あかまど(仮)

net初心者で自称ソフト技術者。Gamer属性。netは人の望み?それとも?

のれんにはたきこみ。

2009-04-25 19:06:39 | ことば
やってないことについて、反省を求めてもしょうがないのです。
やったとして、
覚えてないことについて、責任追求してもしょうがないのです。
覚えていたとして、
悪いと思ってないことに、謝罪を求めてもしょうがないのです。
悪いと思ってたとして、
認めたら損することなら、逃げとくしか、しょうがないのです。
謝って得すると思ったら、口先で謝るしかしょうがないのです。

多分追い込み方が間違ってたのです。

Diska

意味。

2009-02-03 07:55:24 | ことば
ものを動かしても、心が動かないと意味がないのです。
お金を動かしても、心が動かないと意味がないのです。
意味を与えてるのは心なのだから。

意味を求めないのもひとつの答え。
でも、意味を求めるのもひとつの答え。

自分がいまどっちを選んでるつもりなのか、それだけ思い出して。

Diska

ちゅーず。

2008-02-05 10:37:19 | ことば
突然思い付いた。

スーパーチューズデイってもしかしてchoose dayとひっかけてる?火曜日の謎、解明!」

3秒後に思い直す…

「いや、発音ぜんぜん違うよな。」

そもそもカタカナでも、「慣習的表記」じゃなくて「自分の発音に準じた表記」で書こうと思えば「テューズデイ」と「チューズ」で違うし。
と、思いつつも一応辞書で確認。確かに違う。

Goo辞書: choose
Goo辞書: Tuesday

やれやれ。

と、ここで終わらない。ほんとに関係ないのか?

日本人的、もっと限定して言えば、日本の英語の先生的、文部省的には区別すると思うし、イギリス人が混同することはないと思うけど、Super Tuesdayとは、アメリカ人のアメリカ人に拠る、アメリカ人だけのためのアメリカ語、しかもカリフォルニア語でもニューヨーク語でもなく、全米で使われるアメリカ語。

「カリフォルニア英語では[t]の音は4種類ある」

という英語の先生の言葉を思い出したりする。言語学者とか音素関係に厳しい職業の人でもない限り「寿司(すす)と煤(すす)はちがうべ?茄子(なす)と梨(なす)のどこが同じだぁ?」とか、あるいは東京人でも身近なところでは、mもnもngも「ん」で表記して「明らかに違う発音をしてるけど同じ音」と看做してるような感じで、Tuesdayとchoose dayを同じ音としてとらえてるということはないか。
あるいはダジャレが成立する程度に似てる音として認識してる可能性はあるんじゃないのか?「えらい人」とか、あるいは、広範なアメリカ人が抵抗なく使えるダジャレなのか、あるいは「キャッチとしてはこれぐらいムリがあるダジャレの方が庶民感覚に訴える」とかいう高度な(高度か?)マーケティング的判断があったのか。

これは、アメリカ人に聞く、というか、アメリカ人でもかなり広範囲な地域、クラスで、サンプルを相当数集めないと結論は出せないのかも。アメリカ人は「お国言葉」にやたらプライド高い人が多い気がするから統計も大変に違いない。
WikipediaJの記述に拠れば、「アメリカ南部地域」が発祥らしいから、その辺の歴史的経緯も考慮に入れる必要があるかも。

中途半端な考察おわり。

KimI

ゆめ。

2008-01-31 06:10:12 | ことば
ゆめをみて、めをさます。
ひとは意識無意識にその違いを埋めようとするのです。

その結果が現実と呼ばれるもの。
埋まらなかった結果が痛み。

幻視にして幻肢。

脳は現実を見て、脳は夢を見るのです。
その差分を幻肢痛と呼んだり動機と呼んでみたり。

ゆめをみなくなったり、痛みを感じなくなったら
世界はどう見えるでしょう。どうなるでしょう。
違いがなくなったら。

とりまく世界が、自分と同じものになったらうれしいのでしょうか。
「ほっするところにしたがってものりをこえなく」なったら。
それが幼年期のおわり?

少なくともいまは、わたしはそれを望んでない気がします。

Diska

『編集部の見解・意向を示すものではありません』。

2007-11-09 02:09:31 | ことば
さっき初めて気が付いたのだけど、「Cnet Japanのサイト内にある記事(たとえばこれ)」で、次のような注が付いたものがある。

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。シーネットネットワークスジャパン および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。


以前書いた記事の最後の方で、「Cnetの」態度として、「記者の名前を社名に読み替えて欲しくない=編集者は内容について責任を持たないという明確な編集方針」とか書いてみたけど、それが、明快な形になってる(あるいは、なった)らしい。

とか思ったのだけど、その記事がまた「トップ » ブログ » CNET Japan Staff BLOG »」とかいう場所にあるのがややこしい。しかも「著者:編集部」。

