だいずせんせいの持続性学入門

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なぜ「無謀な」戦争をはじめたのか

2023-08-15 16:56:46 | Weblog

 今年も8月15日がやってきた。なぜ日本はアメリカと戦争をしたのか。圧倒的な国力差があり、そもそも石油の最大の輸入元だった国と戦争をして勝てるわけがない。日本政府は1940年に総力戦研究所を立ち上げて、日米の国力を詳細に比較した上で日米戦争の机上演習を行い、1941年8月には「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に日本の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない」という結論を導き出していた。それなのになぜ「無謀な」戦争を始めてしまったのか。この疑問に答えるために私はずっと昭和の戦争の歴史の勉強を続けている。それは昭和の戦争の反省を戦後の私たちは十分に行っていないという思いからだ。そしてまた次の戦争の呼び声が聞こえてくる。

 1941年4月から、戦争を回避すべく日米交渉が行われていた。アメリカ側の要求の中心は日本軍の中国からの全面撤退であった。それに対し、東条英機首相を初めとする日本の指導者たちは悩みに悩んだあげく、中国からの撤退は、それまでの中国との戦争で戦病死した兵士たちの犠牲を無にするものという思いを断ち切れず、最終的に中国からの撤退を受け入れず、アメリカとの戦争を決意することになった。その結果は、日中戦争の犠牲者をはるかに超える日本軍の犠牲者を出すだけではなく、連合国軍の犠牲者、アジアと日本の市民の巨大な犠牲をもたらして大日本帝国を崩壊させることになった。

 日本軍(関東軍)が満洲事変を起こし、1932年に傀儡国家である満洲国が成立した時点で、日本は国際的な批判の的となり、最終的に国際連盟を脱退する(1933年)。しかしこの時点ではアメリカとの関係は特に悪くなっていなかった。貿易は普通に行われており、日本は石油や鉄製品の原料のくず鉄をアメリカから輸入していた。満洲国は日本の帝国主義的野心に基づく準植民地である。一方、国際連盟の中心メンバーである欧米列強諸国も世界各地に植民地を持つ宗主国だ。アメリカもアジアではフィリピンを植民地としていた。スペインから独立したフィリピン共和国との戦争の末にである。アメリカも日本も同じ「帝国主義仲間」である。満洲の地はもともとロシアが権益を伸ばしていた地であり、アメリカはそれほど興味はなかったものと思われる。

 日本軍はさらに中国軍との小競り合いをきっかけに、大攻勢に出て中国全土に侵攻した。日中戦争の勃発だ(1937年)。ここに来て中国にも利権を浸透させようとしていたアメリカの利害とぶつかることになる。アメリカが警戒感を強める中、天津事件が発生する。日本に協力していた中国人有力者が天津のイギリス租界内で暗殺される事件が起きた。その犯人の引き渡しを日本軍は要求したのに対しイギリス側は引き渡しを認めなかったため、日本軍は租界を封鎖した(1939年6月)。これは中国で得ていた欧米の帝国主義的権益を日本が排除しようとするもので、欧米列強が日本の軍事的行動から「実害」を受けた初めての事件であった。帝国主義国どうしの利権争いである。

 その後アメリカは日本を強くけん制する政策をとるようになる。その表れが1939年7月の日米通商航海条約の廃棄通告だ。この条約が失効すると、アメリカは日本との貿易を制限することができる。くず鉄や石油の禁輸ができるようになるということだ。

 さらにその直後、同じ年の9月にドイツ軍がポーランドに侵攻して第2次世界大戦が始まる。1940年の5月にはオランダ軍が降伏、6月にはパリに侵攻してフランスでは親ドイツのペタン政権が発足する。さらにドイツ軍のイギリスへの空爆が激しくなり、イギリスの敗色が見え始める。

