だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

ひとりが変わる・地球が変わる

2007-08-15 17:48:00 | Weblog

 先日、名古屋大学説明会といって高校生に名古屋大学のことを紹介するイベントがあり、ポスターを使って研究室の紹介をした。地球環境について興味があるという高校生たちに10分ほど、研究内容を紹介しながら地球環境問題の解説をした。私の研究グループでは「どうしたらよいか」ということを研究しているという話をしたところ、聞いていた高校生が質問した。「間に合うのですか?」・・・私ははっとした。あなたはどう思う?と聞いたところ、もう間に合わないと思う、という答だった。

 確かに間に合わないかもしれない。というのは、決して起こしてはいけないのにもう発生してしまった事象がたくさんあるからだ。例えばイラク戦争。石油にどっぷりつかったアメリカとその仲間達の国が、残り少なくなった石油の覇権をめぐってはじめた戦争とそれに続く内乱。イラク人同士が殺し合う最悪の事態が日常となった。残った石油をめぐる争いはイランへと飛び火しようとしている。
 例えば北極圏の気候の温暖化。夏の海氷の縮小が年々激しくなり、それまでは氷に覆われていた沿岸域が沖合まで海が開く。そうすると天気が荒れて高波が先住民族の集落を洗う。天気が予測できなくなり、狩猟の旅を危険なものにしている。獲物のアザラシやホッキョクグマは絶滅に向かう。
 世界の状況からみれば突出して「豊かな」暮らしをしている私たちが、何気なく、悪気なく営んでいる生活による石油の消費が、残った石油をめぐる争いや温暖化を引き起こしている。そして自分たちは絶対に安全な場所にいて、「豊かな」暮らしはできない人々を苦しめている。

 一方、私たちは自由に暮らしているようで、実は今の暮らしのあり方を見直そうとすると様々な障害やストレスにさらされる。自由に選択した結果ではなく、そのようにするように何か「大きな力」が働いていて、そうせざるを得ないということのようなのだ。一人一人がそういうことに気づいて、そして団結して、「大きな力」に対抗していくだけの時間が残されているのか?「間に合わない」という気持ちにの底には、「大きな力」に対する私たち一人一人の無力感がある。

 今の日本ではその同じ「大きな力」が人々の心と身体の健康を蝕んでいる。かつて会社はそれを人生のより所にできるものであったが、終身雇用・年功序列の崩壊と浅薄な成果主義の導入によって、激しい競争と長時間労働による過酷な戦場となった。職場が「壊れ」、ひとが「壊れ」ていく。
 その同じ「大きな力」は、人の生き死にの様相をまるで変えてしまった。人間の身体を機械のパーツの寄せ集めのように考え、病気とはパーツの不具合であって、これを修理するか切り取るか交換することによって病気を治すという考え方が社会のすみずみにまで行きわたった。
 しかしながら、人間は一つのシステムである。がんやリウマチなどの難病と呼ばれる病気は、パーツを取り出したところで理解できないし、治癒もできない。抗がん剤治療などは、パーツを修理しようとして心と身体の全体を痛めつけ、その結果修理も困難にしている。最後まで抗がん剤の副作用で(がんそのものによるものではなく)苦しみながら亡くなっていく人の話を聞くと本当に心が痛む。心と身体の全体を快くすることによって回復する可能性があるのに。
 その同じ「大きな力」は、山を切り崩してダムをつくり、そこに棲む無数の生き物たちを死に追いやる。干潟の沖の堤防を締め切ってそこに棲む無数の生き物たちを死に追いやる。その「大きな力」は人々の異議申し立てに対して「人間が大事か、生き物が大事か」と問いただしてくる。人間も生き物の一員であるにもかかわらず。

 その「大きな力」が専制君主とか専制国家とか、そういうものであれば分かりやすい。ところがそうではない。今は少なくとも法的には一人一人が平等に主人公の社会である。では一人一人を強く制約する「大きな力」とはいったいどのようなものなのか。
 古典的にはカール・マルクスがその謎を疎外という概念で語った。一人一人がよかれと思って行動することが、ひとつの「大きな力」となって、一人一人を強く制約することになる、という事態のことである。社会の主人公は実は一人一人の人間ではなく、疎外のもっとも強力な形態である「資本」であって、一人一人は自分たちが作り出した「資本」に、資本家であれ、労働者であれ、隷属することになる。
 その「大きな力」をより現代的に語ったのは社会学者のC.W.ミルズである。1950年代のアメリカで、「豊か」な社会の到来とともに、中産階級が商売人からホワイトカラーへと移り変わる。自分の人生の決定権を何者かに奪われていく中で、人々は漠然とした不安と敗北感にさいなまれる。かれは社会学的想像力をもってそのメカニズムを解明し、不安にうちかつ力を手に入れようと呼びかけた。

 その「大きな力」が一人一人の作り出したものであれば、それは私たち自身とも言える。「大きな力」に直接かみつこうとしても、皆目見当がつかないのはそのせいだ。知らないうちにそれは自分にかみついていることになるからだ。
 そのことは、一方では、「大きな力」を変えることは究極的には一人一人が変わることによって可能だということを意味している。
 つまり法的な意味だけではなく、本当に自分が自分の人生の主人公になること。「大きな力」に痛めつけられた心と身体を解き放つこと。「大きな力」の声だけを聞くのではなく、その声にかき消されて聞こえなくなってしまった、自分の身体の声と他の生き物の声を聞きとれるようになること。
 「大きな力」はよりよい将来のために現在をがまんしろと告げる。途中はどうあれ目的地にたどり着き結果を残すことが大事だと説く。もしそうだとすれば、必ず死という結果で終わる人生に幸福はありえないことになる。そうではなく、今の一瞬一瞬を充実したものにしよう。充実した現在がよりよい成果と将来を招く(本当はそういうことはどうでもよいのだが)と考えよう。それは現在自分に与えられた状況がどんな苦しみや逆境にあっても、どんなにふがいないものであっても、それと真摯にかつ気楽に関わることによって可能となる。

