リビングウイル
1)私は脳死からの臓器提供はいたしません。また、私の病気の治療法として臓器移植は選択しません。
2)いかなる病気の治療であれ、治癒を目的にせず延命のみを目的とする治療をしないでください。消化器官の回復が望めない状況で栄養チューブの挿入や中心静脈栄養治療はしないでください。呼吸器官の回復が望めない状況で人工呼吸器の装着はしないでください。
3)強い副作用(特に白血球数の低下)が見込まれる抗がん剤の使用は拒否します。
4)私が61歳の誕生日を過ぎたならば、脳梗塞など脳血管系疾患、心筋梗塞など心血管系疾患で意識を失うか正常な判断力を失った場合には、積極的な治療をせず、必要ならば緩和ケアのみとしてください。
5)環境が整い、家族の負担が耐えることができるものであれば、在宅での死を希望します。
6)私が死亡した際には、葬儀は神道式でお願いします。できるだけ簡素なものにしてください。葬儀後にはささやかで楽しい宴を開いてください。
7)死亡後の財産の処置は妻に一任します。私の債務は住宅ローンと奨学金の二つがあり、これ以外にはありません。いずれも本人死亡の際には、適切な手続きによって債務は消滅することになります。
2009年4月19日 高野雅夫
【解説】
最近、臓器移植法の改正が話題にのぼっていることと、心筋梗塞の患者が病院から救急車による搬送を拒否されて死亡したというニュースに触れて、このようなものを書いてみた。
高度経済成長は日本人の生き方を根底から変化させたが、同時に死に方も変化させた。それ以前には、脳血管系疾患や心血管系疾患でいわゆる「ぽっくり」死ぬ人が多かった。また死因が老衰という人も多く、これは多くは胃がんだったのではないかと言われている。胃がんが進行すると食べ物を受け付けなくなり、あまり苦しむことなく餓死するのが老衰ととられた可能性が高い。
診断技術と治療技術が飛躍的に高まった結果、これらの死に至る病だったものが克服され、日本人の平均寿命は劇的に延びた。これはすばらしい成果であるし、その意義はどれほど強調しても強調しすぎることはない。
しかしながら、自分の死に方ということだけを考えた場合に、疑問に思うこともある。脳血管系疾患や心血管系疾患で倒れても助かる場合が多くなった。それは一方では障がいを負ってその後の人生を歩む可能性があるということも意味している。胃がんは手術によって治る場合が増えた。それは一方では、再発・転移の結果、より治療が難しいがんに苦しむ可能性があるということも意味している。
自分に障がいがあったりがんを生きること自体はそれはそれで受け入れられると思うのだが、気になるのは、私が60歳を超えるころ、日本は高齢化社会のピークを迎えると言われていることだ(ただしこれは今後順調に出生率が向上する場合に限る。そうでない場合には高齢化率は上昇しつづける)。その時の高齢者がこれまで同様、たくさんの手間とお金をつぎ込む医療を望むならば、医療制度は崩壊するだろう。すでに今でも医師不足と働きすぎによる医療従事者の心身の健康障害という形で崩壊ははじまっている。救急車が病院から搬送を拒否される事態は日常茶飯事となってきた。高齢者の医療ニーズが現役世代の医療機会を奪ってしまうことにもなりかねない。
これをどう考えるかはあくまで個人の価値観と判断に任せられるべきである。私は(誰も)他の方の主体的な選択やあるいはそうするほか選択肢のなかった状況について、一切コメントする立場にはない。
ただ、自分自身に限って言えば、ぽっくり死ぬか老衰のように死ぬ方が幸せではないか、と思う。そしてそう望むならば、医療従事者に「できることでもやらない」でおいてもらうことをあらかじめ伝えておく必要がある。本人の適切な意志表示がなくて「できることをやらない」場合には医療従事者は刑事・民事の責任を問われてしまうからだ。法的に効力のある意志表示がどのようなものかもっと研究する必要があるが、とりあえずリビングウイルとして文書にしておくことが第一歩だろう。
第1項目の脳死からの臓器提供はしないというのは議論のあるところかもしれない。私は臓器移植という治療法の意義を認めつつも、現段階ではやはり心から受け入れることはできない。人間はパーツのあつまりではなく、ひとつのスピリチュアルな全体であるというのが私の皮膚感覚だからだ。臓器移植をする場合だけ脳死を人の死とするというのも、しっくりこない。
ただ、自分はいいとしても、仮に自分のこどもが臓器移植でしか助からないとなったら、どう考えるのか。悩まざるを得ないだろうし、臓器移植を選択した場合には(その可能性が高いと思う)、自分の臓器提供も認めることになるだろう。矛盾している、思想的に不徹底と言われてもしかたなく、その批判は甘んじて受けたい。
医療技術が高度に発達したのと同じだけ、私たちの悩みは深くなったといえるだろう。
1)私は脳死からの臓器提供はいたしません。また、私の病気の治療法として臓器移植は選択しません。
