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社会福祉の思想は次第に成熟されつつあった。しかし、いつのまにか時は崩壊へと逆行しはじめた。

東京新聞 【特集・連載】岐路に立つ憲法。その60年余を見つめ直します 第5部 不戦のとりで / 番外編

2013年12月12日 03時00分38秒 | Weblog

 

第5部 不戦のとりで<上> 特高のキリスト教弾圧

2013年8月24日

 第二次大戦中、私の家庭は常に特別高等警察の監視下にありました。それは家庭がキリスト教徒であったからです。(中略)現憲法によって、信教の自由はもっとも基本的な権利として大切にされています

 本紙の憲法取材班に手紙を寄せた踊哲郎(おどりてつろう)さん(80)は、東京都練馬区の老人ホームにいた。傍らには、使い込んだ聖書と日本国憲法があった。

 宣教師フランシスコ・ザビエルが日本に初めてキリスト教を伝えた地とされる、鹿児島県伊集院町(現日置市)で育った。一九三〇年、町で最初のキリスト教会を麦野七右衛門(しちえもん)牧師が開き、踊さんの父末治(すえはる)さんは最初の信徒になった。

 特別高等警察(特高)の警察官は、踊さんの印鑑店兼自宅に、客を装って訪れた。天皇批判をしたり、スパイをかくまったりしていないかを疑っていた。家の中での会話も盗聴されるおそれがあり、家族は声をひそめて話した。

 毎週日曜の礼拝も見張られた。麦野牧師が平和の大切さを説こうとすると「中止!」と叫んで説教を止めた。

 日本国憲法は二〇条で「信教の自由」を保障している。しかし、戦前の大日本帝国憲法下では「安寧秩序を妨げず及臣民たるの義務に背かざる限に於 (おい)て」との限定付きだった。天皇を中心とする国家神道を、国民の求心力として利用しながら、政府は戦争へ突入していく。天皇以外を神と信じるキリス ト教は弾圧の対象だった。

   ■  ■  

 伊集院町で麦野牧師が開いた教会は現在、孫達一(たついち)さん(44)に受け継がれている。

 教会は戦争末期、軍に接収され司令部として使われた。祈りの場が戦いの拠点とされることは、何よりの宗教弾圧だった。一九九二年に亡くなった麦野 牧師は生前、戦時中のことを多くは語らなかった。ただ、昭和天皇が崩御した八九年の礼拝で「キリストと天皇のどちらがえらいか、と責め立てられた」と説教 で振り返った、との記録が残る。

 達一さんは「あなたの隣人を、あなた自身を愛するように愛しなさい」という聖書の言葉を「弱者のために自分に何ができるか考えること。憲法の理念 と共通する」と解説する。県内で宗教を超えて、平和を願う集いを開いている。「この国が二度と戦争を起こさないようにしなければ」と話す。

   ■  ■  

 「恐れなく自分の考えを語っていくことこそが大切。社会の不正義と戦うことは苦しいことだけど、生きている人の特権だ」。戦時中に受けた抑圧から、踊さんの信念は培われた。

 戦後、牧師になった踊さんは佐賀県に移り、貧しい人の生活支援などに取り組んだ。七〇年代にはキリスト教系私立高校の聖書科教師になったが、学校 側から生徒のベトナム戦争への反対デモを止めるように求められると「平和のためなら叫んでいい」とデモの先頭に立ち、職を辞した。

 体調を崩し、親族の住まいに近いホームで暮らす今、大学ノートに憲法を書き写す日々を送る。「この自由を守らにゃいかん。絶対に変えちゃいかん」 (大平樹)

     ◇

 憲法について強い思いが込められた手紙が、戦争体験者やその家族から取材班に寄せられている。終戦の月の八月、手紙の主らを訪ねた。

 <特別高等警察> 1910年代に当時の内務省が、社会主義者や共産主義者などを監視する目的で各府県警に設置した。25年の治安維持法制定により、取り締まりを強化した。その厳しさを批判する小説を書いた作家小林多喜二は、特高警官による拷問で死亡した。

 憲法にまつわる体験談や思い、この企画へのご意見をお寄せください。Eメールはshakai@tokyo-np.co.jp 手紙は〒100-8505(住所不要)東京新聞社会部憲法取材班。ファクスは03(3595)6917

