だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

林勝和尚との対話(6)

2016-02-20 01:44:06 | Weblog

私: おかげさまで、身の回りのことは何とかうまく回っていくようになってきたのですが、世界に目を向けると、悲しいできごとが多くていたたまれない気持ちになることが多いです。

和尚: そうですね。

私: 先日はシリアの内戦で病院や学校にミサイル攻撃があり、子どもたちが亡くなったり、包囲された街では食料が不足して飢餓が発生しているとか。何とかならいのか、私にできることはないのか、と思うのですが。

和尚: 本当に痛ましいことばかりです。

私: こうやってのうのうとしていていいのか、という焦るような気持ちになります。こういう時、仏教ではどのように考えるのでしょうか。

和尚: 世の中に悪がはびこっているのは古代インドでも同じだったようで、悪い事をするな、善いことをせよ、というのがお経には繰り返し繰り返し出てきます。

私: どうやったら悪いことをする人がそれをやめるのでしょうか。説得してもダメでしょうし、そもそもそういう人はお寺に来ないでしょうし。神様の罰が下るということでしょうか。

和尚: キリスト教ならそういうことですね。キリスト教徒は死んだら神さまの審査を受けなくてはいけません。生きている間にどれほど善いことをしたか、悪いことをしなかったか。審査の結果がバツなら罰を受けなくてはいけません。そこで神様は悪を施すなかれと人々に命令するわけです。キリスト教の神は創造主であり、この世の支配者ですから。でも仏教ではそのような神様はおりません。仏さまというのは創造主ではありませんから。人に命令する存在ではありません。

私: では、絶対的な存在による命令がないとすれば、あとは人間の個人の努力に任されているということでしょうか。それだとほとんどの人はできないということになりますね。

和尚: 日本の禅の祖とも言える道元禅師が書いた『正法眼蔵』に、唐の有名な詩人白居易のエピソードが取り上げられています。白居易が有名な禅師のもとを訪れて、「仏教の最も重要な教えは何か」と聞いたところ、禅師は「悪を行わず、善を行うということだ」と答えました。白居易は「そんなことは3歳の子どもでも言えることではないか」と言ったところ、禅師は「たとえ3歳の子どもに言えても、八十の老翁でも実践することはできない」と答えたというものです。

私: まぁそれはそうかもしれませんが・・・禅師の答えにあまり深い意味があるとは思えないのですが。

和尚: 実はここから道元禅師の解釈が入るのですが、「悪を行わず」というのは、道元禅師によれば、何か社会の規範があるからとか、罰があるからとか、誰かに命令されたからそうする、ということではない。「悪を行おうとしても行えないような状況になる」ということなのです。

私: どういうことでしょうか。

和尚: 先日久しぶりに町に行く用事があり、電車に乗りました。電車が駅について乗客たちが席はないかとどっと入ってきました。その中に遅れて足の悪そうな老人が乗ってこられた。それを見て席に座っていた青年がすっと立ったのです。その席めがけて、他の人がずうずうしく割り込めるでしょうか。できませんね。その老人が座ることになりました。

私: なるほど。その青年の行動がある状況を作り、そのことによって周囲の人の意識が変わったということですね。

和尚: そうです。この青年はすっと席を立つことによって、本当に小さな小さなことですが、仏の教えを実践したのです。

私: なるほど。ということは、私たちがそういう小さな実践を積み重ねて、悪いことができないような状況を作り出すよう努力するということでしょうか。

和尚 いえ、そうではありません。個人の努力で状況を作り出すことはほぼ無理ですね。そういう状況に「なる」ということです。

私: うーん、よくわかりません。

和尚: 例えば電車に乗っていたのがみんな仏さまだったらどうでしょう。

私: それなら悪は起こりようがないですね。

和尚: そういう状況になればよいのです。

私: いや、ますますわかりません。仏さまというのは悟りを開いた人のことですよね。私たちは悟りが開けていないから右往左往しているわけでしょう。

和尚: 道元禅師によれば、そうではないのです。そもそも人は誰ももともと仏なのだということです。人だけではありません。他の生き物も大地も宇宙もすべて仏なのだということです。

私: ・・・

和尚: つまり、私たちは自分が仏だということ、つまり宇宙の一部である、ということを肝に銘じなさい、ということです。

私: 私も宇宙の一部、ということですか・・・

和尚: 私たちはいつもそれを忘れています。日々の雑事の中でそんな悠長なことを考えている余裕はありませんね。だから、道元禅師が言っているのは、忙しい毎日であっても、自分が仏であることをちょっとでいいから思い出しなさい、ということなのです。

私: ・・・

和尚: 席を立った青年は、そのささいな行為によってプチ仏になったと言えるのです。それを見た周囲の人たちも、仏の心を、自分が仏であるということを、思い出したのです。その瞬間、ほんの一瞬だけだったかもしれませんが、電車の中は仏さまばかりだったというわけです。

私: なるほど。何となくわかるような気がします。宇宙が悪を働くわけにはいきませんからね。大切なのは日々、仏としての自覚を持って生きるということでしょうか。

和尚: そんなに気張る必要はありません。道元禅師は、掃除をしたり料理を作ったりというそういう日常の行為そのものが修行だと言っています。何でも心を込めてやっていけばよいのです。

私: なるほど。それは分かりましたが、最初の質問に対してはどうでしょう。そうやって日常を過ごすことで、シリア情勢に何か貢献できるのでしょうか。

和尚: それは無理ですね。私たちはシリア内戦の直接の当事者ではありませんから。戦争を止めるのは政治の仕事です。私たちは祈ることしかできません。

私: 祈りは通じるのでしょうか。

和尚: シリアの人々は戦争を生きるしかありません。どんなに悲惨な状況になっても、希望を見出すことは可能です。それができるかどうかは、その人しだい、他の人には手助けできません。そして私たちは祈るしかありません。私が宇宙の一部であるということは、私が仏であることを思い出せば、私という宇宙の一部が浄化されるということです。それが広がっていくことを祈りましょう。焦らず丁寧に、心を込めて毎日を過ごしてください。

私: 確かに、私が一人で焦っていてもどうしようもないですね。少なくとも私にできることは、私の毎日を整えることですね。精進したいと思います。今日はありがとうございました。

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