ここのところの一連の記事で書いていることは、わたしにとっては特に新しいことではなくて、だいたいこのblogを始める前からすっかり出来上がっていたような話である。そうは言ってもなかなかうまく書けた感じにならないから、おんなじ話を違う方向から何度でも書き試したり、書きあぐねて放棄(punt)したりすることを繰り返している。「チラシの裏」という題名はその意味で自虐でも謙遜でも何でもないのである。
ただそれとは別に、この演算子論を後々において意味のある議論にするためには(そう、ここまでに書いてるようなことは、それ自体としては何の意味も価値もない、全部ただのおもしろ談義のつもりである)、少なくとももうひとつの要素を導入しなければならない、という認識から現在のわたしが始まっている。
その「少なくとももうひとつの要素」とは、「社会」もしくは「他者」という言葉に代表されるような何かである。
世界の中で真に「存在する」と言えるのは自分だけだ、とは言うものの、どんな意味でもそうなのだとしたら、これは本来、とても安定した世界でなければならないはずである。すべての哲学は最初のページに「我在り」とだけ記してキーボードを擱(お)いてしまってもいいくらい、絶対的に安定である。だが実際の世界は、現実の世界で我々が経験することのすべては、どう考えてもそんなことにはなっていない。「自分」の存在は常に「敵」もしくは「死」の脅威に晒されているし、我々は誰もその脅威から一瞬たりとも気を逸らすことができない(ま、そんなことを言ってても、くたびれると寝てしまうのだが・・・)。
我々は世界の中にいて、ただそれを眺めているだけというわけには行かないことになっている。式W=SXの背後には「暗黒物質」ならぬ「暗黒存在」が陰伏していて、次の瞬間にも式全体を瓦解させるべく蠢いている。少なくともそのように感じられる。これが我々の中に「欲望によらない行為理由」を作り出すように思える。敵は排除しなければならないし、死には抵抗しなければならない。それは欲望ではない。欲望は我々の生理的身体ないし遺伝的指令に基礎づけられたものの心的な反映と言っていいもので、基本的にはそれが満たされれば機械的に嬉しいもののはずである。ところが敵を排除し、死に抵抗することは、部分的にしか成功しないことだとしても、たまには成功するわけだが、それは食欲や性欲を満たした時のように「嬉しい」ことであったりはしない。欲したこともない何かにありったけ労苦を注ぎ込んで、ようやく解放された(しかしほんのひと時の)安堵があるだけである。
どんな生理学も遺伝学も生物体にこんな行動を命じはしない。命じること自体も、その内容にも(生理学や遺伝学上の)意味がないからである。自然とは何にもましてケチなものであって、無意味なことは何ひとつしない。素粒子が物理法則から規定された軌道を離れてどっかに寄り道するとか、そういうことはないのである。
(もう少し続く)
ただそれとは別に、この演算子論を後々において意味のある議論にするためには(そう、ここまでに書いてるようなことは、それ自体としては何の意味も価値もない、全部ただのおもしろ談義のつもりである)、少なくとももうひとつの要素を導入しなければならない、という認識から現在のわたしが始まっている。
その「少なくとももうひとつの要素」とは、「社会」もしくは「他者」という言葉に代表されるような何かである。
世界の中で真に「存在する」と言えるのは自分だけだ、とは言うものの、どんな意味でもそうなのだとしたら、これは本来、とても安定した世界でなければならないはずである。すべての哲学は最初のページに「我在り」とだけ記してキーボードを擱(お)いてしまってもいいくらい、絶対的に安定である。だが実際の世界は、現実の世界で我々が経験することのすべては、どう考えてもそんなことにはなっていない。「自分」の存在は常に「敵」もしくは「死」の脅威に晒されているし、我々は誰もその脅威から一瞬たりとも気を逸らすことができない(ま、そんなことを言ってても、くたびれると寝てしまうのだが・・・)。
我々は世界の中にいて、ただそれを眺めているだけというわけには行かないことになっている。式W=SXの背後には「暗黒物質」ならぬ「暗黒存在」が陰伏していて、次の瞬間にも式全体を瓦解させるべく蠢いている。少なくともそのように感じられる。これが我々の中に「欲望によらない行為理由」を作り出すように思える。敵は排除しなければならないし、死には抵抗しなければならない。それは欲望ではない。欲望は我々の生理的身体ないし遺伝的指令に基礎づけられたものの心的な反映と言っていいもので、基本的にはそれが満たされれば機械的に嬉しいもののはずである。ところが敵を排除し、死に抵抗することは、部分的にしか成功しないことだとしても、たまには成功するわけだが、それは食欲や性欲を満たした時のように「嬉しい」ことであったりはしない。欲したこともない何かにありったけ労苦を注ぎ込んで、ようやく解放された(しかしほんのひと時の)安堵があるだけである。
どんな生理学も遺伝学も生物体にこんな行動を命じはしない。命じること自体も、その内容にも(生理学や遺伝学上の)意味がないからである。自然とは何にもましてケチなものであって、無意味なことは何ひとつしない。素粒子が物理法則から規定された軌道を離れてどっかに寄り道するとか、そういうことはないのである。
(もう少し続く)