2)いかなる病気の治療であれ、治癒を目的にせず延命のみを目的とする治療をしないでください。消化器官の回復が望めない状況で栄養チューブの挿入や中心静脈栄養治療はしないでください。呼吸器官の回復が望めない状況で人工呼吸器の装着はしないでください。
3)強い副作用(特に白血球数の低下)が見込まれる抗がん剤の使用は拒否します。
4)私が61歳の誕生日を過ぎたならば、脳梗塞など脳血管系疾患、心筋梗塞など心血管系疾患で意識を失うか正常な判断力を失った場合には、積極的な治療をせず、必要ならば緩和ケアのみとしてください。
5)環境が整い、家族の負担が耐えることができるものであれば、在宅での死を希望します。
6)私が死亡した際には、葬儀は神道式でお願いします。できるだけ簡素なものにしてください。葬儀後にはささやかで楽しい宴を開いてください。
7)死亡後の財産の処置は妻に一任します。私の債務は住宅ローンと奨学金の二つがあり、これ以外にはありません。いずれも本人死亡の際には、適切な手続きによって債務は消滅することになります。
2009年4月19日 高野雅夫
【解説】
最近、臓器移植法の改正が話題にのぼっていることと、心筋梗塞の患者が病院から救急車による搬送を拒否されて死亡したというニュースに触れて、このようなものを書いてみた。
高度経済成長は日本人の生き方を根底から変化させたが、同時に死に方も変化させた。それ以前には、脳血管系疾患や心血管系疾患でいわゆる「ぽっくり」死ぬ人が多かった。また死因が老衰という人も多く、これは多くは胃がんだったのではないかと言われている。胃がんが進行すると食べ物を受け付けなくなり、あまり苦しむことなく餓死するのが老衰ととられた可能性が高い。
診断技術と治療技術が飛躍的に高まった結果、これらの死に至る病だったものが克服され、日本人の平均寿命は劇的に延びた。これはすばらしい成果であるし、その意義はどれほど強調しても強調しすぎることはない。
しかしながら、自分の死に方ということだけを考えた場合に、疑問に思うこともある。脳血管系疾患や心血管系疾患で倒れても助かる場合が多くなった。それは一方では障がいを負ってその後の人生を歩む可能性があるということも意味している。胃がんは手術によって治る場合が増えた。それは一方では、再発・転移の結果、より治療が難しいがんに苦しむ可能性があるということも意味している。
自分に障がいがあったりがんを生きること自体はそれはそれで受け入れられると思うのだが、気になるのは、私が60歳を超えるころ、日本は高齢化社会のピークを迎えると言われていることだ(ただしこれは今後順調に出生率が向上する場合に限る。そうでない場合には高齢化率は上昇しつづける)。その時の高齢者がこれまで同様、たくさんの手間とお金をつぎ込む医療を望むならば、医療制度は崩壊するだろう。すでに今でも医師不足と働きすぎによる医療従事者の心身の健康障害という形で崩壊ははじまっている。救急車が病院から搬送を拒否される事態は日常茶飯事となってきた。高齢者の医療ニーズが現役世代の医療機会を奪ってしまうことにもなりかねない。
これをどう考えるかはあくまで個人の価値観と判断に任せられるべきである。私は(誰も)他の方の主体的な選択やあるいはそうするほか選択肢のなかった状況について、一切コメントする立場にはない。
ただ、自分自身に限って言えば、ぽっくり死ぬか老衰のように死ぬ方が幸せではないか、と思う。そしてそう望むならば、医療従事者に「できることでもやらない」でおいてもらうことをあらかじめ伝えておく必要がある。本人の適切な意志表示がなくて「できることをやらない」場合には医療従事者は刑事・民事の責任を問われてしまうからだ。法的に効力のある意志表示がどのようなものかもっと研究する必要があるが、とりあえずリビングウイルとして文書にしておくことが第一歩だろう。
第1項目の脳死からの臓器提供はしないというのは議論のあるところかもしれない。私は臓器移植という治療法の意義を認めつつも、現段階ではやはり心から受け入れることはできない。人間はパーツのあつまりではなく、ひとつのスピリチュアルな全体であるというのが私の皮膚感覚だからだ。臓器移植をする場合だけ脳死を人の死とするというのも、しっくりこない。
ただ、自分はいいとしても、仮に自分のこどもが臓器移植でしか助からないとなったら、どう考えるのか。悩まざるを得ないだろうし、臓器移植を選択した場合には(その可能性が高いと思う)、自分の臓器提供も認めることになるだろう。矛盾している、思想的に不徹底と言われてもしかたなく、その批判は甘んじて受けたい。
医療技術が高度に発達したのと同じだけ、私たちの悩みは深くなったといえるだろう。
1点のみ違います。僕は自分の葬儀は自然葬を希望しています。最近、生前の父から勧められて購入した墓地は手離しました。
ワイフとは自分たちの葬儀についてと死に際の医療については何度も話をしています。
具体的にリビングウィルというかたちの文章にしたいと考えていた矢先、だいずせんせいの表明に出会いました。
これをプリントして欲しいとワイフから頼まれています。参考にさせて頂きます。