 

第5部 不戦のとりで<中>軍国主義教えた国民学校

2013年8月25日

 「子どもたちに命の大切さを教えられなかった。それが一番悔やまれる」。広島市の中心部にあった大手町国民学校の元教員藤川信子さん(88)=埼 玉県三郷(みさと)市=は、セピア色の写真に目を落とした。担任していた二年生のクラス写真を見ると、今も涙があふれてくる。緊張した面持ちの子どもたち の三分の一ほどが原爆で命を失った。

 一九四三年春、女学校を出て十七歳で教員に。歴代天皇の名前の暗記や、わら人形を竹やりで突く訓練など軍国主義的な授業を、当たり前にしか思わなかった。子どもたちには「米兵が来たらやっつけるんだよ」と話すこともあった。

 それでも、違和感を覚える場面はあった。教員を集めて行われた修身の研究授業で、「神様って本当にいるんですか」と聞いた女の子が、職員会議で 「危ない子だ」と糾弾されるのを聞き、背筋が凍る思いがした。神話の授業の指導書には「子どもたちに疑問を持たせぬよう教えること」と書かれていた。

 四五年三月に退職。家族の都合で転居した高松で八月、広島に新型爆弾が落ちたと聞いた。爆心地から約一キロの大手町校は全壊。疎開せず残っていた 数十人が犠牲になった。校庭での朝礼中、整列したまま爆死したとの目撃談もあった。姉のように慕っていた先輩教員も亡くなった。

 終戦後、先輩の初盆を前に、長い手紙を書いた。「今度こそだまされぬ、正しい精神を持って、世界の人々から愛される国民にならなければ」

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 天皇に尽くす「皇国民」の錬成を目的とした国民学校は四一年から、戦後の四七年までの六年間設置された。従来の小学校よりも愛国心教育の色合いが強まり、修身や国語、国史などが国民科として再編された。児童は「少国民」と呼ばれ、教科書で日本は「神の国」と表記された。

 「私たちは一度も『小学校』に通ったことがない」と、本紙の憲法取材班に手紙を寄せたのは、東京都世田谷区の元学校職員高岡岑郷(しんごう)さん(79)。六年間を国民学校で過ごした唯一の学年だ。

 日露戦争で連合艦隊を率いた東郷平八郎と、その側近で後に海軍大臣となった大角岑生(みねお)から一文字ずつとって名付けられた高岡さんは、海軍に入ることを夢見る少国民だった。「戦争に行って死ぬ、それだけをたたき込まれた」

 その価値観が、終戦でひっくり返った。新制中学校に進み、新しい憲法を学んだ時のことを、鮮烈に覚えている。「戦争放棄の文字がまぶしかった」。 自分たちのような教育を子どもたちが二度と受けることがないようにと、定年後の九九年、同級生らと「国民学校一年生の会」をつくり、平和憲法を守る活動を 続けている。

   ■  ■

 藤川さんも、男女平等や平和主義が盛り込まれた憲法を歓喜して受け入れた。結婚して移り住んだ山口県の周防(すおう)大島で、二人の娘を産むとすぐ教員に復帰。憲法の授業になると、あの時代には戻すまいと熱意がこもった。

 憲法を変えようとする勢力が増えたことに危機感を抱き、高岡さんらの国民学校の会に参加。小中学生に戦争体験を話す活動も始めた。「私は戦時中、 子どもを戦争に送ることに疑問を持てなかった。だから今は、おかしいと思うことに声を上げたい」。それは、国民学校の教え子たちへの罪ほろぼしでもある。  (樋口薫)

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第5部 不戦のとりで<下>権力、国家とは何か

2013年8月26日

 何もかも燃えて黒一色となった街。道路に赤い遺体が横たわる。胸に焼きついていた六十八年前の光景を、中嶋彌平(やへい)さん(89)=横浜市= は今春、一枚の水彩画にした。自宅で営むギャラリーで憲法記念日周辺に開催している「憲法を書き展示する会」に出品するためだ。

