「青い薬を選ぶネオ」とか、「人々の望みをかなえるティガ」とか、
より、
「赤い薬を選ぶネオ」とか、「ギジェラをやっつけるティガ」とか、
の方が好きなのです。
目の前にそういう人がいたら敵対するかも知れないけど、
そうなれるかもわからないけど、
自分はそうありたいかどうかも自信がないけど、
かっこいいのです。好きなのです。
「我思うゆえに我あり」ってフレーズは、
「自分は世界のあり方を受け入れて、自分の考えは世界に適応したものである(≒己の欲する処に従えども矩を越えず)」とき、「自我、あるいは、自我という概念、あるいは、自我を理解する能力、は、消失する」という解釈もできるのです。「世界思う、故に我なし」です。
自我とか意識とか言うのは「気のせい」、であるという考え方もあるみたいです。
存在しないわけじゃないけど、錯視した物とか、ホログラフイメージとか、神の見えざる手とか、社会とかが「存在する」のと同じような意味で「存在する」ということみたいです。
「目の前に見えてる地面が存在する」という確信は、地面を踏んづけた経験がたくさんあって、それが落とし穴だったとか幻だったとかいう経験が「ほとんど」なかったから産まれるので、それが「存在する」という感覚なのです。
「経験すると存在を理解する」というのはある意味において正しくなくて「経験したものは存在する」であって、「経験されないものは存在しない」であって、「理解できないものは存在しない」なのです。
ネットによって、「キギョウとコジン」みたいなのを、もっとスケールを大きくしたようなものが経験されるようになってきてて、その体験は、オカルトとか宗教とか呼ばれてた分野の一部を自然科学に持って来るのだと思います。
魔道書を読んだり別な世界の経験をするとSANチェックが必要という気分がちょっと理解できた気もする今日このごろ。
Diska
より、
「赤い薬を選ぶネオ」とか、「ギジェラをやっつけるティガ」とか、
の方が好きなのです。
目の前にそういう人がいたら敵対するかも知れないけど、
そうなれるかもわからないけど、
自分はそうありたいかどうかも自信がないけど、
かっこいいのです。好きなのです。
「我思うゆえに我あり」ってフレーズは、
「自分は世界のあり方を受け入れて、自分の考えは世界に適応したものである(≒己の欲する処に従えども矩を越えず)」とき、「自我、あるいは、自我という概念、あるいは、自我を理解する能力、は、消失する」という解釈もできるのです。「世界思う、故に我なし」です。
自我とか意識とか言うのは「気のせい」、であるという考え方もあるみたいです。
存在しないわけじゃないけど、錯視した物とか、ホログラフイメージとか、神の見えざる手とか、社会とかが「存在する」のと同じような意味で「存在する」ということみたいです。
「目の前に見えてる地面が存在する」という確信は、地面を踏んづけた経験がたくさんあって、それが落とし穴だったとか幻だったとかいう経験が「ほとんど」なかったから産まれるので、それが「存在する」という感覚なのです。
「経験すると存在を理解する」というのはある意味において正しくなくて「経験したものは存在する」であって、「経験されないものは存在しない」であって、「理解できないものは存在しない」なのです。
ネットによって、「キギョウとコジン」みたいなのを、もっとスケールを大きくしたようなものが経験されるようになってきてて、その体験は、オカルトとか宗教とか呼ばれてた分野の一部を自然科学に持って来るのだと思います。
魔道書を読んだり別な世界の経験をするとSANチェックが必要という気分がちょっと理解できた気もする今日このごろ。
Diska
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