オショロコマの森ブログ5

渓流の宝石オショロコマを軸に北海道の渓流魚たちと自然を美麗画像で紹介します、

実在の人とそっくり顔に作られた75体の屯田兵人形

2014-10-28 21:05:34 | 北見市の出来事・行事など
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2009-5-15  晴れているが寒い

実在の人とそっくり顔に作られた75体の屯田兵人形

北見市は、かっては野付牛(のっけうし)と呼ばれていました。明治30-31年、高知を出港、想像を絶する艱難辛苦を乗り越え、過酷な航海ののち、網走付近に上陸して常呂川をさかのぼり、のっけうしに最初に入植したのは坂本龍馬の甥である坂本直寛(なおひろ)が組織化した移民団体の北光社(ほっこうしゃ 112戸 約650人)で、これは北海道移民を目的にした組織です。最初に入植した地域は今でも北光社という地名で残っています。

一方、同時期に入植した600戸もの屯田兵たちも北見の開発に大いに貢献しました。

想像を絶する過酷な環境のなかで開拓をすすめた屯田兵の偉業をたたえようと大正12(1923)年、当時の信善光寺の住職だった吉田信静尼が屯田兵入植者たちから希望を募り(人形制作費を自前で出せる比較的裕福な人たちが応じたもよう、相当高額であったという)、彼女の故郷に近い名古屋の人形師に日露戦争当時の写真をもとに制作をしてもらったのが75体(内5体は、北見市北網圏文化センターに展示)の屯田兵人形です。

胴はサワラ、首が桐、軍装姿の高さ68cm前後の屯田兵人形は、開拓当時の風俗がうかがえる貴重な資料として北見市の文化財の指定を受けています。

私は、はるか昔に小学校の遠足かなにかで、この人形たちを見に行ったようなおぼろげな記憶がありましたが、つい最近まで屯田兵人形のことは完全に忘れて暮らしていました。

2009年5月15日、北見市フラワーパラダイスに白モクレンを見に行った帰り道、川東の観音さんの山すそにある屯田兵人形を納めたお寺のことを思い出し、急にこれを見てみたい気持になりました。

帰り道にある屯田兵人形が納められている信善光寺(☎ 0157-23-2839 )にいってみると、かってピカピカだったお寺は相当に古ぼけてかっての面影はないほど古色蒼然としておりました。



住職は最近体調がすぐれないとのことで、お寺にはいませんでした。

おーい、おーい、こんにちわ、と大声であちこちまわると、裏山で作業をしていた家番みたいなお爺さんが山を降りてきて、お寺の鍵を開けてくれました。



撮影は自由とのことで、久しぶりの屯田兵人形をデジカメ撮影させていただきました。



人形はとても精緻精巧でまるで生きているようです。実在した人間とそっくりの顔に仕上げられていて、顔は一体毎に異なり驚かされます。

日清・日露戦争に連勝した(本当の意味では勝利とはほど遠いものだったが国民は勝利と信じ込まされていた。)当時の世相を反映してか、精悍かつ誇り高い表情は現在の日本人からは完全に消え去った神々しいまでの立派な顔貌です。


この馬場さんは、その後取得した広い土地を北見市に寄贈しました。そこは彼の名をとって今でも 馬場町 と呼ばれています。子孫にあたる人は医師で馬場医院として北見市に貢献しています。

同様に自分の土地を北見市に寄贈した人もいて、たとえば三輪さんが寄贈した土地は三輪町と呼ばれています。















































その後、吊り橋を渡って隣接する中之島公園へいったがけっこう寒い。



この時期、常呂川に遡上中のアカハラ釣りをしているおじいさんがいて魚を見せてくれたが25cmくらいのアカハラを10匹ほど釣っていた。





このアカハラ、どうするんですか?と聞くと煮て犬のエサにするとのこと。




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