(法華経の行者について)
「信者と行者を区別しなければならない。信ずるだけでも御願いをすれば御利益があるに相違はないが、ただそれだけでは菩薩行にはならない。自分ばかり御利益を得て、他人に施さぬような個人主義の仏はないはずである。菩薩行をせねば仏にはなられぬのである。即ち親心になって他人に施すのが真の信者でありかつ行者である」
牧口常三郎
(法華経の行者について)
「信者と行者を区別しなければならない。信ずるだけでも御願いをすれば御利益があるに相違はないが、ただそれだけでは菩薩行にはならない。自分ばかり御利益を得て、他人に施さぬような個人主義の仏はないはずである。菩薩行をせねば仏にはなられぬのである。即ち親心になって他人に施すのが真の信者でありかつ行者である」
牧口常三郎
「私利私欲から発した動きと、主義主張から生まれた動きとをはっきり区別して、前者と戦い、後者を助ける、これこそ偉大な革命家たちの天分であり、道義なのである」
ビクトル・ユゴー
創立の父・牧口常三郎先生は、「今までの宗教は観念論ばかりで実験証明はなかった」と喝破された。そして、妙法の力によって、わが生命を蘇生させた同志の体験談の発表を「ダイヤモンド」と讃えられたのである。
池田大作
「人生に、苦しみというものはある。
苦しみがなければ、遊楽という楽しみを、しみじみと味わえないのである。そこが、よくわかると、生きていること自体が楽しくなる。
それが、信心の極意である」
戸田城聖
少女は4歳で失明した。見えなくなったことが理解できなかった。走り回っては柱にぶつかる。生傷が絶えなかった。あすは見えるようになるかもしれない。少女はまぶたをいっぱいに見開いて、見る練習をしたという。
悲嘆と絶望を乗り越えて、一家は強く立ち上がる。少女は今、外資系通信社に勤務。ピアノもプロ級。随筆家としても活躍する。彼女・三宮麻由子さんは綴っている。人は〝絶望の温泉〟に漬かりがち。「希望に向かって邁進するよりも、絶望したと泣き暮らしているほうが楽」だから(『人生を幸福で満たす20の方法』NHK出版)。
池田名誉会長は、宿命に泣く高等部のメンバーに「信心は感傷ではない。泣いたからといって、何も解決しないではないか!」と渾身の激励を送った。1966年(昭和41年)、鳳雛会・グループの野外研修の折である。
御書に「日蓮は・な(泣)かねども・なみだ(涙)ひまなし」(1361㌻)と。私たちはここに、感傷に流されない、たくましい慈悲と同苦の心を見る。他方、「絶望の温泉」という名の感傷に浸り続けるのが、念仏の思想であろう。
勇気と希望を鍛えるための日蓮仏法である。立ち上がって生き抜くための、創価の人間のネットワークである。
聖教新聞 「名字の言」