持続可能な社会、といっても、それがどのようなものなのか、想像することは難しい。分からないものを目指せといっても無理な話である。もちろんその姿が今の時点で明快に分かっているわけではない。それは新しく作り出していくものだというのも、またもう一つの真実だ。
しかし、そう言っていると議論がどうどうめぐりをして少しも先にすすまない。それで、一計を案じて、でたらめでよいからとにかくその姿をイメージしてみよう、ということで、小説のスタイルで持続可能な社会のようすを想像して書いてみたのが「風森まちのお気楽日記」である。こういうふうになる、と予言しようとしたものではなく、こういうふうにならざるをえないなぁ、ということと、こうなるといいなぁ、ということをないまぜにして書いてみた空想小説である。
空想ではあるけれども、ある程度は持続可能な社会の骨組みがどうあるべきかを私なりの理解で理論的に展開した結果でもある。そこで、ここでは未来の研究者になったつもりで、風森まちの社会がどのような仕組みでなりたっており、そこに住む人々の暮らしはどういうものなのか、研究成果を発表してみたい。以下、「現在」といっているのは、21世紀後半のこと。空想のまちについての空想の研究なので、そこのところよろしく。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
今日は、現在の日本の中部地方のまちである風森まちを概観し、その住民たちの暮らしが昔の持続不可能な暮らしをしていた人たち(つまり21世紀初頭を生きた祖先たち)とどう違うかという点を述べる。
風森まちは、まちの中央に盆地状に平地が広がる。その中にある集落には住居の他に商店や工房、ちいさな町工場などがあり、学校や保育園、診療所、老人介護施設、集会所などがある。生活はだいたい徒歩か自転車で足りる。集落の外側には農地がひろがっている。専業農家もわずかにいるが、多くは各世帯がもっている自給農園である。米、芋、野菜などは世帯ごとにほぼ自給している。たいてい家畜も数頭飼っていて、ミルクや卵をとる。糞尿はメタン発酵層でメタンガスを回収して家庭内の煮炊きや冷暖房の熱源として利用し、残渣は液肥として農地にまく。
まちの周囲は低い山々が連なる。低いところは家畜の飼料用の採草地である。その上は森林に覆われており、山の麓には製材所と木を燃料とする発電所がある。小さな沢や用水路には小水力発電装置が並んでいる。山の尾根には風力発電の風車が数基、優雅に羽根をまわしている。尾根をこえると隣のまちで山からすぐに海を望むことができる。
昔(19世紀から21世紀前半まで)は、大量生産・大量消費の時代であった。これを正確に表現すると、資源の大量採取・大量生産・大量消費・大量廃棄ということである。21世紀の半ばになると、石油や貴金属をはじめとして重要な地下資源は生産のピークを通り越し、生産は減退し始めた。地下資源の豊富な国や有力な一部の国がこれらの資源をを独占したので、日本には入ってこなくなった。材料が調達できないので、大量生産工場は軒並み生産ラインの停止に追い込まれた。自動車など機械類は徹底してメンテナンスをしながら長く使い続けるようになり、寿命が尽きて廃棄されれば素材は徹底的にリサイクルされるようになった。
同時に、食糧や木材など海外の生態系資源に依存していたものも調達が困難になった。これは製品を輸出して外貨を稼ぐ製造業が崩壊したこととともに、世界の土壌、水資源、森林資源が破壊されたためでもある。
そうすると、日本国内にある生態系資源の活用がすすんだ。耕作放棄地は解消され、裏作も復活し、農業生産は格段に増加した。地球温暖化によって冷害の被害が減少したのも幸いしている。森林は管理がすすみ、優良な木材が供給されるようになった。プラスチックがなくなったので、代用品として竹を編んだものや竹の繊維を樹脂で固めたものが使われるようになった。
食品や木材の残渣、人・家畜の糞尿をはじめ、有機廃棄物は徹底して活用がはかられた。家畜が食べられるものは飼料として、次に肥料として、最後にエネルギーとして活用されるようになった。
そうすると、川や海に栄養物質が流れ込むことがなくなり、みるみる水質が改善された。海外から船舶が昔ほど来なくなったので沿岸部の広大な埋め立て地は不要となり、再び干潟や浅場に戻された結果、内湾は生き物であふれかえるようになり、一時途絶えていた水産業も現在では活況を呈している。
