007年08月11日 | 歴史
今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、前回に引き続き、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦7月の項にある湯殿山参詣についての記述を取り上げる。

城北ニ巍立スル二箭山モ、昔日ハ行山ト称シ、山ニ垢離ノ瀑、懺解場、胎内窟ナド称スル處アリ。先達ナル者、參詣人ヲ導ク。大概、湯殿山ニ擬セシモノナリシ。今ヤ、二屋神社ト改称シ、佛者、妄誕ノ説、漸ク破ル。近時、民間盛ンニ行ハルヽハ古峯參詣ナリ。

これを現代的な表現に書き改めると、次のようになるかと思う。

磐城平城の北の方角に屹立する二箭山(ふたつやさん)も、以前には「行山」と呼ばれ、山の中には「垢離(こり)ノ瀑(たき)」や「懺解場(ざんげば)」、「胎内窟(たいないくつ)」などと呼ばれるところがあった。先達(せんだつ)がいて、参詣人の案内をしていた。これは湯殿山に倣ったものだった。今では、二屋神社と名称を改め、神仏混淆はなくなった。近時、いわきの人々は古峯参詣に訪れるケースが多い。

コメント (1)
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