 東京大空襲があった翌日の一九四五年三月十一日。夜学で化学を学びながら、東京都江東区越中島の陸軍糧秣本廠(りょうまつほんしょう)(兵隊の食 糧などを取り扱う部署)研究科に勤めていた中嶋さんは、学徒動員で来ていた女学生たちの安否を確認するため、墨田区に自転車で向かう。描いたのは、最初に 見た死体。北に進むにつれ被害はひどくなり、道路の黒こげの死体の間を擦り抜けるようにハンドルを操った。改憲が取りざたされる今、展示会で伝えたかった のは「戦争」だった。

   ■  ■

 戦後、神奈川県の高校教員になった後も、化学一筋だった中嶋さんに転機が訪れたのは六〇年。当時、教員に勤務評価を持ち込む国の方針をめぐり、全 国で教育委員会と教員労組の対立が激化し「勤評闘争」と呼ばれた。県教委が実施した組合幹部らの人事異動に、「ノンポリ」(政治的思想のない)の中嶋さん も巻き込まれた。活発に活動していた教員と交換の形で、自宅から遠い高校への異動を命じられた。

 中嶋さんを含む七人が不当人事として県人事委員会に提訴。争いは二十年近く続いた。

 権力や国家とは一体何なのか。縁のなかった人文科学の書籍にも手が伸びた。やがて、民の側から権力をしばる憲法に関心が向いた。

 八五年、前文を毛筆で書くなど、憲法を作品にすることを始めた。作品を募って、展示会を始めたのは三年前。「憲法について話そうとしても人々は乗ってこない。書けば頭に残るかもしれない」。方言で憲法を書いてくる人もいれば、絵を寄せる人もいる。

 「大正生まれの父が長年温めてきた企画展です」。娘の真弓さん(58)は、本紙の憲法取材班に寄せたメールに、そうつづった。

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 権力を持つものと持たざるものでは、戦争の意味合いも違う。「戦争の時に苦労した、というけど全部の人が苦労したわけではない」。中嶋さんが通っ ていた陸軍糧秣本廠には調理師養成所があり、三月の大空襲で焼けるまで、朝と昼に白米のご飯が食べられた。「自慢しているんじゃない。恥じるべき話として 言っている。もっと権力がある人はあらゆる面で困っていなかったはずだ」

 本来、兵隊の栄養補給のあり方などの研究が目的だった研究科では、毒物の研究なども手掛けていた。戦後、研究科の人たちと再会した際、小麦の病気 の一つ、赤さび病菌を風船爆弾に載せ、米国本土を汚染する作戦があったことを知った。菌の培養を命じられた研究者は、赤土をフライパンでいって外見を菌に 似せ、提出したという。「陸軍は『できません』が言えない組織だった。そんなことをしていて戦争に勝てるはずがない」

 異議を唱えられない社会は危うく、もろい。国防軍を創設する改憲の動きなど「戦前」のにおいを感じることも増えた。「今を五十年後の人が振り返ったときに、愚かだったと言われない選択をしなければ。歴史に学ぶとは、そういうことです」 (早川由紀美)

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番外編 司法 独立してこそ

2013年11月10日

 一九五九年、「米軍駐留は憲法九条違反」として、旧東京都砂川町(現立川市)の基地闘争で逮捕された学生らを無罪にした東京地裁の「伊達判決」。 元被告の土屋源太郎(79)=静岡市=は十月中旬、判決を伊達秋雄裁判長(故人)とともに書いた元裁判官、松本一郎(82)を訪ねた。近年、判決を破棄し た最高裁長官が事前に米国側と接触したことが判明。五十四年ぶりの対面は、戦争放棄や司法の独立という憲法の理念を再確認する場となった。 (大平樹)

 「はじめまして、だか、ごぶさたしてますだか。あの時はお世話になりました」。東京都北区の松本宅で、土屋が頭を下げた。砂川闘争でドキュメンタ リー映画を撮った監督の仲介で実現した対面。法廷外で被告と会うのは初めてという松本は「申し訳ないような気もするが、無罪判決だからいいでしょう」と 笑って応じた。

 「改憲派の言い分は米国べったりで日本がステイツ(州)の一つになりかかっていると感じていた」。本紙連載「憲法と、」(四月二十日付)で、判決当時を振り返った松本。この日も伊達が胸に辞表を忍ばせていたことなど判決に至る経緯を約一時間にわたって土屋に伝えた。

