『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

旧暦7月24日 車地蔵 

2007年08月22日 | 歴史
今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。
『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦7月24日の項には、次のような記述がある。その内容は、車地蔵に関する事柄だ。

車地藏トイフ事アリ。往還ノ傍ニ七、八尺計リノ柱ヲ立、柱ノ中程ヲクリヌキ、其内ニ地藏ノ小像ヲ旋轉(マワル)ヤウニ拵ヘ、其前ニ小籠ヲツリ置、小兒ヲ喪シタル人、石ヲ拾ヒ、花ヲ摘テ、籠ニ入、地藏ヲ廻シテ通ル。小兒死テハ幽冥ニテ地藏ノ車ヲ挽キ、石ヲ積ミ、花ヲル事、故ニ其供養ナリトイフ。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

「車地蔵」というものがある。道の傍らに高さ2メートルから2.5メートルほどの柱を建て、その中程をくり抜き、そこに地蔵の小さな像を回転するように据え付け、また、小さな籠を吊るしておく。わが子を亡くした人が子の供養のため、石を拾い、花を摘み、その籠に供え、地蔵の小さな像を回す。子どもの霊はあの世で地蔵が乗った車を牽き、石を積み上げ、花を手向けているそうだが、この「車地蔵」というのは、それと関わりがある。
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