だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

木の声を聞く

2007-05-12 05:23:42 | Weblog

 私はいろいろなワークショップを開発中だ。昨日は学生といっしょに大学の中にある森に入って、「木の声を聞く」というワークをやってみた。森の中で各自居心地のよい場所をみつけて、15分間じっと木の声が聞こえないかどうか耳を澄ます、という単純なものだ。

 木や草や動物の声を聞けるという人は古今東西を問わず枚挙にいとまがない。先日もテレビで、農場の馬や犬の話を聞けるというオーストラリアの女性が紹介されていた。日本の農家のあるおじいさんは、自分が育てている野菜がこのごろ「水がほしい、肥料がほしい」などと甘えたことを言って困る、というのもテレビでみた。ガワイロ(カッパ)の声を聞いたというのは、ダムで水没しつつある徳山村の元村民平方浩介氏である(平方浩介『日本一のムダ-トクヤマダムのものがたり』燦葉出版2006年)。氏は川の淵で釣りをしていて、どんどん魚がかかるので調子に乗って釣っていたら、目の前の水がザバーと立ち上がって「おおい、まあ、ええかげんにせいやあ」と大声でしかられたという。氏はびっくりして命からがら逃げ帰ったという。旧徳山村には同じような経験をした人が他にも4人いるという。宮澤賢治の『なめとこやまのくま』では、猟師が山で熊の親子の会話を立ち聞きしたり、撃とうとする熊と対話したりする。これは美しい童話であるけれども、賢治の作り話というよりは岩手の山中に現実のモデルがあったにちがいない。

 これらをどう理解したらよいのか。二つの解釈がありうる。第一は近代合理主義的な解釈であり、ようは、聞いたという本人の心の中の声だった、ということだ。動物や植物が何かを発信したのを受け止めたのではなく、その人が勝手に聞いたと感じた、ということだ。その証拠に、聞いたという言葉はことごとくその人の母国語である。動植物がそう都合良くその国の言葉を話すものだろうか。本当に聞いたというよりは周囲の状況がつくりだす心の中の動きによって「聞いた気がした」というべきだ、という解釈。
 もう一つは、実際に動植物が何かを発信し、それをその人が受け止めた、という解釈である。受け止める時に、その人が分かる言語にその人の心の中で翻訳はされているが、あくまでなにものかが発信され、そして確かに受け取られたという解釈。
 実はどちらの解釈でも理解できる。この二つは世界観が異なっており、どちらが「正しいか」はいくら議論しても決着しない。ようは選択の問題である。

 我々は近代合理主義的な世界観をどっぷり伝授されて育ってきたので、第二の解釈は受け入れがたく思える。しかしながら、歴史をさかのぼれば、社会の大多数の人が第一の解釈で日々を暮らすようになったのはほんの数十年のことである。徳山村がまだ存続していれば、いまだに村人たちは第二の解釈をごく普通にしていただろう。この列島に人間が住むようになっておそらく何万年という歴史があると思われるが、その99%以上の時代では人々は第二の世界観で生きていたのだ。歴史の全体をながめればむしろ第一の解釈をとる人間の方が少数派で異端なのである。
 それはなぜかといえば、それでまったく困らなかったどころか、むしろそういう声を聞く能力があることが、生活を成り立たせる上でとても有意義だったからに他ならない。「何度くりかえしてもたりませんが、私たちトクヤマの者たちは皆、そのものたち(トクヤマの生き物たち)の生きている姿に目を楽しませてもらったり、鳴き声になぐさめてもらったり、体を食べさせてもらって、こころや体を育ててきたのです。それこそもう、空気と同じように、あるいは、友だちやきょうだいと同じようにそのものたちと心も体もぴったり合わせるようにして、いっしょにくらしてきたのでした」(『日本一のムダ』p.19)というのは、失って初めて気がつくほどに日常的な感覚であっただろう。

 よく考えてみれば私たちといえども同様な経験をしている。愛するペットが何を言っているか飼い主は分かる。飼い主の言葉もペットは理解する。赤ちゃんは言葉がしゃべれないけれども、親であればその泣き声や表情や身体の動きから何が言いたいかわかるものである。「ああそうかね」と言ってあやすではないか。外国に行って言葉が通じなくても仲良くなれる。ようは「心も体もぴったり合わせるようにして、いっしょにくらし」ていれば、何とでも会話ができるのである。
 そして、トクヤマの人々が遅ればせながら経験したように、私たちは木や草や野生の動物たちと、「心も体もぴったり合わせるようにする暮らし」を失ってしまっているというわけだ。その原因でもあり結果でもあることとして、道路建設や河川改修をするために平気で森林を破壊し川床を破壊する。私たちはそこでいのちが失われていることに痛みを感じられなくなっている。これはそれまで人々がもっていた感覚や能力の喪失というべきであり、それはすなわち持続不可能な暮らしである。

