社会は様々な人間が集まっている。構成する人々は、資質・条件・環境などなど、それぞれ異なった状態で生きている。なので、人間みな平等と言うが、実際にはピンキリの生活を送っている。でも、それぞれの状態の中で、誰もが幸せになろうとして、生きていると思う。
自分のことを考えると、今まで生きてきた中で、いつが最も幸せかと聞かれれば「それは、今!」と答える。これはやせ我慢ではなくて、そう思う。多少の躁鬱で、浮き沈みはあるが、平均すれば幸せなんだろうなと思う。では、なぜそう思えるのかを、分析してみたいと思う。
まず、外的要因から。まずは日本が豊かになったのだと思う。美味しい食べ物があるし、皆小ざっぱりした服を着ているし、子供の時の昭和40年代は、こうは整っていなかったと思う。次に、大人になったことで可処分所得が増加したので、思い通りのものを持つことが出来るようになった。車もあるしパソコンもあるし図書もあるし、柴田の欲しいものは、殆ど手に入った気がする。物質的環境的には、確かに豊かになったと思う。
次に、内的要因から。幸せを感じるためには、平均以上の幸運に恵まれる場合と、平均以下の不幸が訪れない場合の、2つがあると思う。柴田の場合、宝くじに当たったわけでもないので、すごい幸運に恵まれたわけではない。むしろ、不幸に会わない不幸を避けてきた、これがポイントだと思う。でも、引きこもっていたわけではなくて、果敢にチャレンジもしてきたつもりだが、常にバックアップや代替手段や担保を考えてきたのだと思う。
柴田の好きな女優冨田靖子さんが主演した「アイコ16歳」の名台詞で、「今が、一番幸せと感じることが出来る!」と言うのがある。これは、能天気なハッピー状態ではなくて、色々ゴタゴタドロドロがあるけれども、それらを1つ1つ乗り越えてゆくなかでこそ、幸せを感じることが出来るんだろうな。
だとすると、人生関数で言うと、幸せは感は関数の絶対値ではなくて上向きの傾きの度合いであって、たとえどん底でも急上昇は至福になるのだと思う。別の言い方をすれば、幸せは速度ではなくて加速度の度合いであると思う。高速道路で100キロでずっと走っていても速く走っている感じはしない。むしろ、50m走で停止状態から時速10キロでゴールを駆け抜けるときにこそ、幸せを感じるのだと思う。
自分のことを考えると、今まで生きてきた中で、いつが最も幸せかと聞かれれば「それは、今!」と答える。これはやせ我慢ではなくて、そう思う。多少の躁鬱で、浮き沈みはあるが、平均すれば幸せなんだろうなと思う。では、なぜそう思えるのかを、分析してみたいと思う。
まず、外的要因から。まずは日本が豊かになったのだと思う。美味しい食べ物があるし、皆小ざっぱりした服を着ているし、子供の時の昭和40年代は、こうは整っていなかったと思う。次に、大人になったことで可処分所得が増加したので、思い通りのものを持つことが出来るようになった。車もあるしパソコンもあるし図書もあるし、柴田の欲しいものは、殆ど手に入った気がする。物質的環境的には、確かに豊かになったと思う。
次に、内的要因から。幸せを感じるためには、平均以上の幸運に恵まれる場合と、平均以下の不幸が訪れない場合の、2つがあると思う。柴田の場合、宝くじに当たったわけでもないので、すごい幸運に恵まれたわけではない。むしろ、不幸に会わない不幸を避けてきた、これがポイントだと思う。でも、引きこもっていたわけではなくて、果敢にチャレンジもしてきたつもりだが、常にバックアップや代替手段や担保を考えてきたのだと思う。
柴田の好きな女優冨田靖子さんが主演した「アイコ16歳」の名台詞で、「今が、一番幸せと感じることが出来る!」と言うのがある。これは、能天気なハッピー状態ではなくて、色々ゴタゴタドロドロがあるけれども、それらを1つ1つ乗り越えてゆくなかでこそ、幸せを感じることが出来るんだろうな。
だとすると、人生関数で言うと、幸せは感は関数の絶対値ではなくて上向きの傾きの度合いであって、たとえどん底でも急上昇は至福になるのだと思う。別の言い方をすれば、幸せは速度ではなくて加速度の度合いであると思う。高速道路で100キロでずっと走っていても速く走っている感じはしない。むしろ、50m走で停止状態から時速10キロでゴールを駆け抜けるときにこそ、幸せを感じるのだと思う。