だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

熱病(1)

2007-08-30 23:19:53 | Weblog


「目の前のスープをすすれば、
 極北の森に生きたムースの身体は、
 ゆっくりと僕の中にしみこんでゆく。
 その時、僕はムースになる。
 そして、ムースは人になる。」
   星野道夫『ラブ・ストーリー』PHP文庫2005年p.61

「人はその土地に生きる他者の生命を奪い、
 その血を自分の中にとり入れることで、
 より深く大地と連なることができる。
 そしてその行為をやめたとき、
 人の心はその自然から本質的には離れてゆくのかもしれない。」
   星野道夫『最後の楽園』PHP文庫2006年P.88


 私が子どものころ、自分の生命がどういう生命を奪うことによってなりたっているのか、まだかろうじて理解することができた。私の家は山口県の(旧)豊浦町室津という半農半漁の村にあり、目の前の海に潜れば魚たちが岩陰に泳いでいるのが見られた。時々、漁協のサイレンがなりわたり、それはセリの開始の合図だった。カンカンを担いだりリヤカーを引いたおばちゃんたちが魚を売りに来た。その魚は自分が海に潜ってみたのと同じ魚だった。今でも水族館などでそういう魚をみかけると、おいしそう、と思う。
 集落の背後には田んぼがひろがっていた。その水路はかっこうの遊び場で、メダカ、アメンボ、タニシ、カワニナ、フナなどとって遊んだ。春になると一面のレンゲ畑になった。それはそれは美しい風景だ。レンゲは窒素固定をさせるために農家が種をまいたものだ。私たちはそれとは知らずにレンゲの海の中を転げ回り、農家のおじさんに目玉をくらったりした。
 集落の中心にある農協の倉庫は、米ぬかのにおいが充満して薄暗く独特の雰囲気があった。いまだに米ぬかのにおいが好きなのは、そのころの記憶が身体に染みついているからだろう。
 時々、卵を買いに行かされた。ボールを持って近所の養鶏農家に行く。そこのおじさんは静かな人だった。おじさんは鳥小屋の中から卵をひろってボールに入れてくれた。別に気にもしなかったが、こいつらが産んだ卵なのだとわかっていた。

 しかし、いなかでもいつのまにか自家用車が普及し、スーパーができ、食べ物はそこで母親が仕事の帰りに買ってくるようになった。私は列車に乗って高校に通うのに忙しく、岩場に潜ったりレンゲの海原を転げ回るようなことはなくなった。
 大学で都会に出てきてからは、スーパーに並んでいる魚や肉の切り身を選ぶだけである。そいつらがどこからやってきたのか、どんな風に生きていたのか、想像することもない。白い発泡スチロールのパックはそういう想像力がはたらくのを有効に妨害しているようだ。
 都会の中の自然公園に行くのは好きだったが、なにかよそよそしい感じがした。自分はここに属していない、単にお客さんで来ているという実感からのがれられなかった。
 それがなぜか、星野道夫さんが教えてくれた。自分の血とは無関係だったからだ。

 最近、なにか根本的なところがちがっている、という思いを深くする。これでは環境問題への対策をいろいろと繰り出したところで、対症療法にしかすぎない。生活習慣病があるときに、生活習慣を改善せずに対症療法のみを施すと、症状が悪化する場合が多い。熱病にかかっているのは地球ではなくて私達人間の心なのではなかろうか。解熱剤を処方するのではなく、根本的に治癒するにはどうすればよいのか。しばらくいろいろと考えていきたい。
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与えること、奪うこと (額田王)
2007-08-31 23:27:53
酷暑の記憶はまだ生々しいけれども、朝夕の風の音に秋の気配を感じる。秋といえば古来豊穣と実りの季節だ。だが、そもそも実りとは何だろうか?
樹木が色づき、花々が実を結ぶ…だがその葉は朽ち、花弁も枯れてしまう。だからこそ枝の先にあるいは地中深く「次世代の子どもたち」は命を育み始める。こうした「同じカラダ」の連続性は容易に体感できるものだが、ちょっとだけ枠を拡げてみれば、異なる種の「異なるカラダ」においても命が連続している、と考えてもよいのではないか?
地球上の生きものみな仲間なのだから、誰かが何かを奪ったっていい、与えてもよい。そのことを自覚し信じ感謝しつつ。身体としての命だけでなく心の領域においても、誰かをあるいは何かを深く強く愛するとき(欲するとき)…おそらくは与え、かつ奪っている。(なったことはないから想像だが)芸術家が「渾身の」「入魂の」作品を完成したとき、命果ててもよいと思うというのはきっと真実なのだろう。
さてさて、凡人なる私は栗・葡萄・林檎などを美味しく頂き、心に愛を(皮下に脂肪を)蓄えさせていただきます。
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星野氏について (ヤン・イー)
2007-09-02 17:05:59
星野道夫氏の写真集は私も何冊か持っています。
まさか、あの星野さんがヒグマに食われて死んだなんて信じられませんでした。
 ヒグマについては、誰よりも良く知っていたはずなのに!
           石原洋一
返信する
THANKS! (daizusensei)
2007-09-03 06:16:32
額田王さま

>異なる種の「異なるカラダ」においても命が連続している、と考えてもよいのではないか?
地球上の生きものみな仲間なのだから、誰かが何かを奪ったっていい、与えてもよい。

なるほどと思いました。星野さんの本にも同様の話がでてきます。カリブーが撃たれる時、もうすべて納得したような表情をするという話です。カリブーはこのことをわかっているようです。

ヤンさま

星野さんが亡くなった同じ夏、私はカナダに調査に出かけていて、クマ(ブラックベア)に何度か遭遇しました。一度は今思えばとても危険な状況でした。日本に帰って来て、カメラマンがクマに襲われて亡くなったという話を聞いて人ごととは思えませんでした。そのころはどういうカメラマンか知りませんでしたが。
もっと長く生きてもっといろんなことを教えてほしかったです。その後北極圏では温暖化が著しく、生き物にも人々の暮らしにもいろいろな影響がでています。そのことの意味をぜひ伝えてほしかったと思います。
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