 最高裁で有罪が確定後、働き始めた土屋は、元被告だということは胸にしまって生きてきた。基地問題も時折、集会に呼ばれれば顔を出す程度だった。

 しかし二〇〇八年以降、複数の米公文書から、当時最高裁長官だった故田中耕太郎が、米大使側に判決の見通しを伝えていた事実が明らかになった。

 その時の衝撃を、切々と語りかけた。「このまま黙って放置したら、伊達判決の意義までなくしてしまうと思った」「憲法は、国民の人権を守り、権力 を規制するもののはず」。司法の独立が憲法で保障されているのは、時の政権にも物を言えるよう、政治判断からの影響を排除するためだ。なのに、自分たちの 有罪判決が、米国への配慮で導き出されたのだとしたら-。

 〇九年、元被告の仲間らと「伊達判決を生かす会」を結成。田中長官の行動記録などを開示するよう関係省庁に求めているが、回答期限が延長されてい るものもあり、今のところ目立った成果はない。最高裁にも、裁判官の行動倫理を定めたガイドラインがあるのか開示を求めている。

 国会で審議が始まった特定秘密保護法案。成立したら、こうした情報が開示されないどころか、事実を解明しようとするだけで罰せられる可能性もあると懸念する。「そんな法律は絶対、成立させてはならない」

 土屋の話を黙って聞いていた松本は、再び伊達判決に注目が集まっていることについて「死んだ子が目覚めたようだ」と話した。

 最高裁が全員一致で伊達判決を破棄したことに絶望し、数年後に職を辞した松本。半世紀たって明るみに出た裏のからくりに憤っている。「事前に判決を漏らすなんて、裁判官として考えられない。田中さんは裁判官ではなく政治家だった」

 松本との対談を終えた土屋は「今後の運動に励ましをもらった」と意を新たにしている。「米側の意向をくんで判決を出すなんて、二度と繰り返してはいけないことだ。そのためにも真実を明らかにしなければ」 =敬称略

<伊達判決> 1957年に東京都砂川町の米軍基地内に無断で立ち入ったとして、刑事特別法違反の罪に問われた土屋ら7人全員に、米軍基地が憲法9 条に違反するとして、伊達秋雄裁判長が無罪を言い渡した一審判決。検察側の跳躍上告を受けた最高裁は「日米安保条約は高度な政治性を有し」ていることか ら、司法審査の対象外として地裁に差し戻し、土屋らは罰金2000円の刑を受けた。米側の公文書によると、田中長官は公判直前に米大使館のレンハート首席 公使と会い、全員一致で伊達判決破棄を目指すことなどを伝えていた。

 
 

 

 

 


東京新聞 【特集・連載】  第4部 9条の21世紀

2013年12月12日 02時56分17秒 | Weblog

第4部 9条の21世紀<1> 言葉のマジック「非戦闘地域」

2013年6月29日

 イラク戦争、支持-。二〇〇二年末、防衛省の理論的支柱であるシンクタンク「防衛研究所」内の結論は固まりつつあった。米大統領のブッシュはその年の初め、イラクや北朝鮮を大量破壊兵器を保有するテロ国家と非難。開戦は秒読み段階に入っていた。

 毎週のように開かれる研究会。所長の柳沢協二(66)をはじめ、戦争支持の「空気」が大勢を占め、米国の先制攻撃がどのような理論で正当化できるかに議論は集中した。

 主任研究官だった植木千可子=現早稲田大大学院教授=は、反対の論陣を張り続けた。「イラク戦争は、米国の目標とされた国が核武装に走る動機を強める。米国の正統性が失われ、影響力は低下する恐れがある」

 懸念は、後にすべて現実となる。

     ■

 〇三年三月、米国は国連決議のないまま、イラクを攻撃。仏独などが非難する中、首相の小泉純一郎は直ちに支持を表明した。

 植木の手元には、当時議論のたたき台として作ったメモが残る。「日米同盟は、あくまでも国益を守るための手段であって、国益(目的)ではない」。 しかし「米国に異を唱えるのは現実的でない、という雰囲気だった」。七月、人道復興支援を名目に自衛隊を派遣するためのイラク特措法が成立する。

