惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

演算子論の続き(3)

2010年09月26日 | チラシの裏
ここのところの一連の記事で書いていることは、わたしにとっては特に新しいことではなくて、だいたいこのblogを始める前からすっかり出来上がっていたような話である。そうは言ってもなかなかうまく書けた感じにならないから、おんなじ話を違う方向から何度でも書き試したり、書きあぐねて放棄(punt)したりすることを繰り返している。「チラシの裏」という題名はその意味で自虐でも謙遜でも何でもないのである。

ただそれとは別に、この演算子論を後々において意味のある議論にするためには(そう、ここまでに書いてるようなことは、それ自体としては何の意味も価値もない、全部ただのおもしろ談義のつもりである)、少なくとももうひとつの要素を導入しなければならない、という認識から現在のわたしが始まっている。

その「少なくとももうひとつの要素」とは、「社会」もしくは「他者」という言葉に代表されるような何かである。

世界の中で真に「存在する」と言えるのは自分だけだ、とは言うものの、どんな意味でもそうなのだとしたら、これは本来、とても安定した世界でなければならないはずである。すべての哲学は最初のページに「我在り」とだけ記してキーボードを擱(お)いてしまってもいいくらい、絶対的に安定である。だが実際の世界は、現実の世界で我々が経験することのすべては、どう考えてもそんなことにはなっていない。「自分」の存在は常に「敵」もしくは「死」の脅威に晒されているし、我々は誰もその脅威から一瞬たりとも気を逸らすことができない(ま、そんなことを言ってても、くたびれると寝てしまうのだが・・・)。

我々は世界の中にいて、ただそれを眺めているだけというわけには行かないことになっている。式W=SXの背後には「暗黒物質」ならぬ「暗黒存在」が陰伏していて、次の瞬間にも式全体を瓦解させるべく蠢いている。少なくともそのように感じられる。これが我々の中に「欲望によらない行為理由」を作り出すように思える。敵は排除しなければならないし、死には抵抗しなければならない。それは欲望ではない。欲望は我々の生理的身体ないし遺伝的指令に基礎づけられたものの心的な反映と言っていいもので、基本的にはそれが満たされれば機械的に嬉しいもののはずである。ところが敵を排除し、死に抵抗することは、部分的にしか成功しないことだとしても、たまには成功するわけだが、それは食欲や性欲を満たした時のように「嬉しい」ことであったりはしない。欲したこともない何かにありったけ労苦を注ぎ込んで、ようやく解放された(しかしほんのひと時の)安堵があるだけである。

どんな生理学も遺伝学も生物体にこんな行動を命じはしない。命じること自体も、その内容にも(生理学や遺伝学上の)意味がないからである。自然とは何にもましてケチなものであって、無意味なことは何ひとつしない。素粒子が物理法則から規定された軌道を離れてどっかに寄り道するとか、そういうことはないのである。

(もう少し続く)

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鍵山 雛

2010年09月26日 | 他人様の絵貼らぬでもなし

(リンクと画像は「AREA27」(kurot)様)※トリミング済:原寸画像はリンク先でどうぞ
→pixiv/kurot

curse goddessとは何じゃらほい、と一瞬思ったが、厄神様ということか。なるほど。

このキャラは流し雛が変じて厄神様になったという設定だが、もとがお雛様だから大変可愛い。ファンも多い(緑髪に赤い服というとヤダモンを連想する、というのもわたしだけではないらしい)のだが、何せ着ているものが過剰包装のようなフリル地獄で絵師泣かせだ、とどこかで聞いた。

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演算子論の続き(2)──裏手から眺める

2010年09月26日 | チラシの裏
演算子Sについてすぐに思いつく疑問について考えてみる。いの一番に考えてみるべきことは、すべてがSに関連して存在するというのなら、なぜ人類の歴史においてSがそれほど早くからは考えられて来なかったのか、ということである。演算子云々はともかくとしても、現代において普通にそう考えられているような「わたし」という概念は、決してそれほど古くからあるわけではないようである。

答は比較的簡単である。昔の人はこのSのことを神様のことだと考えていたからである。SではなくGだというのである。たぶん今でも信仰を持つ人は、おおよそそんな風に考えているに違いない気がする。わたしはたまたまどんな信仰も持っていないし、持つことができない罰当たりであるために、何かが存在する事実を「神様(もしくはマモノ)のせい」にすることができない。


マモノ(リンクと画像は「2ch全AAイラスト化計画」より)

事実の存在、あるいは存在の事実が疑えないとすれば、誰のせいでもありゃしない、それはオレのせいだと考えるよりほかにない、という結論になったのである。

なぜ人類は最初からそうは考えずに、神様やマモノを考えることになったのか。それは簡単なことである。考えるということは通常、何か「について」考えるということにほかならない。つまり、考える先のものは対象objectでなければならない。考えているこちら側の自分subjectが存在する、ということは、デカルトが暖炉の中で延々瞑想し続けた果てにようやく気づいたことなのであって、いやデカルトが最初ではなかったとしても、人間の思考にとってそれほど簡単に出てくる事実ではないということは確からしく思われる。人間はだから最初はW=SXのW、つまり全体Xに投影されたSの像W「について」考え、それを神様とかマモノとか呼んだのである。要はブロッケン現象の超巨大版である。なにしろ投影する先は宇宙全体で超巨大だから、そこに投影された像がもともと自分の姿にほかならぬとは、さすがに誰も気がつかなかったのである。