いや、状況はわかるつもり。
編集部BLOGというのがあって、それは「編集員が個人的に、必ずしもCnetの看板を背負わずに書くBLOGサービス」、で、それは「CnetBlogが提供してて、基本的には読者BLOGと同じレベルにあって、たまたま編集部が一般ユーザーとして使ってて、そのアカウントが複数の編集員で共用されてて、そのアカウント名が編集部。」とか。想像だけど、何が起こってるかは納得できる。

いいとか、悪いとか、
「個人が有限時間内に全部の技術記事の内容チェックして責任持つなんてできるわけがない(「責任=首一個」で済むなら話は簡単で、メンバー相互のチェック体制はそのままで、テキトウな人身御供を用意してそれなりな地位につけて、何か不都合がおきたら地位剥奪=尻尾きりで「社会的制裁を受けた」ことにしてけばおっけー。なんなら「ミソギハスンダ」とか言って再利用も可能)という現実に即してる」とか、
どこがリスクを負うのか(端的には、内容保障は、明らかに、読者の仕事)とか、
いろいろ言えそうではあるんだけど、とにかく、ただの記述間違い(編集部BLOGに付ける注じゃなくて、Cnet読者BLOGだけに付けるべき注だったとか)でないのなれば、とても興味深い。

メディアの速度を考えれば、妥当と思うと同時に、たぶん「ニュースサイト読者のもつイメージ」とか、「企業に対する消費者がもっているイメージ」とかとは、かなり違うものになってるとも思う。少なくとも、「編集部の意向」に沿ってる記事と沿ってないかも知れない記事が混在している(各々に明示されてても判別する必要がある)状況に、ぼくは、慣れてない。
イマドキの人に受け入れられるかどうかは疑問だけど、個人的には好意的に受け入れてみたい。

多数決とか民主主義とか、組織とか責任とか、あるいは組織の空しさとか無責任さとか、あるいは敢えてその価値とか有効性とか、いろいろ考えさせられた。

KimI

Webって何。

2007-06-18 20:39:56 | ことば
ニュースとかで、「Second LifeとかのVR系ネットサービスというかオンラインゲームとかそういうの」を指して「Web上の仮想空間」と呼び習わしているのに抵抗があったんだけど、これは用語的にはどうなんだろう?

正直なところ「Web」というのが何なのか、ぼくは知らないらしい。ぼくの知る限りでは、「Web」はわりとあいまいな言葉。

大昔は、Internet全体をサービスとして見た場合の通称だと思ってた。これはどうも広すぎるらしい。
その少し後は、World-wide Webの略で、World-wide Webってのは、「HTTPプロトコルで」、「HTML文書を読み込んで来て」、「表示して、リンクからジャンプとかする」ようなサービス全体の通称だと思ってた。これだとどうも狭すぎるらしい。

XMLが普及して来たりで、HTML以外のマークアップ言語ファイルが主体になるケースが出てきた時点では、まだWebな気がしていた。
XHTMLはもちろん、SVGとかが使われるのは、Webと思う。
VRMLが出てきて、「HTTPのクライアント」が「HTMLのレンダラを持ってない」ケースを目にしても、抵抗なくWeb上の仮想空間だと思った。
Webサービスとかいう言葉(WSDLとかいう文脈の)が出てきた時は、「グラフィカルなレンダラがなくても、パーサとかがあるからWeb」、という認識で特に抵抗なかった。
FlashアプリはWeb?ブラウザなしで動けたりするみたいではあるけど、Flash自体が使う通信手段は確かHTTPだし、XMLのパーサとかも持ってて、通信ではそれを使うのが主流な気がするので、まだWebな気がする。

さて、SecondLifeはHTTPでマークアップ言語をやり取りしてるんだろうか。Second LifeのFAQによると、
Second Life は、ポート 443/TCP および 12043/TCP, 12035/UDP, 12036/UDP, 13000-13050/UDP に接続する必要があります。

ということらしい。まぁ、80番を使わなければならないわけでもない。443のところはHTTP(S)準拠でマークアップ言語でやり取りしてそうな雰囲気。
だけど、これをWebと呼ぶとなると、「じゃあ逆に、WebじゃないTCP/IP上のプログラムって何?」という気もする。

そもそも定義があいまいな言葉、という前提に立つなら、個個人のWebという言葉に関する心象風景とか、Webという言葉にヒトビトは何を期待してるか、とかから考える方が適切なのかも知れない。

KimI

リアリティ。

2007-06-12 02:13:44 | ことば
たぶん、最初の問いは「シミュレーションゲームのテーマで、『0079年頃の戦争』と『1941年頃の戦争』だったらどっちがリアリティ(実感)があるか」とかだったと思う。

この問いは、多分、今も続いてて、似た問いは、ぼくのなかだけじゃなく、世の中で増え続けてたり、あるいは、自明の事となってるんだと思う。

当時の答えは「0079年」。
今の答えも、「1941年」じゃないのは確かだけど。
いや、C.E.70とかいう話じゃなくて。

KimI

美徳。

2007-05-30 01:20:41 | ことば
大臣は何を守ろうとして死んだのでしょうか?
それはうまく行ったでしょうか?
うまく行ったとしたら、守られたものとは?