 一九九一年の湾岸戦争でのペルシャ湾に始まった自衛隊の海外派遣。米国に目に見える協力を求められる中、政府は憲法九条とぎりぎりの整合性がとれ る枠組みをひねり出すことで、アフガニスタン戦争でのインド洋派遣など、活動範囲を広げた。イラクへの地上部隊派遣を可能にしたのは、「非戦闘地域」とい う言葉だった。

 「内閣の施策を実現するため、インド洋でも用いられた法的スキーム(枠組み)。だが実際に戦闘が続く国で適用するので、本当にうまくいくのか、厳 しい試験を受けている思いだった」。政府の行為が憲法に沿っているかを判断する内閣法制局で当時次長を務め、後に長官となる阪田雅裕(69)は振り返る。

 防衛研所長から内閣官房副長官補となり、官邸で自衛隊派遣を統括した柳沢には「魔法の言葉」だった。心中には、湾岸戦争で日本が百三十億ドルを拠 出しながら、他国に「小切手外交」とやゆされた苦い経験が刻まれていた。イラク派遣は名誉挽回の機会ととらえた。「外圧に従ったのではなく、自らの意思で 突き進んだ。いかに米国しか見ていなかったか」

     ■

 国際貢献の名の下、戦争に協力する母国を「ペシャワール会」の医師中村哲(66)は苦々しく見つめてきた。パキスタン、アフガンで約三十年間、医療や用水路建設に携わる。砂漠化が進むアフガンで、戦争の疲弊は飢餓をより深刻にした。

 自衛隊のイラク派遣後、活動用車両から日の丸を取り外した。軍事に頼らない日本の戦後復興を、現地の誰もが知り、かつては好感を持たれていた。米国を支援する今、日の丸はテロの標的だ。

 それでも中村は、戦地アフガンにとどまる。「活動できるのは、日本の軍人が戦闘に参加しないから。九条はまだ辛うじて力を放ち、自分を守ってくれている」

   ■  ■

 米中枢同時テロで始まった二十一世紀。試練にさらされる九条と向き合う人々を追った。 =敬称略

 (この企画は、樋口薫、大平樹が担当します)

 <非戦闘地域> 国または国に準ずる組織の間の戦闘行為が行われておらず、一定期間中も行われないと認められる地域。99年に成立した周辺事態法 で、自衛隊が活動できる「後方地域」として定められ、イラク特措法に引き継がれた。定義があいまいとして国会で議論になり、小泉純一郎首相は04年11 月、「自衛隊のいるところが非戦闘地域」と答弁した。

 
 

第4部 9条の21世紀<2> 政界去った戦争体験世代

2013年6月30日

 一九九四年九月、社民党の前身である社会党は真っ二つに割れた。新政治方針を決める臨時党大会。「自衛隊合憲」「日米安保堅持」「原発容認」。従 来路線の大幅転換が、党から約半世紀ぶりに誕生した首相村山富市の発言に沿う形で提示された。沖縄など反対する県本部は修正を求めていた。

 「修正したら村山政権は持たない」。幹部の発言に、反対派をたき付けた党政策審議会の河野道夫(71)は憤った。「自民と交渉もせず、何をおびえ ている」。結局、予想以上の大差で原案が可決。河野は「野党から責められる村山が気の毒、という同情論にやられた」とうめいた。

 改称した社民党からは、旧民主党に半数の議員が流出。九六年の総選挙で、議席数は十五にまで落ち込んだ。かつての野党第一党の凋落(ちょうらく)を、村山の首相秘書官も務めた河野は「党大会が分水嶺(れい)。護憲政党としてのアイデンティティーを失った」と悔やむ。

    ■

 二〇〇三年七月、戦地イラクに自衛隊を派遣するための特措法が、国会で議論されていた。自民党元幹事長の古賀誠(72)は、ハト派の重鎮、野中広務とともに衆院での法案の採決を棄権した。

 湾岸戦争以降、次々と自衛隊が海外へ派遣される現状に、危機感を抱いていた。「たとえ小さな穴でも、一つあけば広がっていく。先の戦争の時もそうだった。きちんとした歯止めが必要」。それが、太平洋戦争で父を亡くした古賀の政治哲学だった。

