惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

本来的なチラシの裏(2)

2010年09月24日 | チラシの裏
竹田が規則(ルール)ということを強調するのは、竹田の考えが基本的にゲーム理論的だからである。ゲームには規則(ルール)がつきものだ、という、要はそういうことなのだ。しかしゲーム理論というのは基本的に機械論的なものである。機械論という語彙が古臭いと言われるなら、機能主義的な何かだと言ってもおなじだ。それは、普通に「ゲーム理論」でググってゲーム理論におけるゲームの定義を参照してみればすぐに確かめられる。

実のところフーコーの権力論もゲーム理論的な含みを強く持っている。フーコー自身は軍事的な語彙というような言い方をしていたような記憶があるが、それはたとえば権力の「戦略」というような言い方のことを指してそう言ったものであるだろう。戦略(strategy)というのは確かにもともとは軍事用語なのだが、しかし現代では軍事用語というよりはゲーム理論の用語だと思った方が実情に適っている。

つまりぶっちゃけて言えば、社会関係の本質を権力だとかルールだとか言っているくらいなら、そんなのはゲーム理論のよくできた入門書を1冊2冊読んだ方が話が早そうだし、思考の生産性も高い何かだということになりそうで、わたしにはそれが面白くないわけである。わたしは計算機屋だからゲーム理論も学んだし、また複雑性の研究をしていた関係から進化ゲーム理論も、ひと通り習ってきている。そうしたものの見方の可能性も限界もおおよそ見通した上で今に至っているわけで、いまさらこれらを蒸し返すのはアホらしいと思っているところがあるのだ。

これらはつまらない理論などでは決してない、有用な理論であるには違いないのだが、そうは言っても最初から最後まで機能主義的な理論であることに変わりはないのである。そしてそういう理論を追求するなら、わざわざ哲学に踏み込む理由はないのである。数理経済学の、あるいはそっちの方がお好みなら数理生物学の学術雑誌でも眺めてみればすぐわかる(入門書や啓蒙書でもだいたい察しはつくことだが、最先端を知るには専門雑誌を眺めるのが一番だ)。こういうのがやりたいということであれば(実際、これらに生涯を費やしている研究者も、これから費やそうとしている学生も、世界中にたくさんいる)、まったく単純に言って「哲学はいらない」のである。

現代において哲学が流行らない理由のひとつはその呆れるばかりの生産性の悪さである。いまさら論ずるまでもない。あたら生涯を無駄に過ごすためにやるようなものだと言っていい。

わたしが素人哲学と称してそれをやっているのも、本音を言えば「事実すべての生涯は無駄ではないのか」という懐疑に煩わされない日が一日としてないからである。無駄だったとしても後悔せずに済むようなことしか、わたしにはできないのである。

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本来的なチラシの裏(1)

2010年09月23日 | チラシの裏
以下は漫然と書き綴ったもので、書いた本人にも手に負えないほどあちこち混乱している。いずれ書き直すかもしれないし、面倒だったら(たいていそうなるのだが)そのままにするかもしれない。部分的にかなりデタラメくさいことを書いていると自分で思うが、少なくともわたしの基本認識はこうしたもので、何かよほどのわけでもない限り変わることはないと思う。

哲学的には、社会関係や人間関係のすべてを「権力」の関係と考えるのは、とても狭すぎて使えない。すべては権力の関係だという考えでゆくと、結局、権力の本質とは何かがよく分からなくなるし、ルール関係ということも見えなくなる。

むしろ「ルール」というキーワード(原理)から始めると、社会的な「権力」の関係の本質が何であるか、とてもよく分かります。それだけでなく、人間どうしの愛の関係も、倫理の関係も、権力関係としてではなく、ルール関係として見ると、とても深く理解できます。

(竹田青嗣「中学生からの哲学『超』入門」p.130)