万一、武士のハラキリのように、自分の名誉が守れるとか、潔白のアカシが立てられると思っていたのだとしたら、それは、正常な判断ではないでしょう。では、ハラキリで守られるものは近しいもの?
とてもえらい人です。正常な判断ができる人で、正常な判断をしたのだと、わたしは個人的には、思っています。

自己犠牲。

明に暗に、彼に犠牲を強いたものがいなかった、というストーリーが描けるほど、シアワセに生きてないのです。
手榴弾を配らなくても、美徳を説けば、そのように動く人はいるのです。

これを「美しい」と思う日本人が多いなら、国民の望むものは、提供されるのかも知れません。

Diska

かっこいい理系。

2007-02-11 19:50:21 | ことば
Slashdot日本語版で、「超能力研究室閉鎖」というトピックが上がってました。

SlashdotJ: プリンストン大学の超能力研究室が閉鎖

で、実はあんまり読んでないのですが、関連ストーリーにある「エスパー清田 再臨」のコメント群をみててちょっと気分が悪くなりました。
Slashdotって理系の巣窟だと思ってたのですが、何か、違います。何と言うか一言で言えば、科学教の巣窟な感じです。がっかりです。非科学的というか、科学「的」過ぎて非論理的です。

理系っぽい人は、常に「再現不可能な事象は論じるに値しない」とか、「目の前に見えている地面が存在するかどうか確証はない」とか、うっかりすると日常生活に破綻を来たすような、科学的な論理を振り回して欲しいです。
既存の理論で解釈不能な事象に出会ったら、無視するか、思い付きの仮説を持ち出して科学考証するか、いっそSF考証するのが理系です。「常識的に考えてウソだよねー。マグレだよねー」というのは理系的にかっこよくないです。理系はかっこよくあってほしいです。

あるいは、もしかすると、イマドキの世代というか社会は、日常がオカルト(確実に観測されてるけど、解釈しがたい事象)でいっぱいで、常に消化不良でおなかいっぱいなのかもしれません。
常識人ぶる態度も、一歩下がって見ると日常生活との齟齬が激しい、破壊的論理に見えて、かっこよかったりする、そんな世の中なのかもしれません。
30年ぐらい前のオカルト映画で流行った「この科学万能のご時世にそんなことは有り得ない!」みたいな、「一見常識人ぽく振舞いつつも、落ち着いて10秒も考えればあまりに無茶な論理」みたいな、「常識人ぶること自体が理系っぽいネタ」だったりするのかも知れません。

うーん。なるほど。
ネタをネタと見抜けませんでした。やっぱりわたしはまだまだnet初心者です(ちなみにキヨタ氏のトピックは6年ほど前の物です)。


SlashdotJ: プリンストン大学の超能力研究室が閉鎖

Diska

協力。

2007-01-30 01:24:59 | ことば
NHKの夕方の報道番組で、「後継者不足から、ライバルどうしで技術を共有して地方の杜氏(トウジ。酒職人のことらしい)」の話と、「伊豆の旅館が外国人観光客誘致で協力しあって、旅館のブランドじゃなくThe Okami(女将)をブランド化しようとしてるという話を続けてやっていた。(実践してるかはともかく)オープンソース信者なぼくとしては、なんか納得する、いい話だったんだけど、根本の背景は「現状の問題の打開」があるというのが目を引いた。

オープンソース、というかFSFは、そもそもは「プリンタのドライバを改造したいのに情報が公開されてない」とか、「プロジェクトが終わったけど開発を続けたい」とか、現状、周辺環境に不満があったから生まれたものなんだろう。


競争とは、参加者の周辺環境に不満があったら、成り立たないものなんじゃないだろうか。「資源が不足すれば競合が起こる」というストーリーを描くために必要な条件は、実はとんでもなく多いんじゃないのか。

たぶん、この競争をどう戦うか、じゃなく、「競争するか、共闘するか」という選択、さらには「ルール変更するか、試合放棄するか」あたりまで拡張しても、それぞれは選択可能な戦略であって、それぞれがどういう環境、どういう戦略での最適戦術か、ゲーム理論的な説明もできるんだろう。
あるいは、スポーツや学校や会社に慣らされた頭が、「そもそも何で競争することを選んだのか」を考えることを邪魔してるのかも知れない。
あるいは、「ゲーム」に。

KimI