かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 260 韓国①

2024-06-02 11:02:27 | 短歌の鑑賞
  2014年度版 馬場あき子の外国詠34(2010年12月実施)
     【白馬江】『南島』(1991年刊)74頁~
     参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
          T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子   司会と記録:鹿取未放
                

日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵してここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。


260 秋の水みなぎるとなく逝くとなく白馬江あかき夕日眠らす

    (レポート)
 メッセージ性の強い赤でありながら、夕日の場合は、没細部的な景となり、充足や安堵へ導かれるだろう。掲出歌は作者と白馬江の距離のためか「みなぎるとなく」「逝くとなく」として静的な大景が示されている。この二つの否定は悠然たるうちに生きていて永遠のような感じを導き出している。また「秋の水」「あかき夕日」の二つのア音のあかるさが働き、「夕日眠らす」という終末ではない大景へ自然に落ち着いている。印象深い動詞を3カ所配しながら、どれも邪魔にならず、大きな息づかいのうちに仕上がっているのは、白馬江の名による歴史性へのふかい感慨のゆえであろう。(慧子)

   (当日発言)
★否定語を2度も使っているのに、こせこせしていなくて、ゆるやかなリズムが白馬江
 の雄大な景を見せてくれる。白馬江という地名の白と夕日の赤の対比は、下手をする
 とわざとらしくていただけないが、ここではさりげない仕立てで成功している。また
 結句の「夕日眠らす」が独特で、普通は「夕日に輝く」とか「夕日に映える」とかの
 客観描写にするところを、白馬江を主語にして「眠らす」とその包容力を讃えてい
 る。とうとうと流れる大河ではなくゆったりとたゆたっているゆえに、白馬江が夕日
 を入れる揺籃のようで、作者の感動もよく伝わってくる。(鹿取)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

馬場あき子の外国詠 259 韓国①

2024-06-01 11:25:39 | 短歌の鑑賞
  2014年度版 馬場あき子の外国詠34(2010年12月実施)
      【白馬江】『南島』(1991年刊)74頁~
     参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
          T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子   司会と記録:鹿取未放
                

日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵してここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。


259 斉明軍百済とともに滅びたる白村江(はくすきのえ)の静かなる秋

     (レポート)
 掲出歌の意味はよく分かるので、事項を明らかにし、鑑賞にかえたい。( 慧子)
 斉明天皇:第37代天皇。(559~661没)(594~661在位)皇極天皇の
 重祚、舒明天皇の皇后。天智天皇の母。
 百済:朝鮮の三国時代、半島西南部にあった国。4世紀初の馬韓から起こるが、伝説
 ではその前 身伯済国の始祖温祚(おんそ)王は、高句麗から移った扶余の系統と伝え
 る。首都は漢山、のち熊津。任那の滅亡後、新羅、高句麗と抗争。日本、中国南朝と
 は友好関係を保ち、わが国には仏教その他の大陸文化を伝える。660年、新羅・唐
 連合軍に滅ぼされた。
 白村江:村の意を古代朝鮮語で「スキリ」と言い、それが日本書紀に生きていて「白
 村の江」(はくすきのえ)という。地図は省略。
 白村江の戦:天智天皇2年(663)白村江で行われた日本・百済と唐・新羅の水軍
 同士の 会戦。唐・新羅連合軍に侵略された百済の救援に向かった日本軍はこの戦い
 に大敗し、その結果百済王は高句麗に逃れ、王族・貴族の大部分は日本に亡命
 し、百済は滅びた。日本も多年の半島経営を断念。(小学館 国語大辞典)


        (まとめ)(2015年12月)
 『日本全史』(講談社)によると、日本軍が白村江の地で大敗したのは8月28日という。旧暦の8月は当然秋であるが、ここは馬場が旅をしていにしえの戦地、白村江を眺めている秋のことを「静かなる」と形容している。もちろん、663年の白村江の景を二重写しに読んでもいいのだろう。(鹿取)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

馬場あき子の外国詠 258 韓国①

2024-05-31 09:36:03 | 短歌の鑑賞
  2014年度版 馬場あき子の外国詠34(2010年12月実施)
     【白馬江】『南島』(1991年刊)74頁~
     参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
          T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子   司会と記録:鹿取未放
                

日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵してここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。                    


258 たゆたひの心しばしば暗かりし韓国に来つズックを履きて

      (レポート)
 どのようなたゆたいなのだろう。日本と韓国の中世から近世へつづくながい確執を思うと作者の生きてきた時間の中に暗く立ち上がる罪意識に似た思いがあったというようなものであろうか。そんな思いを抱かせる韓国にこの度は「ズックを履きて」やってきたのだ。上の句の暗い心とは反対に下の句は旅にふさわしい軽装を言い、一首に明暗を織り込んでいるのだが、「ズックを履きて」暗くなりがちの心を引き立てているのかもしれない。(慧子)