ブロッケン現象

かろうじて元の人型の姿がわかるような写真を拾ってみた。普通のブロッケン現象でもこんな風に後光のような光彩を伴っていたりして、何やら神々しかったり不気味だったりする。実際、これが元は自分の姿だということが当たり前に理解されるようになったのも、光学現象の理解が進んだ現代になってからのことである。



こんなことを書いていると信仰の人達から「絶対許早苗」とか言われそうだから一応自己フォローする。わたしはR・ドーキンス先生のように「神は妄想である」などと剣呑なことを言うつもりはないし、言う必然性も持っていない。W=SXにおけるWは正確に書けばW(S)ということで、つまり「わたしの世界」である。譬えるなら空を駆けるなんちゃらのルパンルパーン、というやつである。上で書いたのは、人類が最初に考えた神様というのはWのことであっただろう、ということだけだ。

いま信仰の人達にとっての神様というのは(Sの像としてのWが純化されていった極限における)Xに関する造物主とか何とかのことに、たぶんなっているのだろう。科学者としてのわたしはそれを知らないというよりほかに言うべきことを持っていない。一方、素人哲学としてのわたしは、そもそもXについてどんな決定的なことを言う根拠も持っていない。

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野矢茂樹「ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む」(ちくま学芸文庫)

2010年09月26日 | 土曜日の本
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫)
野矢 茂樹
筑摩書房
Amazon/7net

さすがにこんな本を土曜日の午後に読み切ることなどできるわけがない。ウィトゲンシュタインの本は数学の本と同じで、本当は大学かどこかで「演習つき」の講義を受けるのが一番いいのではないかという気がする。そうでないと結局身につかない種類の知識が確かにあるとしか言いようがない。つまり素人哲学にはもともと手の届かないところに置かれているのがウィトゲンシュタインである。

だから絶望しろ、というのではない。まったく逆で、素人哲学はこの種の哲学についてはどのようにでも好き勝手に読むことができるし、それでいいのだ、というのがわたしの考え方である。そんなことをされては困る、とプロの哲学者が言い出したら、ニヤニヤして「じゃあ君が説明してくれ」と言えばいいのである。そんなことをやってるうちに、時々こうした本が世の中に出てくることになるからである。

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演算子論の続き

2010年09月26日 | チラシの裏
先に示した哲学の定義 W= SX は、別の言い方をすれば、世界Wの中で真に存在するのはS(自分)だけだ、ということの表現でもある。XもWもそれ自体は(少なくともSと同格の様態における)存在ではない。Xの方は先に述べた通りの理由で、またWの方はデカルトの方法的懐疑によって言うところの「騙されているのかもしれない」可能性を排除できない。つまり明証的な存在ではないのである。

それはつまり独我論ということかと早合点されるに決まっていることだから、そうではないとまずは言わなくてはならない。現に我々は自分以外に色々のものが存在することを知っているのに、独我論というのはいかにも無茶な理屈である。けれども一方ではこんなことが言える。ライプニッツの「なぜ何もないのではなく、何かが存在するのか」である。これは現代的に、またわたし流儀に言い換えれば、「なぜ人間はロボット工学の難問である『フレーム問題』に煩わされることがないのか」ということである。

実のところロボットは、つまりそれに組み込まれた計算機プログラムは、そこに何かが「存在する」ということを知り得ない。ロボットの筐体のあちこちに取りつけられたセンサも、それに結合された計算機も、全部正常に動作するものであって、かつ、それらのすべてが無限に高性能であると仮定しても(つまり人間の感覚器や脳と同等かそれ以上に高性能であるとしても)それはできない相談なのである。実は何かが「存在する」というのは演算子Sの作用するひとつの部分形式なのである。だからこそSをもつ人間にはそれができるし、ロボットにはできないのである。

大雑把な言い方をすれば(大雑把にしか言えないのだが)、演算子Sは自分で自分の存在を証明できる、というよりも存在証明それ自体なので、あるものの存在を認めるということはとりもなおさずw=Sxという、演算子Sの適用の結果であり、かつそれ以外ではないのである。くだいて言えば、何かが存在するというのは、すべて自分が存在するという事実に関連した副次的な事実であり、そういう意味ではあらゆる存在は何らかの意味で自分自身の一部として存在するのである。もちろん、あくまでも世界Wの中での「事実」としてであって、おそらく自然的宇宙の全体に一致するものであるだろうXの物理的事実としてではない。

現代の物理学において「実在」と呼びうるのはたかだか素粒子までであって、それより上は実在の集合的な振る舞い、すなわち物理学の文脈でいう「現象」にすぎないのである。そういう意味では「存在」という概念はすでに物理の概念ではないと言っていい。物理宇宙には太陽系というものが「存在する」わけではない。いくつかの外的な命題によって制約された領域が太陽系と呼ばれるだけである。その制約が数学的に明確である限り太陽系内の惑星の運動について厳密な議論ができるから、それを含めて物理学の正当な手続きと認められているわけであるが、宇宙それ自体の物理に閉じた属性として太陽系を太陽系と規定する何かがあるわけではない。

事実そうだから、つい近年のことであるが、冥王星は惑星のリストから外されてしまった。太陽系が真に物理的な概念であるのなら、そんなことは起こりっこない。あくまで人間が外的に導入した制約の反映だからこそ、人間様の都合によってある星が惑星になったり、惑星ではなくなったりするのである。美少女戦士のセーラー・プルートはどうなるのだ、彼女の失業保険は何ヶ月出るのだろうかとか、残念ながらそういうことは惑星科学者の世界的コミュニティ(笑)にとっては、まったく問題にはならなかったようである。血も涙もない。

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