今週の「土曜日の本」は二本立てである。まずはこれ。
このblogで本をカバー写真つきで紹介する場合は、特に断らない限りオススメの本である。つまり値段分の価値はある本だとわたしが判断するものである。だからといってその本の内容に賛成であるとは限らない。とりあえず、この本は「日本語で哲学をやる本」ではない。「日本語の特徴を明に取り入れた哲学は、哲学に独自の貢献をなしうるか否か」について論じた本である。
察しの通り、読み進むのに難儀している。どうも読んでてイライラしてくるからである。「日本」とか「日本語」にこだわる哲学の通例として、この本もデカルト批判から始まるわけだが、わたしに言わせればデカルト批判としてはひどくピントが外れている。どうもこの著者はデカルト的な「我」の概念を解体するだけではおさまらず、ほとんど消去したいという理論的願望にとり憑かれていて、そこからものを言っているような気がしてならない。「我思う故に我あり」というデカルト哲学の第一原理は、そうと言葉にしたとたんに(言葉はそもそも個人を超越しているから)無意味になる、というようなことが書いてある。アホである。ごく即興的にわたしの考えを記せば、デカルト的な「我」はいわば波動関数のようなもの、言葉はその言語の空間における物理量(観測)のようなものだ。哲学は言葉でやるしかないので、波動関数のような「我」の全体像をすぱっと提示することはできないし、観測(言葉)を介する限りある種の不確定性がつきまとう。それでも言葉はもとの「我」について、そのある側面をコンパクトな(したがって論理的に操作可能な)概念の結合として示すことはできる。こうした関係は言語が印欧語であるか日本語であるかにかかわらない。日本語はそうでないと、万が一にも著者は言いたいのだとしたら、アホらしいにも程があると言わなければならない。ハイデガーを論じても肝心要の存在論的差異がなかなか出て来ない。なんかどうでもいいことにこだわって書いている。ああもう。
そんなにイライラするならオススメするなよ、と言われるかもしれないが、上はまだ半分くらいしか読んでいない現時点での印象なのである。どうも本当に重要なのはこの本の後半部分であるような気がする。イライラするのがとにかく嫌だという人にはオススメしないが、他人の哲学にイライラさせられるのは、本を読む以外に相手はいない素人哲学の宿命だと判っている人にはオススメする。不真面目な本だとは思われないからである。
ただし1点だけ。「あとがき」が旧カナで書かれているのは、わたしにはあまり愉快でなかった。旧カナがどうこうというのではない。ある種の文体が旧カナの字面を要請することがあるのは確かである。逆に旧カナが特定の文体を呼び寄せる場合もある(昔の原律子のマンガとかがそうだ)。しかしこの「あとがき」はどう見ても普通の現代日本語文を、わざと仮名遣いだけを旧カナにして書いているのである。これにいったい悪趣味なイタズラという以上のどんな意味があるのか、わたしには判りかねる。
で、もう一冊。
こちらもまだ最初の方しか読んでないが、わたしは啓蒙書のつもりでこれを買ったので、読んだとしても感想というほどのことを書くことはたぶんないと思う。スターリン後のソヴィエト時代まで遡り、以後2010年現在までの「現代ロシア」の政治社会史を、特にプーチンを中心として概観し論じた本、と、一行で書けばそういう本だということになるだろうか。プーチンという人は今でも謎の多い人物だし、そもそもロシアという国がわが国にとっていつも「近くて遠い国」であるために、あれこれの風説を耳にしても「どうもよくわからん」と感じることが多いわけである。けれどもプーチン時代を経て、かつての超大国の威容を半分くらいは取り戻しつつあるロシアが、今後十年で東アジアにどんな影響を及ぼすことになるか判らない感じもしている。そう思っているところへ出てきたのがこの本である。わたしと同じ感じを持っている人は、まず、この本を読んでみようではないか。
日本語の哲学へ (ちくま新書)長谷川 三千子筑摩書房Amazon/7net |
