惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

本来的なチラシの裏(2)

2010年09月24日 | チラシの裏
竹田が規則(ルール)ということを強調するのは、竹田の考えが基本的にゲーム理論的だからである。ゲームには規則(ルール)がつきものだ、という、要はそういうことなのだ。しかしゲーム理論というのは基本的に機械論的なものである。機械論という語彙が古臭いと言われるなら、機能主義的な何かだと言ってもおなじだ。それは、普通に「ゲーム理論」でググってゲーム理論におけるゲームの定義を参照してみればすぐに確かめられる。

実のところフーコーの権力論もゲーム理論的な含みを強く持っている。フーコー自身は軍事的な語彙というような言い方をしていたような記憶があるが、それはたとえば権力の「戦略」というような言い方のことを指してそう言ったものであるだろう。戦略(strategy)というのは確かにもともとは軍事用語なのだが、しかし現代では軍事用語というよりはゲーム理論の用語だと思った方が実情に適っている。

つまりぶっちゃけて言えば、社会関係の本質を権力だとかルールだとか言っているくらいなら、そんなのはゲーム理論のよくできた入門書を1冊2冊読んだ方が話が早そうだし、思考の生産性も高い何かだということになりそうで、わたしにはそれが面白くないわけである。わたしは計算機屋だからゲーム理論も学んだし、また複雑性の研究をしていた関係から進化ゲーム理論も、ひと通り習ってきている。そうしたものの見方の可能性も限界もおおよそ見通した上で今に至っているわけで、いまさらこれらを蒸し返すのはアホらしいと思っているところがあるのだ。

これらはつまらない理論などでは決してない、有用な理論であるには違いないのだが、そうは言っても最初から最後まで機能主義的な理論であることに変わりはないのである。そしてそういう理論を追求するなら、わざわざ哲学に踏み込む理由はないのである。数理経済学の、あるいはそっちの方がお好みなら数理生物学の学術雑誌でも眺めてみればすぐわかる(入門書や啓蒙書でもだいたい察しはつくことだが、最先端を知るには専門雑誌を眺めるのが一番だ)。こういうのがやりたいということであれば(実際、これらに生涯を費やしている研究者も、これから費やそうとしている学生も、世界中にたくさんいる)、まったく単純に言って「哲学はいらない」のである。

現代において哲学が流行らない理由のひとつはその呆れるばかりの生産性の悪さである。いまさら論ずるまでもない。あたら生涯を無駄に過ごすためにやるようなものだと言っていい。

わたしが素人哲学と称してそれをやっているのも、本音を言えば「事実すべての生涯は無駄ではないのか」という懐疑に煩わされない日が一日としてないからである。無駄だったとしても後悔せずに済むようなことしか、わたしにはできないのである。

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