 ドイツの初戦の圧倒的な勝利を見て、日本の軍部・政府は動揺する。アジアにあるオランダ、フランス、イギリスの植民地は黙っていればドイツの権益となるだろう。アメリカから石油と鉄が入ってこなくなっても、石油を産するオランダ領インドネシア、鉄鉱石を産するフランス領インドシナやイギリス領マレーシアを植民地にできれば、経済的・軍事的にやっていけるのではないかということだ。むしろ、ヨーロッパの覇者ドイツと肩を並べるアジアの覇者日本という役回りで、国際的に孤立するドイツと同盟を結び、ドイツに日本がアジアの権益を獲得することを認めさせるのが得策ではないか。

 これが大東亜共栄圏構想だ。日本政府はこの構想に基づいて、まずはフランス領インドシナ(現在のベトナム)に軍隊を進駐することを現地政府に認めさせた。ドイツに敗北したフランスにこの要求を跳ね返すだけの力はなく、まずは北部での日本軍の駐留、空港の利用、物資の輸送などを認めることになり日本軍が進駐した (1940年9月)。

 1940年9月に日独伊三国同盟締結。その直後、10月にアメリカは日本へのくず鉄の輸出を禁止。1941年7月に日本軍は南部フランス領インドシナに進駐。これに強く反発したアメリカは8月に日本への石油の輸出を禁止した。戦争を回避すべく日米交渉が進む中でのことで、この交渉の中でアメリカはフランス領インドシナからの撤収はもちろん、日本軍の中国からの全面撤退を求めた。大局に立ってアメリカとの妥協を追及することできなかった日本軍部・政府は、ドイツがヨーロッパで勝利することを前提に、「無謀な」戦争を決意することになった。

 真珠湾攻撃とともに、イギリス領マレー半島、オランダ領インドネシアへの侵攻が始まり、アジア太平洋戦争が始まった。初戦は大成功で、大東亜共栄圏の圏域を支配下に置くことができ、インドネシアでは破壊された油田施設をいち早く復旧して原油を日本に送ることができるようになった。しかしながら、戦争は長期化し、アメリカの反攻が進む中で日本は制海権を失う。東南アジアから物資を運ぶタンカーや輸送船が次々に撃沈され、現地に物資があっても日本まで輸送できなくなり、大東亜共栄圏構想は潰えた。

 アジア太平洋戦争開戦時に日本国内には相当の石油の備蓄があった。それと国内の原油生産量を足せば、その量は戦争をしなければ平時の経済を1945年(昭和20年)1月まで運営するのに十分のものだった。仮に中国から撤退しなくても、アメリカと戦争しない選択肢はあったのだ。関東軍の参謀として満洲事変を指導し、その後失脚した石原莞爾は、開戦の報に接して「油が欲しくて戦争をする馬鹿がいるか」といきまいたそうだが、これはその通りと私は思う。「戦争をするならば石油が足らない→だから石油を求めて戦争をする」という理屈になり、それはつまり、単に「戦争がしたかった」ということしか動機を見出すことはできない。

 その後期待していたドイツは敗北し、その結果、当初の総力戦研究所の想定通りに日本は敗北した。

 大きな軍事力を手にした帝国主義的な指導者はそれを行使したくなる。その誘惑の前に大局的な判断力を失ってしまうのだろう。ウクライナ戦争は未だに世界が帝国主義の時代にいることを示している。その世界にあって日本は軍事力世界ランキング10位以内の軍事大国となり、さらに「異次元の」レベルで軍備を拡張しようとしている。その先にあるのは決して平和ではなく戦争への道だ。

参考文献

臼井勝美『新版日中戦争ー和平か戦線拡大か』中公新書、2000年

安達宏昭『大東亜共栄圏ー帝国日本のアジア支配構想』中公新書、2022年

広中一成『後期日中戦争ー太平洋戦争下の中国戦線』角川新書、2021年

安冨 歩『満州暴走 隠された構造ー大豆・満鉄・総力戦』角川新書、2015年

大井 篤『統帥の乱れー北部仏印進駐事件の回想』中公文庫、2022年

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