このblogで本をカバー写真つきで紹介する場合は、特に断らない限りオススメの本である。つまり値段分の価値はある本だとわたしが判断するものである。だからといってその本の内容に賛成であるとは限らない。とりあえず、この本は「日本語で哲学をやる本」ではない。「日本語の特徴を明に取り入れた哲学は、哲学に独自の貢献をなしうるか否か」について論じた本である。
察しの通り、読み進むのに難儀している。どうも読んでてイライラしてくるからである。「日本」とか「日本語」にこだわる哲学の通例として、この本もデカルト批判から始まるわけだが、わたしに言わせればデカルト批判としてはひどくピントが外れている。どうもこの著者はデカルト的な「我」の概念を解体するだけではおさまらず、ほとんど消去したいという理論的願望にとり憑かれていて、そこからものを言っているような気がしてならない。「我思う故に我あり」というデカルト哲学の第一原理は、そうと言葉にしたとたんに(言葉はそもそも個人を超越しているから)無意味になる、というようなことが書いてある。アホである。ごく即興的にわたしの考えを記せば、デカルト的な「我」はいわば波動関数のようなもの、言葉はその言語の空間における物理量(観測)のようなものだ。哲学は言葉でやるしかないので、波動関数のような「我」の全体像をすぱっと提示することはできないし、観測(言葉)を介する限りある種の不確定性がつきまとう。それでも言葉はもとの「我」について、そのある側面をコンパクトな(したがって論理的に操作可能な)概念の結合として示すことはできる。こうした関係は言語が印欧語であるか日本語であるかにかかわらない。日本語はそうでないと、万が一にも著者は言いたいのだとしたら、アホらしいにも程があると言わなければならない。ハイデガーを論じても肝心要の存在論的差異がなかなか出て来ない。なんかどうでもいいことにこだわって書いている。ああもう。
そんなにイライラするならオススメするなよ、と言われるかもしれないが、上はまだ半分くらいしか読んでいない現時点での印象なのである。どうも本当に重要なのはこの本の後半部分であるような気がする。イライラするのがとにかく嫌だという人にはオススメしないが、他人の哲学にイライラさせられるのは、本を読む以外に相手はいない素人哲学の宿命だと判っている人にはオススメする。不真面目な本だとは思われないからである。
ただし1点だけ。「あとがき」が旧カナで書かれているのは、わたしにはあまり愉快でなかった。旧カナがどうこうというのではない。ある種の文体が旧カナの字面を要請することがあるのは確かである。逆に旧カナが特定の文体を呼び寄せる場合もある(昔の原律子のマンガとかがそうだ)。しかしこの「あとがき」はどう見ても普通の現代日本語文を、わざと仮名遣いだけを旧カナにして書いているのである。これにいったい悪趣味なイタズラという以上のどんな意味があるのか、わたしには判りかねる。
で、もう一冊。
現代ロシアを見る眼~「プーチンの十年」の衝撃 (NHKブックス)木村 汎 , 他日本放送出版協会Amazon/7net |
こちらもまだ最初の方しか読んでないが、わたしは啓蒙書のつもりでこれを買ったので、読んだとしても感想というほどのことを書くことはたぶんないと思う。スターリン後のソヴィエト時代まで遡り、以後2010年現在までの「現代ロシア」の政治社会史を、特にプーチンを中心として概観し論じた本、と、一行で書けばそういう本だということになるだろうか。プーチンという人は今でも謎の多い人物だし、そもそもロシアという国がわが国にとっていつも「近くて遠い国」であるために、あれこれの風説を耳にしても「どうもよくわからん」と感じることが多いわけである。けれどもプーチン時代を経て、かつての超大国の威容を半分くらいは取り戻しつつあるロシアが、今後十年で東アジアにどんな影響を及ぼすことになるか判らない感じもしている。そう思っているところへ出てきたのがこの本である。わたしと同じ感じを持っている人は、まず、この本を読んでみようではないか。