これは奇妙な言い草である。フーコーのような議論が汎権力論だから発展性がないというのは、なんでもかんでも遺伝子のせいにしてしまう通俗的な汎遺伝子論には発展性がないというようなもので、権力ということを矮小化しすぎていると思える。フーコー自身もそう述べている通り、権力の本質は禁止や規制にあるのではなく、むしろ社会的事実の社会的な産生ということにかかわっている。それが常識的には禁止や規制にかかわる何かだと思われがちであるのは、あっさり言えば、社会の本質が自由(個人)の敵であるからにほかならない。フーコーはそうは言わなかったのだとすれば、わたしが言う。

社会は個々人の自由とは無関係にそれ自身の摂理を持ち、それに沿って社会的事実を生み出して行く何かである。社会にとって個々人の存在とは吸い上げるべき血以外の何かでは決してない。社会は、それがなければ存立しえないという理由で、いつも人の血に飢えているのである。一方でそんな社会にとっての悩み(もちろん判りやすさのために擬人化している)は、無分別に人の血を啜り上げ続ければたちまち枯渇してしまうし、気まぐれが過ぎると肝心なときに肝心な血液が不足するといったことにもなりかねない、ということである。権力はだから、その一面においては、社会が吸い上げるべき血の産出を促す──文字通りその「生産性を高める」──ような方向でも作用する。要するに生きた個人を「啜るべき血」の規律ある産生機械と化した上でその効率的で安定した(よく制御された)運用を目指すのである。規則(ルール)の文言はだから、規律ある機械と化した人間に与えるインストラクション(指令)である。言い換えればそれは、生きている個人にとっては何の意味も持たない下らぬ茶番にすぎないのである。

規則(ルール)というのは、それ自体は何の意味もない下らぬ茶番にすぎないということの徹底した認識を竹田は欠いている、とわたしには思える。たとえば「赤信号で道路を渡ってはいけない」という規則(ルール)はケーサツが勝手に決めてそう言っているだけのことだ。実際、もしそうしようと思えば、誰でもいつでも赤信号で道路を渡ることは自由にできる。極端な場合、暴走したクルマが歩道に突っ込んできたとして、命が惜しかったら(この前提は大切だw)赤信号であっても車道に出た方がいいという判断は、理性において正当に成り立ちうる。そんな時でも規則(ルール)を遵守して暴走車にはね飛ばされたやつがいたら、どんな社会であろうとそいつはバカと言われる(言われはしないまでも、みんなそう思っている)だけなのである。

それ自体は無意味な茶番にすぎない規則(ルール)に現実的な実効性を付与するものが権力である。赤信号で道路を渡るとクルマに轢かれるかもしれない、そのリスクを高めている(これ自体は現実的な事実といっていいだろう)のは規則(ルール)それ自体ではなく権力の作用である。

我々の日常を窒息させるほど締め上げているもの、それが権力であったとしたら手に負えないが、規則(ルール)なら変えることができる、という考えが根底にあるのかもしれない。ひょっとすると竹田はそこに一縷の希望を見出そうとさえしているのかもしれない。わたしは、それはまったく偽りの希望であると思う。規則(ルール)ならそれを変えることができるというのは、規則(ルール)それ自体がまさしく何の意味もない下らぬ茶番にすぎないことの表れでなくて何であろうか。規則(ルール)がどのようにつけ変わろうと、権力は傷ひとつつくことなく、それ自身の摂理によって「粛々と」作用し続ける。「evil moves in evil ways」という歌の文句もあったことだ。いま「平和を求めよ」という規則(ルール)があるとして、権力は「平和」の2文字に「殺戮」という意味(現実)を与えるといった程度のことは、いとも簡単にやってのけるものである。そんな簡単に、まったくどうにでも意味が裏返ってしまうような規則(ルール)について、それ自体について考察する価値がどこにあろうか。