 護憲政党が力を失う中、自民の重しとなったのが、戦争を体験した世代の議員だった。だが、その思いとは裏腹に、自民、民主の二大政党は改憲に向け歩調を合わせていく。

 〇五年には、約四十年ぶりに設置された憲法調査会が五年間の活動を終え、報告書を提出。改憲手続きに必要な国民投票法案の成立に向け、両党と公明 の三党担当者は毎週のように議論を重ねた。〇七年、「私の内閣で憲法改正を目指したい」という首相安倍晋三の発言が民主の反発を招くまで、蜜月関係は続い た。

 昨年末、安倍が首相に返り咲き、改憲論は再び勢いを増す。古賀や野中らハト派の多くは政界を去った。〇七年まで自民の憲法調査会長だった船田元 (59)は、三年余の自らの落選期間の間に、憲法への自民の姿勢が「乱暴になった」と懸念している。「われわれの考えを憲法に書き込めばいい、という欲求 が高まってきた」

    ■

 社民党職員を退職した河野はイラクに自衛隊が派遣された〇三年、国際法を学ぶため渡英した。九条が空洞化するのは、国連が機能せず、日米安保に頼らざるを得ないからだと、長年の経験で痛感した。「ならば国連憲章を抜本改革できないか」

 英語の習得から始め、足かけ六年で、資料の豊富なスコットランドの大学の修士課程を終えた。帰国後、勉強会を立ち上げ、なお国際法の研究を続ける。

 一年半前には、住まいを沖縄に移した。基地負担を強いられる人々の「怒り」を共有するためだ。「世界情勢に合わせ改憲するのでなく、国際社会の秩序を九条に近づけたい」。高すぎる理想のために、怒りのエネルギーが必要と信じている。 (敬称略)

 

第4部 9条の21世紀<3> グローバル化 揺れる企業

2013年7月2日

 「ホルムズ海峡のタンカーはほとんど日本向けだ。日本は何もしないのか」。イラクがクウェートに侵攻した一九九〇年、ニューヨークでセミナーに参 加していた高坂節三(77)は昼食中、米ボーイング社の部長に意見を求められ、返答に詰まった。当時、商社大手の伊藤忠アメリカの副社長。中東産の原油は 日本経済の生命線だが、自衛隊の海外派遣の前例はなかった。

 「『日本は九条があるから何もやりません。でも、鉄鉱石や石炭はほしいです』って(言えば)、何を言ってるんだとなる」。米国のイラク攻撃直後の二〇〇三年四月、経済同友会は高坂が調査会委員長となり、集団的自衛権の行使容認などを求める意見書を発表した。

 経済のグローバル化が進み、日本企業は人件費の安い途上国に進出し、生産拠点を置くようになった。国内市場が縮む中で海外に活路を求める動きも加速する。九条を変えることを求める経済界の意見も強くなった。〇五年には経団連と日本商工会議所も、同様の意見書を出す。

    ◇

 一方で、グローバル化は国内を空洞化させ、雇用は厳しさを増す。

 二階建てアパートの郵便受けにささったチラシが風に揺れる。シャープ亀山工場(三重県亀山市)近くの山あいに並ぶ六棟計約百室のうち、入居してい るのは数室だけ。「今じゃどこもこんなもの」。地元で派遣労働者の相談に応じるユニオンみえ書記長の広岡法浄(60)は、吐き捨てた。

 亀山工場は、県と市が補助金を出して誘致し、〇四年に稼働を始めた。生産された液晶テレビは「世界の亀山モデル」ともてはやされた。価格競争の激 化、〇八年のリーマン・ショック…。十年とたたない間にグローバル経済の波にのまれ、生産量は落ち込んだ。広岡は「景気が良い時にかき集められた大量の労 働者は、一斉に派遣切りに遭った」と話す。空き家のアパートは、その名残だ。

 相談に訪れた人々にはまず、労働者の団結権を保障する憲法二八条を説明するという。実際には企業側の圧力でつぶされた労働組合もあるが「憲法が権利を保障していることは最後の歯止めになっている」と感じる。

 九条にも同じことを思う。「戦争をしない権利を国民に保障している。歯止めがなくなってしまえば、派遣労働者が企業に使い捨てられたように、弱い人たちが戦争へかり出されるのではないか」

