惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

演算子論の続き(2)──裏手から眺める

2010年09月26日 | チラシの裏
演算子Sについてすぐに思いつく疑問について考えてみる。いの一番に考えてみるべきことは、すべてがSに関連して存在するというのなら、なぜ人類の歴史においてSがそれほど早くからは考えられて来なかったのか、ということである。演算子云々はともかくとしても、現代において普通にそう考えられているような「わたし」という概念は、決してそれほど古くからあるわけではないようである。

答は比較的簡単である。昔の人はこのSのことを神様のことだと考えていたからである。SではなくGだというのである。たぶん今でも信仰を持つ人は、おおよそそんな風に考えているに違いない気がする。わたしはたまたまどんな信仰も持っていないし、持つことができない罰当たりであるために、何かが存在する事実を「神様(もしくはマモノ)のせい」にすることができない。


マモノ(リンクと画像は「2ch全AAイラスト化計画」より)

事実の存在、あるいは存在の事実が疑えないとすれば、誰のせいでもありゃしない、それはオレのせいだと考えるよりほかにない、という結論になったのである。

なぜ人類は最初からそうは考えずに、神様やマモノを考えることになったのか。それは簡単なことである。考えるということは通常、何か「について」考えるということにほかならない。つまり、考える先のものは対象objectでなければならない。考えているこちら側の自分subjectが存在する、ということは、デカルトが暖炉の中で延々瞑想し続けた果てにようやく気づいたことなのであって、いやデカルトが最初ではなかったとしても、人間の思考にとってそれほど簡単に出てくる事実ではないということは確からしく思われる。人間はだから最初はW=SXのW、つまり全体Xに投影されたSの像W「について」考え、それを神様とかマモノとか呼んだのである。要はブロッケン現象の超巨大版である。なにしろ投影する先は宇宙全体で超巨大だから、そこに投影された像がもともと自分の姿にほかならぬとは、さすがに誰も気がつかなかったのである。


ブロッケン現象

かろうじて元の人型の姿がわかるような写真を拾ってみた。普通のブロッケン現象でもこんな風に後光のような光彩を伴っていたりして、何やら神々しかったり不気味だったりする。実際、これが元は自分の姿だということが当たり前に理解されるようになったのも、光学現象の理解が進んだ現代になってからのことである。



こんなことを書いていると信仰の人達から「絶対許早苗」とか言われそうだから一応自己フォローする。わたしはR・ドーキンス先生のように「神は妄想である」などと剣呑なことを言うつもりはないし、言う必然性も持っていない。W=SXにおけるWは正確に書けばW(S)ということで、つまり「わたしの世界」である。譬えるなら空を駆けるなんちゃらのルパンルパーン、というやつである。上で書いたのは、人類が最初に考えた神様というのはWのことであっただろう、ということだけだ。

いま信仰の人達にとっての神様というのは(Sの像としてのWが純化されていった極限における)Xに関する造物主とか何とかのことに、たぶんなっているのだろう。科学者としてのわたしはそれを知らないというよりほかに言うべきことを持っていない。一方、素人哲学としてのわたしは、そもそもXについてどんな決定的なことを言う根拠も持っていない。
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