しかしこう言い切ってしまったら、我々には本当にいかなる希望も残されていないということになるのかもしれない。個人の側から見れば社会はいつでもそのような邪悪な存在でしかないのだが、それは社会それ自体が邪悪な意図を持っていることの反映であるとは思いにくい。社会がそのようなものであるというのは単に進化的な必然にすぎないのかもしれない。そして、そうだとすると、個人がどう頑張っても彼にとって邪悪な社会に勝てる見込みは、少なくともそう意志したことの結果として勝てる見込みはまったくないということになるだろう。その意志とは無関係に偶然宝くじが当たることまでは排除されないというだけである。



それにしても・・・まあ、朝から晩までキーボードにかじりついて、書いたものがたったこれだけ、それも収拾がつけられないほどシッチャカメッチャカな文章だというのは、我ながら色々と低下しているなと思わざるを得ない。今日の東京は一日中ひどい雨で、調子が悪いのは低気圧のせいだという面もなくはないのだろうが、それにしてもね。

近頃はだんだん開き直っているようなところがあって、そうでもしないと字数が全然増えないから、一読してデタラメとしか思えない文章でもほとんど手を入れずにうpしてしまっていたりするのだが、いい加減本気で狂人ではないのかと、googlebotさんあたりには思われているかもしれない。一日の間に職業プログラマと素人哲学と単なる萌えオタの間を往還することを繰り返していれば、だいたい誰でもこの程度にはアタマがおかしくなるだろうとは思うのだけれども。

で、シッチャカメッチャカはともかく、上の内容だと竹田氏の論考にケチをつけてるだけ、みたいに読めてしまうから、一応フォローしておく。引用した本は曲がりなりにもこのblogがオススメする本なのだ、ということを改めて断っておきたい。哲学書というのはツッコミどころ満載であるのが本来あるべき姿なのだ。少なくとも素人哲学にとってはその方がずっと役に立つのは間違いないところである。本当に不満らしいことがあるとすれば、上記でもしつこく言っているように、竹田氏は何かにつけて「ルール」と言うわけで、読んでるうちに「お前はどこの風紀委員だよ」という、ある意味では哲学外のツッコミを入れたくなってくる、ということなのだ。つまり書いた本人はそう思っているかもしれないほどには、この本で書かれている「ルール」の概念はよく掘り下げられたものだとは、わたしには思えない。それが一番不満なところである。

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ワールズエンド・ダンスホール

2010年09月23日 | 他人様の絵貼らぬでもなし
今日の作業用BGM。作業するわたしにとっては曲だけでいいのだが、閲覧者は退屈だろうから動画つきのやつを拾ってきた。

初音ミクと巡音ルカのコンビは「ネギトロ」と呼ばれていたりする。単独の歌手としてはともかく、デュオではいま日本で一番人気のコンビかもしれない。とにかくこの曲は素晴らしい。

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シテヤンヨ2曲

2010年09月21日 | 他人様の絵貼らぬでもなし
今日は仕事してる間中、この2曲がずーっとアタマの中で鳴りっぱなしだった。





なんでだろうな。

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ネコミミ輝夜

2010年09月21日 | 他人様の絵貼らぬでもなし
こうストレートに可愛らしいネコミミ絵を見たのは久しぶりのような気もする。

(リンクと画像は「ニコニコ静画」by 狐(∀`))※縮小済:原寸画像はリンク先でどうぞ

(→pixiv/狐神(・ω・`))


ちなみにgoo blogはニコニコ動画の方は対応しているのだが、静画の方は未対応である。毎回あれこれの断り書きをつけてリンクを張るのは面倒なので、さっさと対応してもらいたいものである。

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天声人語のくせにナマイキだぞ

2010年09月20日 | 報道から
友人とはなんぞや、の答えは色々だろうが、臨床心理学者の故・河合隼雄さんの著作中にこんなのがある。「夜中の十二時に、自動車のトランクに死体をいれて持ってきて、どうしようかと言ったとき、黙って話に乗ってくれる人」(『大人の友情』)。なかなか刺激的だ
(天声人語)