大量生産方式の製造業は衰退した。海外に製品を輸出するほど材料は調達できないし、使い捨ての文化は消滅したので、需要は少なく、したがって労働時間は短い。それにつれて家計は円の現金収入が減少した。一方、何事も少量生産品、手作り品になり、また輸送のコストが格段に高くなった結果、商品価格は高騰した。そこで一時期人々の生活は困窮した。
一方、21世紀前半に最後まで高率関税で保護されていた米まで貿易自由化されたために、国内の米作は崩壊し、農地は大量に耕作放棄された状態だった。そこで、政府は耕作放棄されていた農地の耕作権というものを法律的に確立した上で、それを国民に分配した。今では誰でも基本的な食糧を自給できるだけの土地の耕作権を確保することができる。荒廃した農地を開墾したり、かつて工場や住宅地だった土地を新たに農地にしようとすれば、さまざまな支援が得られた上で優先的に耕作権が割り当てられる。一定期間耕作を休止すれば耕作権を失うことになる。このような農地に関する制度の整備は第2次農地改革と呼ばれる。
人々は午前中は会社で仕事をして円の現金収入を得て、午後は自分の田畑で農作業に励むのが毎日の日課である。私はこれを半農半勤のライフスタイルと呼んでいる。
会社といってもすべてNPOである。(NPOと営利企業の違いは、生じた利益を出資者に分配するのが営利企業、分配せず将来の活動資金に回すのがNPOである。)投入した資本が増殖し続ける(しかも指数関数的に成長し続ける)というのは、地下資源を投入できず、人口も増加せず、使い捨て文化が消滅した今日、不可能となった。この状態で安定して運営できるのはNPOのみである。まちには小さな自動車工場などがあるが、これらもすべてNPOである。
ところで、午後の時間を全部使わなくても食糧自給はできるので、余った時間はまちの共同作業にあてられる。その中には木の伐採をはじめとする森林の管理や、飼料・肥料の調達、用水路の管理、風車や水車などエネルギー施設の整備、道路の補修、公共施設の整備、などがある。まちの共同作業に出れば地域通貨である「きずな」をもらえる。この地域通貨のシステムがまちの仕組みの根幹となっているので、次回詳しく解説しよう。(つづく)
世界中がまったくもってそのようにあったらと切望してしまいます。
今の資本主義の限界が見え隠れし始め、崩壊を向かえたとしたら、何が来るのか・・・・。衝撃はどのように生まれて越えられるのか・・?
クライマックスを迎えた後はちいさな単位での地域社会の循環が大切なんだと見えてきた気がします。
でも、風景になぜだか子どもの頃の面影が見え隠れしているような・・・。
以前、某地でのエクスカーションに行った時、クライマックスを迎え混沌な状況を越えた後の社会を話し合った事があります。
日本もいずれその様な時期が訪れるのでしょうか。
空想小説を読んで想いは深まります。
最新技術と循環社会の融合を話していたのですが、
最新技術と言う物は理想的な効率を生むようでいて、実はなんら変わらず、負荷をどこかに集約すると言った事実があるような気がします。ここが難しい所で、効率的になった面をどこに向けるか、そして負荷の集約をどこが負担するかが問題なのでしょうね。
自然エネルギー利用や有機農業には新しい技術が必要で、私もそのような技術開発の研究をしています。
一方、大量生産・大量消費をもたらしたのも技術です。技術がもたらした問題を技術で解決するというのは、よほどうまくやらないかぎり無理でしょうね。
これまでは技術による効率上昇がより大量の製品をつくり、単価を安くする方向に働きました。ひとびとはよけいに忙しくなりました。
厳しい肉体労働を軽減して、仕事を楽しめるようにする技術でありたいのに、それが今日では労働を無味乾燥にしながらさらに強化する方向に働いています。
人口が減少し、需要が減るこれからは、効率上昇が労働時間の短縮に向かうことを切に願います。
実際に農業ではこのようになりました。米作りが機械化されたおかげで、反収も若干あがりましたが、もっと劇的に変化したのは労働時間で、かつての数分の一の時間で米が作れるようになりました。そしてこの時間を利用して農家は兼業化(つまり半農半勤)していったのでした。