 過去は過ぎ去り、未来はまだ来ない。起こったことはもうとりかえしがつかない。間に合わないと思ったところでしかたがない。がんが治癒する過程では、機能不全に陥った臓器のがん細胞のひとつひとつが正常な細胞に入れ替わって機能を回復していく。間に合うかどうかではなく、一人一人がより深く変わり、日々の人生を楽しめるようになることが大切だ。そうして変わり始めた人々はそのうち出会い、ともに人生を楽しみはじめる。そのような楽しみの輪がひろがっていく。
 それが社会を変え、地球を変えるということの中身だと私は思う。
コメント (6)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 篠島 | トップ | 熱病(1) »
最新の画像もっと見る

6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
同感です (ecomama)
2007-09-05 09:29:02
はじめまして、エコママと申します。偶然行き着きましたが、私は医学のほうから考えているものですが、先生のご意見に賛成で。
できるだけ石油に頼らない姿勢をとるというだけで、日常の中で困難を感じることがしばしばですが、それにめげずに、われわれひとりひとりが変わっていくことが大事だと思います。
人間がこわしたものは、人間がもとにもどせばよいと、私も思います。
返信する
THANKS! (daizusensei)
2007-08-25 19:59:03
みなさま>コメントありがとうございます。

先日、放送大学の面接講義というのを仰せつかり、「地球科学:生命と地球の共進化」という集中講義の中でこの記事の内容で話をしました。普通に想像する「地球科学」からは相当逸脱した内容で、正直言って反応が不安でしたが、20歳から75歳までの学生のみなさんはとてもストレートに受け止めてくださいました。レポートを読んでもこの話がよかったという感想がけっこうありました。

放送大学に学ぶ学生さんは、本当に学びたいから学んでいる、という気持ちにあふれています。真剣なまなざしに射抜かれて、こちらも2日間11時間半、真剣勝負となりました。これが本当の大学だな、と襟を正したい気持ちになりました。

講義を聴いてくださった60人の学生のみなさんに本当に感謝します。私も大きな自信をいただきました。
返信する
まだ間に合います (奥矢作炭やき人)
2007-08-21 21:14:33
私は毎日山にいて、「自然の中で感じる不自然」を骨身に沁みるほど、ガンガンと感じています。今年の暑さもそう。アタマでなく、カラダが「ヤバイ」と言っています。でも。。こんな状況だって、変えられる。人間がやらかしたことならば、同じ人間が戻せばいいと思います。考えるより、行動です。他人のためでなく、自分が納得するために行動すればいいんですよね。
私をそんな気にさせたのは、ほかならぬだいずせんせいです。いつか、豊田市民講座の中で、「まだ充分に間に合います」と言われただいず先生のコトバが私を突き動かしている原動力の一つです。
返信する
Unknown (ozeki)
2007-08-20 15:40:44
 「大きな力」という話を読むと、やはり「政治」というものを意識します。

 以前「その程度の国民にはその程度の政治」という発言をして物議をかもした人がいましたが、「民主主義」という制度のもとでは結局は「大きな力」を国民が選択している結果では?と思います。
 まあ、それがいいとはいいませんが。

 一人一人が変わればとは思いますが、高校生の疑問ではないですが、本当に変わるんでしょうか?という声も心の中ででは・・・・。
返信する
もう 間に合わないかもしれない (sawda 樹子)
2007-08-17 23:43:54
先生の書かれている事をいつのまにか森林に置き換えて読んでいました。すみません。

ここのところ 松枯れ・ナラ枯れが目の前で急速に進み、杉にも怪しい兆候がみられるに気がつき 早く手を打たなければと焦っていましたが 杉となるとあまりに面積が広く、原因には諸説が飛び交い 誰かが研究して結果が出て社会的に認められて それからでないと手が出せないと行政に言われ 私にはどうしょうもなく
「もう 間に合わないかもしれない」と ちょうどグッタリしていたところです。しばらくは 山から目を背けたい気分でした。

お蔭様で 私なりに出来る森林や樹の「細胞のひとつひとつを正常な細胞に入れ替える事」も出来るのではと思えるようになりました。

誤診の上の治療ミスにならないようにしなくては…。

長くなりますので 自分のブログに書きますね。
(明日になりますが…)
専門家ではないので、間違っているかもしれませんが
鹿が教えてくれた事もあります。

危うく 挫折しそうなところをほんと救われました。
ありがとうございます。
返信する
2度目の足跡残しになります。 (ウリカエデ)
2007-08-16 23:20:54
こんにちは。
体調の方はいかがでしょうか?
私自身ですが、長年時々悩まされる不調=自律神経の不調が今年は年中顔を出す状態;になってしまいました。改めて日々の健康を考えさせられます。
でも体調不良の時期=ネガティブなのではなく、自身のこれまでを見直す時期なのだとこの頃考えるようになりました。
周りにながされることなく、自身の足でしっかり自分自身を生きていきたいですね。
記事を拝見してコメントを残したくなり、足跡をもう一つ残していきました。
返信する

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事