実際に非常に刺激的であったらしく、これをネタにした2chのスレがもの凄い勢いで伸びているのが笑える。朝日と見れば何であれオートマティックに叩くのは2chのお約束だから、このコラムはもちろん、ついでに故河合隼雄氏までクソミソにやられていたりするわけだが、叩く字面にどこか沈痛な響きがあるのは、結構痛いところを突かれたと見える。意外だ。こんなことで2chのネトウヨ共が痛がるのだから、やはり便所飯の話は本当なのかもしれない。

上のコラムでは続けて「入学して1週間、努力したが友達ができない」といって相談に来た学生の話が紹介されている。たった1週間で、というところに河合氏やコラム子は驚いているようなのだが、それはちょっと驚くところが違うのではないか。そもそも「努力したが」などと言っているのが一番奇妙である。実際、最初に引用したような例は「努力した」からできる行為ではないだろう。

友達というのは大卒の免状やRPGのマジック・アイテムとは違うんだから、と言いたいところだが、いまの大学生にとって友達というのは事実そうしたものになってしまったのだろう。だが昔は「グレートマジンガー」ですら友情を判っていた。おまいらときたら。つまらないことにはたくさん涙を流す、伝達能力ばかりに長けた友人機械なんぞには夢も希望も見出せるはずがないだろう。



朝に上を書いたときは何の気なしに書いたのだが、いまのワカモノにとっては友達の存在が大卒の免状と同じようなものだということになっているのだとすれば、友達がいなくて「恥ずかしい」とか、「便所飯」であるとかの説明にはなるような気がする。友達がいなくて恥ずかしい人はそれでも少数派だろうが、大卒の免状を持ってないとか、免状の発行元がパッとしない名前であるとかいったことが恥ずかしいと思っている人は、いいトシこいた大人の中にも事実たくさんいるわけである。



河合氏の言い分の種明かしをしてみよう。これは要するに「友情とは二つの肉体に宿れる一つの魂である」というアリストテレスの文句を、心理療法家の言語で言い直したものに相違ない。いましがた人を殺してきたらしい友人の相談にも黙って乗ってやれるというのは、魂がひとつであればこそできることなわけだ。どんな時代や社会であれ、殺人犯の言い分などに黙って耳を傾けられるのは本人しかいない。その本人のもうひとつの肉体が友人である。(人間関係を外側から規定する)法も倫理も超越した別次元からその魂に直通し内在しうることが友情の本質だということである──ひとつ余計なことを記せば、だから友情の本質は「コンプライアンス」の仇敵だということでもある。当節のワカモノ達がそれを見失うのは、その意味ではもっともなことなのである。

いっぽう、療法家である河合氏のところには、それこそクルマのトランクに他人ではなく自分の死体を入れて相談に来る人が、きっとたくさんいたに違いないのである。そんな途方もないクライアント達の相談に、友情ではなく療法家の理念と方法から「黙って乗ってみせる」ことの困難と自負とが、河合氏の言からはにじみ出ているように思える。

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さて、こいつはどうかな

2010年09月20日 | miscellaneous
セクハラ事件だか何だかで京大を辞職して以来、絶賛失速中の大澤真幸センセイの近刊。予約受付中。

  大澤真幸「生きるための自由論」(河出ブックス)

まだ目次も出てないので内容はよくわからない。アオリの文章によれば「人類にとって至上の価値である『自由』。だが、それはいったいどこにあるのか? 脳科学の知見も参照しつつ、自由という概念自体の刷新を目論み、新たな連帯への方向性を示唆する刺激的論考」だそうだ。

セクハラ云々なんぞはどうでもよいことだが、脳科学がどうこう言ってる時点でかなり胡散臭い、と言わなければならない。このblogがオススメすることは絶対ない、と言い切りたいところだが、曲がりなりにも「自由」がテーマであって、それも「人類にとって至上の価値」だなどと大きく出てきたわけである。何か突拍子もない屁理屈でも思いついたのだろうか。まあ中身が出てくるまでは保留しておこう。

脳科学に屈服するような「刷新」だったらマジで許さねえよ。

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レッツ・メルトダウン!

