ふと、頭をよぎった妄想なのだが、我々は慢性疾患を征服することで、死をも征服できると考えているのかもしれない。
我々は時々、主語同一論理をせずに述語同一論理でものを考える時がある。
述語同一論理で考えると、
慢性疾患はいつ治るのかわからない、終わりがわからない道行き。
死はいつ来るのかわからない、終わりがわからない道行き。
つまり、「終わりがわからない道行き。」という述語を持つ点で、この文章は等しいのである。
等しいからこそ、パタパタゲームで、慢性疾患が治れば、死を退治できると考えるのであろう。
逆に考えれば、釈迦やイエスは死を征服したそうだ。
死を征服したということは、パタパタゲームで慢性疾患を征服したのと、全く同じ。
だとすれば、釈迦やイエスが退治した慢性疾患にかかることこそ、甚だおかしいことになる。
だからこそ、考え方を変えれば治る病気こそインチキである。その考え方を書いた本を読めば治る病気こそインチキである。などという主張は、あながち的外れでもあるまい。
宵の徒然にそんな事を考えたИКМТであった。
我々は時々、主語同一論理をせずに述語同一論理でものを考える時がある。
述語同一論理で考えると、
慢性疾患はいつ治るのかわからない、終わりがわからない道行き。
死はいつ来るのかわからない、終わりがわからない道行き。
つまり、「終わりがわからない道行き。」という述語を持つ点で、この文章は等しいのである。
等しいからこそ、パタパタゲームで、慢性疾患が治れば、死を退治できると考えるのであろう。
逆に考えれば、釈迦やイエスは死を征服したそうだ。
死を征服したということは、パタパタゲームで慢性疾患を征服したのと、全く同じ。
だとすれば、釈迦やイエスが退治した慢性疾患にかかることこそ、甚だおかしいことになる。
だからこそ、考え方を変えれば治る病気こそインチキである。その考え方を書いた本を読めば治る病気こそインチキである。などという主張は、あながち的外れでもあるまい。
宵の徒然にそんな事を考えたИКМТであった。