だいずせんせいの持続性学入門

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農村の貧窮と昭和の戦争

2023-03-15 10:13:08 | Weblog

 昭和の暗い歴史について書かれた2冊の本を読んだ。エィミー・ツジモト『満州分村移民と部落差別—熊本「来民開拓団の悲劇」』えにし書房2022年、寺島英弥『二・二六事件 引き裂かれた刻を超えて—青年将校・対馬勝雄と妹たま』ヘウレーカ2021年。満州移民と二・二六事件。どちらも背景には昭和に入ってからの農村の貧窮があった。

 私たちには、「農村は貧しい」というイメージがあるが、江戸時代はそうでもなかった。百姓は基本的には自分の土地を持ち、自立自営の農業を営んでいた。村の自治の構成メンバーとしての役割も果たしていた。重い年貢の負担にあえいでいたというイメージがあるが、必ずしもそうではなかった。毎年の年貢の米の量は、基本的には検地によって定められており、その値は江戸時代を通して変わらなかったので、農業技術が向上して反収が増えるにつれ農家の取り分が増えていった。さらに不作の年には村として代官所に交渉して年貢をまけてもらっていた。年貢の請求書は各家に行くのではなく村全体で1通であり、庄屋がその取りまとめをやった。村の中では庄屋の指導のもとで各家が所定の年貢が納められるように助け合った。大規模な灌漑施設の建設などは村々の庄屋が共同して代官所に陳情し、藩や幕府の負担で実現した。そのことで経営面積と反収を増やすことができた。また、商品作物の栽培が広がり、現金収入を得る地域も出てきた。江戸時代後半の農村は、一般にかなり豊かだったと思われる。

 そのようすは渡辺京二著『逝きし世の面影』で取り上げられている、幕末から明治にかけて来日した外国人の記録に見られる。その中では村々は美しく管理され、人々は穏やかに楽しげに暮らしているようすが生き生きと描写されている。

 状況が一変したきっかけは明治に入ってからの地租改正だ(1894年明治6年公布)。明治政府は財政収入を地租に求めた。全国で一斉に「地価調査」が行われ、地価の3%が年々の税額とされた。それを米の現物ではなくお金で納入することになった。百姓はこれまでは米を作ってそれを納品すればよかったのが、米を売ってお金にしてから納税しなくてはいけなくなった。しかもその請求書は各家に届くことになった。

 当時の農村で読み書きができたのは庄屋や村役人という村の幹部の家ぐらいで、ほとんどの百姓はできなかった。当然おカネの計算もできなかっただろう。それで大いに混乱があったと思われる。さらに政府の経済政策によって松方デフレ(1881年明治14年から)と呼ばれる混乱があった。物価が下落し、米の価格も下落して地租が払えない農家が続出した。庄屋や村の有力者が金貸業を営み、そこから借金をするものの、返済できず担保にした農地を手放し、その農地でそのまま耕作する小作人になっていった。一方で土地を集積した大地主が登場する。金貸をした庄屋や商家、医療費が払えず土地で受け取った医者の家などだ。

 もともとが借金を返済できないという事態からスタートするので、小作人は地主に対して弱い立場となり、身分的に隷属することになる。小作料は収穫の半分とされるのが一般的で、不作の年でもその割合は変わらなかった。

 ただ大正時代に入ると状況が改善する。1918年大正7年に米騒動が起きたのは米価が急上昇したからだ。それにプラスして繭の価格が急上昇する。アメリカの好景気に支えられて生糸の輸出が伸びたからだ。それで農家が一斉に養蚕に乗り出し、現金収入を得るようになった。大正時代の農村は好景気の活気を帯びていた。

 それが奈落の底に突き落とされたのが世界恐慌(1929年昭和4年)だ。アメリカの経済が破綻状態になり、当然贅沢品の絹製品の価格も急落、日本国内の生糸の価格は暴落した。借金をして養蚕の事業を拡大した自営農家は小作に転落した。それに追い打ちをかけるように東北地方では冷害による米の不作が続いた(1931年昭和6年から)。地主は不作でも厳しく小作料を取り立て、小作農家の生活は行き詰まった。特に東北地方の農村は貧窮し、「娘の身売り」が続出した。当時売春は公認されており、各地に娼街があった。娼家には「困った百姓を助けてやっている」という認識があっただろう。「貧しさにあえぐ農村」というイメージはこの時のものだ。

 政府は救済策に乗り出し、各地で公共工事を行って雇用を確保したりした。その延長に満州移民政策が生まれる(1932年昭和7年から)。小作農に対して、満州に行けば自分の土地、しかも日本では考えられないような広い土地が持てるという政策だ。特に貧しい農村の弱い立場の農家に対して積極的な勧誘が行われ、多くの農家が移民した。そこで彼らを待っていたのは、中国の農家から不当に安い価格で強制的に買収された農地や家だった。日中戦争から太平洋戦争へと進み、最後にソ連軍が満州に攻め込むと日本軍は早々に退却し、取り残された移民は現地の暴徒に襲撃されて命を落とすか集団自決するなどの悲劇が生まれた。生き残った人は塗炭の苦しみを味わって命からがら帰国し、その途上で子どもを現地の人に託した「残留孤児」が生まれた。

 一方、貧しさにあえぐ農家の男子は、上級の学校に進むことができないので軍隊に入るようになった。軍隊では貧しい農家の出であっても成績次第で出世コースを歩むことができる。そうやって将校になっていった軍人の中に、貧窮にあえぐ農村を救うためには、政治改革が必要という思想が湧き上がっていった。その先に陸軍青年将校らの軍事テロ・クーデター事件である二・二六事件が発生する(1936年昭和11年)。過激で幼稚な政治思想のもとに行われたクーデターは失敗し、「皇道派」と呼ばれる彼らは陸軍から一掃された。彼らを一掃した「統制派」は、しかしその影響を巧みに利用し、政治家や官僚には「軍部に逆らえば命が危うい」という空気を作り出して権力を掌握する。この事件で満州移民政策に強力に反対していた蔵相の高橋是清が暗殺され、その後移民政策は推し進められることになった。これらの先に国内外に巨大な犠牲を生み出し、大日本帝国を崩壊させた昭和の戦争があった。

 私が繰り返し昭和の戦争について学ぶのは、その反省を私たち戦後の日本国は十分に行っていないという思いからだ。昭和の戦争は、その指導者たちの事態の大きさに対してあまりに無責任な有り様が、それを拡大・深刻化させた。戦後もずっとその無責任体制は続いていると私には思える。上から下まで、皆がそれぞれに少しずつ責任を曖昧にしたまま、また次の戦争の呼び声が聞こえてくる。

 

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