2010年09月19日 | 他人様の絵貼らぬでもなし
せっかくの3連休だというのに、実は明日から(あ、もう今日だ)また休日出勤である。景気づけにもうひとつお気に入りの動画を。

原子力関係の用語の使い方とかはほとんど滅茶苦茶なわけだが(笑)、まあ歌の文句ということで文句は言わない。


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竹田青嗣「中学生からの哲学『超』入門」(ちくまプリマー新書)

2010年09月18日 | 土曜日の本
中学生からの哲学「超」入門―自分の意志を持つということ (ちくまプリマー新書)
竹田 青嗣
筑摩書房
Amazon/7net

この本は1年ちょっと前くらいに出た本だが、たまたまいつもの本屋にこれが並んでいるのを見つけたので買って読んでみた。

いいトシしたオッサンが「中学生からの」と銘打たれた本を読むのかと言って、そもそもホントの中学生が、わざわざ「中学生からの」と題された本を買って読んだりするだろうか。それも哲学書を、である。中学生のころのわたしだったら、そういう本は真っ先に忌避して、判りもしないのに本格的な哲学書(のように見える本)を、無理して背伸びして読ん(で、やっぱり全然判らなかった)だりしたはずだと思う。出版社編集者は、もし仮に本気で中学生に本を買わせたいのだったら、そういう中学生の典型的な背伸びの心理を計算に入れて題名や帯の文句をつけるべきなのである。具体的にどうすればいいのかって、今だったらいたって簡単、「中学生からの」というかわりに「中二病の」と書けばいいのである(笑)。

もっとも、実際問題として編集者というのはそんなにアホではない。こういう題名がついているということは、実際にはわたしみたいなオッサン読者を、むしろアテこんでつけられていたりするわけなのである。そして実際に読んでみると、この本はやはり中学生に薦めるには勿体ない超高級な入門書であった。この場合の「勿体ない」というのはケチで言うのではなく、並大抵の中学生ではこの本に書かれたことを(著者がひょっとすると期待しているように)読解することはできないだろうとわたしには思える、ということだ。

本物の中学生にはむしろまず、この著者の「人間的自由の条件」とかを直接読むことをオススメしたい(最近文庫化されたから、ラノベのついでにもう一冊、それも買ってみろというわけだ)。判っても判らなくても、である。そっちを読んでから改めてこの本を読むと、著者が自分の考えをどんな風に噛み砕いて書き直したかがよくわかる。勉強になると言えば、確かにそれはベンキョーになるはずである。

・・・って、いらんことを書いてたら中身のことがおルスになってしまった。日付が変わらないうちに書き足しておく。竹田青嗣の分哲(分析哲学)嫌いは有名だが、この本では珍しく簡潔明瞭にそのわけを書いている。そこだけちょっと引用してみる。

いま英米で流行している分析哲学では、さかんにこういう(アキレスと亀のパラドックスのような──引用者註)論理の謎(難問)を作り出しては、それをどう解くかを競うということが大きなテーマになっている。これは少し前まで、現代思想の最先端だったポストモダン思想などにも言える性格です。私は、このような相対主義にもとづく現代の哲学には批判的です。それは哲学の本義からかなり外れてしまっているのです。
(懐疑論と詭弁論; p.100)

竹田のこうした見解にわたしは賛同できない。分哲にそういう傾向があるのは否めないが、そういうのばっかりではないことも確かである。分哲が「難問」にこだわるのは、それ自体を解くことに焦点があるわけではなく、難問の形で提示された言明が分析対象になっている当の概念の成り立ちを浮かび上がらせるところがあるからで、言わば思考の粒子衝突実験みたいなものなのである(わたしはそう見ている)。そうだとすればそれは哲学の本義からそう外れていない。あるのは方法の違いだけだ。