    ◇

 高坂と同じ元商社マンでも、憲法に違う思いを抱く人たちがいる。〇六年に設立された「商社九条の会」世話人の一人、橋本建八郎(74)は「戦後、 商社活動ができたのは九条があったから」と話す。橋本の主な取引先だったアジア諸国は第二次世界大戦の戦地。不戦を掲げた九条がなければ、被害をもたらし た日本の企業は相手にされず、経済復興はなかったと感じている。

 これまで二十回を超す講演会や学習会を開いて護憲の重要性を訴えてきた。「商社は平和産業だ、という気概で仕事をしてきた。ビジネスのために九条を変えるという論理は理解できない」 (敬称略)

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第4部 9条の21世紀<4> ネット世論 改憲後押し

2013年7月3日

 「なぜ、ここまで批判されるのか」。二〇〇四年四月、イラク人質事件で武装勢力から解放され、帰国した写真家の郡山総一郎(41)は、驚きを通り 越してあきれた。危険な地に自ら向かった被害者が悪い、という「自己責任論」の嵐が吹き荒れていた。ネット掲示板「2ちゃんねる」は、中傷の書き込みで埋 め尽くされた。

 イラク戦争の実態を撮影するための、二回目の入国だった。大量破壊兵器が発見されず、戦争の大義が問われる中、武装勢力は自衛隊の撤退を求めていた。「なぜ自分がイラクに行き、なぜ誘拐されたかを考えた人がどれほどいたのか。国の言う自己責任は責任転嫁でしかない」

    ◇

 「ネトウヨ(ネット右翼)」を自称するライター森鷹久(29)は今年三月、コリアンタウンのある大阪・鶴橋で開かれた「反韓デモ」の動画に、言葉を失った。「鶴橋大虐殺を起こせ」と叫ぶ女子中学生に、大人たちが拍手喝采をおくっていた。

 森が保守思想に共鳴したのは、韓国の「反日的な姿勢」に違和感を覚えたことがきっかけだった。「南京大虐殺は捏造(ねつぞう)」「従軍慰安婦の強制連行はなかった」。ネットを巡回し、「マスコミが報じない真実がある」と興奮した。

 だが、東京・新大久保などで起きているヘイトスピーチ(人種差別的表現)の過熱には危惧を覚える。「右派も左派も、ネットでは自分の望む情報にしかアクセスしない。考え方がより極端になり、先鋭化してしまう」

 匿名のネット社会では、過激な発言が「本音」として語られ、独自の「世論」を形成した。「ニコニコ動画」生放送のアンケートでは、延べ約一万五千人が視聴した五月の憲法討論番組で、改憲賛成が八割を超えた。

 そうした層を取り込んだのが自民党だった。六月上旬、東京・渋谷での首相安倍晋三街頭演説。「子どもが誇れる日本を取り戻そう」。呼びかけに、大 きな拍手と歓声が上がった。日の丸を持った女性(38)は「中国や韓国は日本をおとしめている。首相の主張には共感できる」。マスコミに頼らず、フェイス ブックで自ら情報発信しているように感じられ、好感を抱く。

 日本の岐路の一つであるTPPに反対する市民グループが傍ら行っていた抗議活動について、安倍は「左翼の妨害にかえってファイトがわいた」とフェイスブックに書き込んだ。この日の投稿二件に計二万人以上が賛意を示す「いいね!」を押した。

    ◇

 ネットは改憲反対の人々もつなぎ始めている。渋谷での安倍の演説の前日、「安倍のつくる未来はいらない」と叫ぶデモが、東京・新宿で行われた。告知はツイッター。経済産業省前などで原発再稼働に抗議する人たちが呼び掛けた。

 求職中の田中文(あや)(27)は、自民党の改憲草案を読み、安倍政権は「弱者を切り捨てる政治」と感じ、デモに加わった。

 イラク人質事件の起きた春、社会に出た田中は、自己責任が当たり前だと思ってきた。機会や能力を生かせば成功する、失敗すれば自分のせい。だが、抑うつ症状で仕事ができなくなり、セーフティーネットの重要さを痛感した。

 「政府は生活保護費の削減などで自己責任をうたいながら、戦争を経験して得た九条を変えようとしている。貧しい若者が戦争で命を落としたとき、それも自己責任と言われるのだろうか」 (敬称略)