 持続可能な暮らしがどのようなものかを想像すると、それはよくはわからないが、少なくとも再び木や草や動物たちと「心も体もぴったり合わせるようにする暮らし」であることは確かだろう。そういう暮らしを創り出そうとすれば、「木の声を聞く」ことができるようトレーニングをすることは有意義なことではなかろうか。
 ある人が何を言いたいのかよく分からない時に、安易に質問を発したりするのは、むしろその人に抑圧感を与え遠ざけてしまうことがある。そういうときは辛抱強くじっと耳を傾けることが大切だ。森の木々も何かを言いたいかもしれないではないか。

 学生たちと雨にむせぶ森に入った。傘をさしながら、雨音や鳥の鳴き声にまじってなにかの声が聞こえないか、じっと耳を澄ました。15分という時間は永遠のように長くもあり、まばたきのように瞬間でもあったような気がする。集まってもらって学生たちに聞くと、さすがに木の声が聞き取れた者はいなかったが、少なくとも退屈はしなかったようだ。街中で15分つったっていると必ず退屈するだろう。ということは、木々となにがしかの対話があったのではないかと思う。
 私はというと、ある方角の木々が、雨というのにわざわざやってきた我々に関心を抱いて、逆にこちらの関心も引こうとしているような気がして、そちらに釘付けになった。それは、このようなトレーニングを重ねていけば、そのうち本当に声が聞き取れるようになるかもしれない、と思わせるには十分な成果だった。

 森の中で私は学生たちにこう話した。これから研究を進めていく上で必ず行き詰まる場面があるだろう。それを突破してはじめて新しい発見というものがある。その時に、自分一人の力でそれができると思わないでほしい。また、仮にできたとして、それが自分一人の力でできたと思わないでほしい。君たちには40億年の生命の歴史の中で獲得されたさまざまな能力が備わっているからこそ、それができるのだから。そしてどうしても困ったことがあったら、ここにきて木々に相談してみるのもいいかもしれない。木々がよい助言をしてくれるかもしれないから。
 実はこういうことをしゃべるつもりは全然なかった。木々が私の口を使って学生たちに語りかけたのかも知れない。 
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4 コメント

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拙作「日本一のムダ」について (平方浩介)
2007-05-20 19:37:19
著者の平方です。とても丁寧な読み方をして頂いて、嬉しく思っています。
私たち人間が、私たち人間にだけに通じる言葉を作り出してしまったお陰で、地球上の全てをまるで独占してしまったかのような錯覚に陥ってしまい、そのために人間以外の植物も含めた生き物たちの声も心も聞こえなく見えなくしてしまっているという趣旨に注目して頂いたことに、お礼申し上げます。
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初めまして。 (ウリカエデ)
2007-05-22 13:33:52
初めてこちらにコメント致します。
こちらのブログをFさんのの紹介から知りました。
木の声を聞く、ということ。いいですね。
良く周囲の草花や鳥、虫などを見にほっつき歩いている自分ですが、自分自身の心のアンテナを研ぎ澄まして、生き物の声なき声に耳を傾けていきたいと思っています。
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THANKS! (daizusensei)
2007-05-22 22:32:26
平方さま>コメントをいただけるとは感激です。ありがとうございます。『日本一のム/ダ』には本当に感銘を受けました。家を燃やしてしまう場面にはもらい泣きをしました。オサキさまの物語は何度も読み返しました。
先日たまたま通りかかった地下鉄丸の内駅に沈んでゆく徳山村の写真が展示してありました。学校がだんだんに沈んでゆくようすがなんとも痛ましく感じられました。写真に添えられた言葉によると、村のお年寄りたちはその光景を見て手をあわせて拝んでいたそうです。
私がよく行く愛知県豊根村も新豊根ダムの底に数十軒の集落が水没しました。30年以上たった今でも湖畔にはその一軒一軒が記された比較的新しい大きな地図看板が立っています。
せいぜい50年か100年くらいしか機能しないダム(しかもあまり役にたたない)のために、何万年も続いた生き物たちの暮らし、何千年か続いた人々の暮らしが失われるのを見るのは本当につらいです。
(平方さま、よろしければメールをいただけると幸いです。masao@nagoya-u.jp
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THANKS! (daizusensei)
2007-05-22 22:37:33
ウリカエデさま>私も日々精進と思って野山を歩いています。はやく畑の野菜の言うことがわかるようになりたいです。
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