そうは言っても些末なことに難解な議論が駆使されすぎていると、竹田は今やプロのアカデミシャンだから言わずにはおれないのかもしれない。でもわたしみたいな素人哲学にとっては、そうしたことは実はどうでもいいことなのである。ある学者が哲学の本義から外れた些末事に煩わされていると思えたら、そうした部分は単に読まなければいいだけだからである。

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KamS「媚薬を飲まされた状態で縛られ放置される八意永琳女史」

2010年09月18日 | 他人様の絵貼らぬでもなし
ちょっと文字ばっかりになってきたので、艶っぽい絵を貼らせていただこう。

(画像とリンクは「ニコニコ静画」※上画像は縮小してあります。原寸大画像はリンク先で)

→KamS氏のサイト「kam'S」ホームページ
→pixiv


(Nov.10,2010追記)
この絵には実は続きがあって、pixivの方で見ることができる。ただしR-18タグがついているので、18歳未満の人は見られない。上の画像をこのblogに貼っているのは、この程度ならニコニコ静画では削除されない、つまり一般に「18禁」扱いされる絵ではないと判断したからである。

・・・ちなみに、なんで今頃これを追記してるのかって、実は今日の今日まで自分のpixivアカウントの設定が「18禁OK」になっていなかったことに気づいていなかった(笑)。その設定だと18禁絵は存在することすら判らない表示になってしまうのである。

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動画「プリウス車両接近通報装置をブブゼラにしてみた」

2010年09月17日 | 他人様の絵貼らぬでもなし
真夜中に腹抱えて笑ってしまったよ。


ちなみに上は、以前から「お気に入り」に入っているこの動画の関連動画として出てきた。

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「吉本の社会理論」?

2010年09月17日 | miscellaneous
アクセス解析を眺めていたら、わざわざ香港から「吉本の社会理論」という検索語でググって、どういうわけかこのblogを眺めにきた人がいるらしいことがわかった。

この場合の吉本というのはもちろん吉本隆明のことだろう。さすがにウチではそっちはやってないから、お役に立てなくて申し訳なかったが、いま自分で検索してみたら桃山学院大学(社会学部)教授の宮本孝二氏が「吉本隆明の社会理論」という題で論文を書きついでいる。同大学の社会学論集に掲載されているようだが、国立国会図書館のデジタルアーカイブにも(全部ではないようだが)収録されていて、Web上から読めるようだ。



以上は今朝出勤前に慌てて書いた。せっかくだから少し書き足してみる。

他人様の論文まで紹介しておいて言うのも何だが、吉本隆明に社会「理論」というほどのものがあるかというと、わたしは微妙だと思っている。吉本は学者というよりは思想家だと思う。つまり、まとまった理論の形にはなっていなくても、独自に培われた社会認識というか見識があって、学者という立場の人間にはまず絶対言えないようなことを言うわけである。学者にその能がないからというのでは必ずしもなくて、生化学の件で書いたように学者・研究者には知識の客観性とか厳密性ということの縛りがあるわけである。目の前にどう見てもアホな奴がいるからと言って、ただそれだけの主観的な理由でアホと断定してはいけないのが学者の知識というものである。

それはそうだが、物事は常にそうでなければならないかと言えば、もちろんそんなバカな話はない。どう見てもアホな奴がいたら、見た通りにアホだと言ってしまえる能力(自由)が、人間には確かにあるわけなのだ。それが表現(の自由)というものである。吉本隆明の主著のひとつ「言語にとって美とはなにか」も、いわゆる言語学の言語理論ではなく言語「表現」の理論として書かれたものである。それは後に「言語の根本にあるのは沈黙だ」というところまで煮詰められて行った。どんな言語学を考えても「沈黙」を繰り込むことができる客観的な理論など成り立つはずがない。けれどもそうでなければ、言語の理論は表現の理論にはならないということを吉本は言い切ってみせたわけである。