        (当日意見)
★負い目があってのたゆたい。(曽我)
★そうですね、日本人として負い目があるから韓国の旅をしようかすまいか、たゆたい
 があったが、ようやく決心して旅に出てきた。謝罪の気持ちを表すなら正装すべきか
 もしれないが、旅の移動に楽なようにズックを履いてきた。ますます韓国には申し訳
 ないような気がする。「ズックを履きて」の卑近な例示がリアルだ。「日本と韓国の
 中世から近世へつづくながい確執」とレポートにありますが、そこは違います。白村
 江の戦いは古代ですし、明治から続いた韓国併合、戦争中の諸々など20世紀も21
 世紀も大きな問題を抱えて、今なお確執は続いています。(鹿取)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

馬場あき子の外国詠 257 韓国①

2024-05-30 15:56:44 | 短歌の鑑賞
  2014年度版 馬場あき子の外国詠34(2010年12月実施)
     【白馬江】『南島』(1991年刊)74頁~
     参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
          T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子   司会と記録:鹿取未放
                

日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵して
    ここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教                    へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。


257 秋の草名を知らざれど手に折りて韓の陽眩しわづか目を伏す 

   (レポート)
 「名を知らざれど手に折りて」が作者にしてはおとなしい表現だが、異国にての行為のゆえか、そこはかとなく味わいがあるのは下の句「韓の陽眩しわづか目を伏す」という消極的な行為の為であろう。
 自国と韓国の古代文化のまぎれないつながり、ながい確執など歴史とこの風光の中で、みずからの情緒も含め、「眩し」み「わづか目を伏す」のである。「眩し」の漢字表記は全体を甘くさせない効果があり、三句の「手に折りて」の「折りて」は祈りに似ている。字が似ているだけでなく、掲出歌には祈りにかよう心がある。(慧子)


       (当日発言)
★心の深い歌。結句に思いが凝縮されている。目を伏せているのは韓国だから。
   (藤本)


    (まとめ)2013年9月
 秋草は日本にはない種類のものだったのだろうか。藤本さんの発言は、作者があとがきに述べているような「長い長い歴史の告発を受けているような悲しみを感じて」目を伏せていたのだ、と言いたかったのだろう。作者は韓国の旅の間中、この悲しみを背負っていたのだろう。(鹿取)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

馬場あき子の外国詠 256 韓国①

2024-05-29 10:17:20 | 短歌の鑑賞
  2014年度版 馬場あき子の外国詠34(2010年12月実施)
     【白馬江】『南島』(1991年刊)74頁~
     参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
         T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子   司会と記録:鹿取未放
                

日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵して
  ここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教
      へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。  


256 秋霞濃ゆき彼方に白馬江流るると言へば心は緊まる

      (レポート)
 とにかく秋霞が濃ゆくて白馬江はみえないのであろう。一首は実景に迫っているというより、たとえば松を配するのみの能舞台を思ってみたい。流るると思うでも、流るるを聞くでもなく「流るると言へば」としているところなど、まさしく作者はシテなのだ。「秋霞濃ゆき彼方に」と幽玄を示し、無辺なうちに「心は緊まる」と焦点を絞り込んだ結句だ。(慧子)


        (当日意見)
★ガイドなどが「見えないけど向こうに白馬江が流れていますよ」とあっさり告げた。
 そのあっさりさと、自分の思い入れとのギャップを詠っている。自分の中の白馬江と
 のギャップが主題。(実之)
★私もガイド説をとります。少なくとも声に出して〈われ〉が言ったのではない。この
 作者は「誰か言ふ」などのフレーズが出てくる作り方をよくしていて、そういう場合
 はいずれも天の声のように必要 な言葉がいずこからともなくひびいている感じ。
  この歌を読んで前川佐美雄の「春がすみいよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大
 和と思へ」(『大和』)が脳裡をよぎったが、それも少し計算されているのかもしれ
 ない。 (鹿取)


      (まとめ)
 663年、倭国がここに出兵して大敗をきたした白馬江、いよいよその川にまみえるのかと、名を聞いただけで緊張している場面。
 この一連全体に関係するので作者自身の『南島』あとがきの関連部分を引用する。
     (鹿取)

    「白馬江」は同年の秋十一月、朝日新聞歌壇が催した歌の旅であるが、詞書に
    も書いたような事情で、私は白馬江に特別な感慨をもっていた。美しく、明
    るい豊かな流れが、夕日の輝きの中をゆったりと蛇行していた景観は忘れが
    たい。妖しいまでの淡彩の優美な景の川に船を浮かべて、長い長い歴史の告
    発を受けているような悲しみを感じていた。(鹿取注:「同年」とあるのは歌
    集『南島』のハイライトである沖縄七島を巡る旅をした3月と同じ1987
    年という意味)  

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする