だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

人生が「意味」へと疎外されないように:真木悠介『気流の鳴る音』×pha『持たない幸福論』

2019-03-07 12:56:13 | Weblog

(NPO法人都市と農山村交流スローライフセンター会員誌「スローライフ」に寄稿した文章を再掲します。お題は「自分が最も影響を受けた本と今皆さんに読んでもらいたい本を紹介する」でした。) 

 

「ドン・ファンが知者の生活を『あふれんばかりに充実している』というとき、それは生活に『意味がある』からではない。生活が意味へと疎外されていないからだ。つまり生活が、外的な『意味』による支えを必要としないだけの、内的な密度をもっているからだ。」 真木悠介『気流の鳴る音』筑摩書房、1986年(p.146)

 

 中学高校生の頃天文少年だった私は、科学者になることを夢みて名古屋大学理学部に入学した。学問への憧れは人一倍大きかったと思う。しかしながら、いなかから都会に出てきた私は、あっという間に今でいうところの適応障害となり、まったく勉強ができなくなった。もうここにいてもしようがないと思い、大学を休学して日本各地を住み込みの仕事をしながら転々と渡り歩いた。不思議なもので、2年もまったく勉強をしなかったら、何となくしたくなったのである。ただし、社会の底辺のようなところを渡り歩いていて、自然のことよりも人間社会のことを学びたくなった。それでたまたま読んだ本の著者の一人であった当時東京大学教養学部の社会学の教授に手紙を書いて、もぐりで一年勉強させてもらえないかとお願いしてみた。ずいぶん乱暴な話であるが、その教授はていねいな返事とともにOKをくださった。それで東京に移動して安い下宿に住み、週の半分は工事現場のガードマンのアルバイトをしながら、教授が担当していた社会学のゼミに出させていただいた。

 東京大学の教養学部は駒場にあり、一方社会学のいわば「本山」の講座は本郷の文学部にあった。当時そこで教授をされていたのが見田宗介氏であり、私は直接会うことはなかったが、話にはよく聞いていた。見田氏は本名で書く本と、ペンネームである真木悠介の名で書く本があった。『気流の鳴る音』はそのようなときに出版され、さっそく購入して読んでみた。

 ところがさっぱり理解できない。でもなぜかとても心惹かれる本であった。いくつものエピソードが書かれてあり、その中で、木や草と会話する法主の話など不思議な話が出てきて、何となく心に引っかかったのである。

 この本は、メキシコのインディオ、ヤキ族のシャーマンに学ぶ話である。アメリカの人類学者がフィールドワークを行って、シャーマンであるドン・ファンから学んだことをまとめた論文を、著者(真木氏)が著者自身の問題意識に基づいて読み解き敷衍しながら考察を加えたものである。

 当時私はゴリゴリの唯物論者であった。自然科学の世界では「物理学帝国主義」とも言われた時代で、この宇宙のすべての現象は(人間社会も含めて)少数の物理法則で記述し理解できる、というある種尊大な空気があった。私もその空気の中で理論物理学をやりたいと思って大学に入ったのである。また社会科学を学ぶようになってまず勉強したのはマルクスで、「科学的社会主義」「史的唯物論」というようなキーワードに近親感を感じたのである。

 しかし、東京でのもぐりの勉強を終えて大学に戻ってからも、私の毎日には空しさがまとわりついていた。時々、何をやっても灰色の風景に包まれて心躍るということがない状態がやってくる。私はひとかどの人間になるために生きるための意味を求めていた。そしてその意味を見出すのは困難だった。

 時は流れ、大学の教員になってそれなりに一人前の科学者になってきたころ、名古屋大学に環境学研究科を新設するという話がお上から降ってきて、私は理学研究科からそちらに移ることになった。そこでまず取り組んだのが再生可能エネルギーの研究で、特に木質バイオマスついて取り組んだ。当時、東海地方で初めて木質ペレットの生産が始まっていた愛知県豊根村に学生たちと何度も通って勉強した。

 その時に、村の人たちと話しているといろいろと不思議な話が出てきた。民俗資料館で時々変な音がするが、誰が持ってきたかわからない資料が怪しいとか、節分の豆まきには手順が大事で、部屋の奥から表に向けて鬼を追い出すようにしなければならないとか、昔は集落で事故や伝染病などが発生すると、皆で行列を作って集落のはずれまで行って結界を張って帰ってくる、その時後を振り返ってはいけないのだ、とか。

 また豊根村には、夜通しで舞を奉納する花祭という伝統行事があり、それが集落ごとに行われていた。それを見に行った時にびっくりしたのは、一つの演目が2時間近くあり、それを舞う4人の舞い手はとても通常の体力では続かないだろうと思えるのに、太鼓のリズムに操られ時に激しく時にゆったりと舞い続けていた。舞場の中央には大きな釜で湯が炊かれ、ゆらゆらと湯気が上がっている。この湯気を通って日本中の神様が釜の中にやってくるのだという。舞い手にはその神様が乗り移っているとしか思えないのである。祭の最後にこの釜の湯を舞い手が観客にしぶきを上げてかけまくり、皆びしょ濡れになる。これは神様と一体となるということなのだ。

 豊根村の村民たちは、目に見えない神様(良い神様も悪い神様も)と普通に一緒に暮らしているような感覚があった。私はその感覚に感化されていった。目に見える世界の外側に実はとても豊穣な目に見えない世界があるのではないだろうか。そうだとしたらそれをハナからないものとして見ようとしないのは、間違った態度なのではないだろうか。

 その時に、ふと気がついておよそ二十年ぶりに『気流の鳴る音』を読み直してみたのである。そうしたら、今度はかなり理解できた。

 私たちは日々現状を分析し、課題を設定し、目標を設定し、計画を立て、行動を評価し、結果を出そうとする。何かを達成するために努力する。そこに生きる意味がある。これは近代社会の「型」である。目標を達成できていない段階で止まっていては意味がない。しかしながら、よく考えてみると、目標が達成されると、その瞬間にもうその目標には意味がなくなるのである。より良い未来のために現在を犠牲にするのが私たちの日常である。本書によればそれは「意味に疎外されている」ということだ。外的な「意味」に寄りかかることなく、今、ここにあることが充実しているような暮らし方は、私たちが教わってこなかったものである。

 私は、私が空しかったのは人生に意味を求めていたからだ、と合点したのである。もともと人生は空っぽなのだ。うすうす気づいていたのに、そうでないと信じこもうとしていたのだ。このことを理解すれば、将来の目標達成に意味を見出すことはもう必要ない。今、ここにあるものを丁寧に心を込めて味わい過ごせばよい。街を歩く一歩一歩を意識して味わう。満員電車に乗っていても加速したり減速したりする感覚を楽しむ。当時はそういう「トレーニング」をやったものである。「外的な『意味』による支えを必要としないだけの、内的な密度をもっている」生活を常に意識し、自分の暮らしの「型」とすることによって、ずいぶん私の人生は楽になったと思う。

 

 さて、豊根村で勉強してよくわかったことは、木質バイオマスの資源は無尽蔵と言ってもよいくらいたくさんあるにもかかわらず、村から若者がいなくなり、豊かな森を管理する人がいなくなり、花祭も消滅しつつある現実であった。まずは山村に若者が暮らすようにしなくては、この豊穣な世界が消滅してしまう。それで私は過疎問題に取り組むようになった。

 縁あって豊田市のいなかに通うようになり、そこに移住してくる若者たちと出会った。彼らは、私が何十年もかけて経験と学習を蓄積して初めて到達したような感覚を、さらっと自然に持っていなかに来ていた。「さとり世代」と言われる所以である。その感覚の全体像をみごとに言葉にしているような本がpha(ファ)著『持たない幸福論』幻冬舎、2017年である。著者は1978年生まれ、大学を出ていったんは就職するものの28歳でやめ、それ以来、「毎日ふらふらしながら暮らしている」(カバーの著者紹介より)。章のタイトルは「働きたくない」、「家族を作らない」、「お金に縛られない」と続く。

「みんな何もせずにぼーっとしているのが苦手だから、何か意味のありそうなことを見つけてやって時間を潰しているだけ、ということが世の中には多い気がするのだ。よく働く人というのは、一つの仕事をこなしたと思ったらまたどこかから新しい仕事を次々と見つけてきて常に忙しく動き続けてたりするけれど、それはまあやったほうがいいけどやらなくてもそんなに問題が起きるものではない、という程度のものであることも多い。だったら、それをやるかどうかはあくまで個人の趣味の問題だ。」(p.32) 

 「良い大学を出てちゃんとした会社に就職しなければダメだ」という近代の「型」を心の底から身につけた私たちは、それから外れて自由に過ごしている人を弾圧する。その心持ちの底にあるは「自分はこんなに我慢しているのに一人だけ良い目をみてずるい」という嫉妬心だと思う。本当は意味がないことをさも意味があるように振舞って自分を自分で縛り付けている。そんなものはすっきりやめてしまおう。やってみたらこんなにいい感じだよ。著者はさらりとそう言いのける。

 あくまでやさしく軽妙な語り口ながら、論理展開はしっかりしていて感心する。単に感性で語っているのではなく、かなりシッカリした思想的な裏付けがありそうだな、と思っていたら、文庫版へのあとがきに次のような記述があった。

「この本は僕が二十歳前後の頃にとても影響を受けた、社会学者の見田宗介先生のことを主にイメージしながら書いた。・・・僕が見田先生に最も影響を受けた点は、『自分にとって本当に切実なことを追求しなければいけない(それ以外のことはどうでもいい)』という姿勢だ。文章を書くときには、いつもそのことを思い出すようにしている。」(p.214-215)

 なるほどと思うとともに、年代は違っていてもやはり二十歳前後で見田氏の著作に触れて影響を受けたものとしては、思いがけず旧友にあったようなうれしい気持ちになったのである。ちなみに文庫版の解説は東京大学を定年退職して久しい当の見田氏が書いていて、世代を超えて共鳴する思いを味わうことができる。

「世の中の空気のようなものを変えるにはどうすればいいかというと、結局、それぞれの人がしっかりと考えながら自分の人生を生きて行くしかないのだと思う。・・・そんな風に新しいものを取り入れながら自分で生き方を工夫していくような人の人生や生活のサンプルが、十年後や二十年後の世界には今より何百万と多く蓄積されているだろうし、そうすればその頃は今よりも、もっと生きやすくてもっと選択肢が多くてもっと楽しい社会になっているだろう。そんな未来に期待している。」(p.207-208)

  今は、私の人生もそのようなサンプルの一つになれるといいなと思うのである。

 

 

                                                                                                      

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