<イラク人質事件> 2004年4月、イラクの武装勢力が、日本から入国したカメラマンやボランティアの男女3人を拘束し、自衛隊の撤退を要求した 事件。約1週間後、全員無事解放された。発生直後から、退避勧告を無視した3人の「自己責任」を問う声が政府やメディアの一部から上がり、自衛隊撤退を求 めた家族とともに、バッシングにさらされた。

 

第4部 9条の21世紀<5> イラク派遣違憲判決

2013年7月4日

 二〇一一年末、米国がイラク戦争の終結を宣言した。戦争の「大義」とされた大量破壊兵器は存在しなかった。米兵の死者数は四千人を超えていた。一方、自衛隊は五年余りの活動で一人の犠牲も出さずにすんだ。

 この事実の受け止め方はさまざまだ。

 「九条の下でも仕事はできたが、制約はあった」。陸上自衛隊のイラク復興支援群長として〇五年一月、サマワに入った太田清彦(57)は振り返る。

 最初の任務は、盛大な送別会の開催だった。現地の治安維持を担当するオランダ軍が撤退し、英国、オーストラリアの両軍と入れ替わる。準備に一カ月半かけた。治安情勢を知るため、他国軍と良好な関係を築く必要があった。

 イラク特措法のもとでは、自衛隊が活動をするには、サマワは「非戦闘地域」でなければならない。だが、他国の軍隊による治安維持が必要なのが実態 だった。三月の記者会見で、オーストラリア人記者にその矛盾を突かれる。「自衛隊は自分の身を守れないのか。なぜオーストラリア軍がガードするんだ」。答 えに詰まった。

 元防衛官僚で内閣官房副長官補として自衛隊派遣を統括した柳沢協二(66)の受け止めは異なる。

 〇四年十一月、サマワの陸自宿営地に、ロケット砲が着弾した際の、政府関係者の言葉に体の力が抜けた。「一人でもけがをしたら、部隊は帰国させないと」

 怒りより割り切りが先に立った。以来、イラクに派遣される隊長らには「何もしなくていい、全員無事に帰国することが最大の任務」と言い含めた。

 退職後、自ら深くかかわったイラク戦争への対応を検証し、「憲法は制約ではなく、よすがだった」と思い至った。在職中、「(自衛隊が)何でもでき る法律」を欲しがる防衛族の政治家と議論しても、その先に何がしたいかは見えてこなかった。「もし九条を取り払った時に、何をすべきか決めるだけの力を日 本は持っているのだろうか」

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 国として是非をきちんと検証しないイラク派遣に、司法は一つの判断を下している。

 「航空自衛隊のイラクでの活動は違憲」-。〇八年四月、関西の法科大学院生だった橋本祐樹(32)は、憲法学の教授から自衛隊イラク派遣差し止め訴訟の名古屋高裁判決の内容を告げられ、耳を疑った。自らも原告に名を連ねていたが、「どうせダメ」とあきらめていた。

 十五歳で軍隊に取られ、中国で人を殺したという祖父の体験を、何度も聞かされて育った。「加害者の立場を強いられたくない」という弁護団の言葉に共感し、原告団に加わっていた。

 北海道の法科大学院生だった池田賢太(29)も「基本的人権は平和の基盤なしに存在し得ない」と断じる判決文に、興奮していた。原告団への参加をきっかけに法曹を志した。「戦後、日本が自由と平等を獲得したように、この憲法の下でなら平和も実現できる」

 橋本と池田は司法試験に同期で合格。偶然同じ北海道の弁護士事務所に勤務する。「違憲判決は裁判所から託されたバトン。日本がまた大義なき戦争に 加わろうとした時、歯止めに使わなければいけない」。訴訟は五年前に終結したが、弁護団は連絡会として残り人数はなお増え続けている。 =敬称略、おわり

 (この企画は、樋口薫、大平樹が担当しました)

 <自衛隊イラク派遣差し止め訴訟> 2004年1月以降、名古屋、札幌など全国11カ所で集団提訴。市民の「平和的生存権」が侵害されたとして、 自衛隊の派遣差し止めなどを求めた。3000人以上が原告となった名古屋訴訟は、名古屋高裁が08年4月、空自の行っていた多国籍軍の空輸を、「他国の武 力行使と一体化した行動」で違憲と判断。差し止め請求自体は棄却され、判決は確定した。