「社会」についても同じことが言える。たとえば吉本の「ひきこもれ」という本は、社会学者や社会哲学者には決して書けない本だとわたしは思う。かといってそこらのオッサンやオバハン(わたしもこっちに含まれる)でも言える程度のことが書かれているのかというと、それも決してそうではない、ひたすら考え続けてきた吉本だからこそ言える何かであるわけなのだ。だから吉本の著作から「理論」を抽出することなど不毛だと言いたいわけでは必ずしもない。「知識」の側からのそうした努力はあっていいし、たぶんなされなければならないことである。ただそれは「知識」にとって、前途遼遠という言葉では追いつかないほど遥か彼方の課題であるように、今のわたしには思える。

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軽々しく「生の跳躍」などと言うなかれ

2010年09月16日 | チラシの裏
Amazonにある合田正人訳のベルグソン「創造的進化 (ちくま学芸文庫)」の書評を読んでて面食らった。この本はそのうち「土曜日の本」にしようと思っていたのだが・・・どうすっかなあ。

わたしは計算機屋だが、大学では人工生命研究のためにわざわざ生化学や分子生物学の講義も受講してきた(ちゃんと単位も取ったんだぜ)男なので、「エラン・ヴィタル」なんておフランス語を聞くと自動的に寒気がするようになってしまっている。

現代生化学の歴史は、ある側面から見れば生気論を克服してきた歴史そのものである。有機物(organic matter)という言葉はもともとそれらが「生物体(organism)のみが産生する物質」だと考えられていたためにつけられた名前なわけである。生物体だけがそうした物質を産生するのは、生物体に何か特別な力が備わっているからだ、というのが典型的な生気論の主張である(まあ、だから、いまどき「オーガニックなんちゃら」と称するものは例外なく、最後は生気論的な迷妄に帰着するところを持っていると見なしておいて、まず間違いない)。実際にはそうではない、生物体の体内で起きていることはあくまで普通の化学反応であって、ただその反応の多くが酵素と呼ばれる(それ自体も別の生化学反応によって作り出される)分子機械によって触媒されていることだけが特別なのだ。生化学がこの最も基本的な事実に実証的にたどりつくまでには、優に数百年の時間と、有名無名の無数の研究者の努力が費やされてきたのである。

そうした研究の歴史に連なるひとりとしての、生化学の研究に携わっている人達の自負というか、誇りといったものは、それはそれは大変なものがあるわけなのだ。それに触れたことは、わたしにとって、講義で教わった生化学の細々した知識よりもずっと重要なことのひとつになっている。彼らの知識と誇りを踏まえてなお、生命現象について物質科学と重ならない何かを取り出すことが、仮に可能であったとしても、それにはベルグソンの時代と比べても比べ物にならないくらい途方もない哲学上の研鑽が必要とされるはずだと、わたしは思っている。

このblogではおちゃらけたことばかり書いているわけだが、それは実際問題、現時点ではおちゃらけ以上のことが(わたし自身はもちろん、他の誰にせよ)書けるとは、わたしはまったく思っていないからである。



以上の話は独立した文章として書いたものだが、家へ帰ってきて読み返していたら、以前すこし書いたホメオパシー云々の話ともちょっとだけつながりがあることに気がついた。

生化学者もいろいろだが、この分野の学者先生は、たとえばホメオパシーみたいなものの話を聞くと激怒して「非科学だオカルトだ」と騒ぎ立てるかというと、必ずしもそんなことはなかったりする。もちろん非科学的だというところまでは「こんな説明じゃ誰も納得しないよ」という話になるわけだが、ナチス学術会議みたいに頭ごなしなことは案外言わないのである。

なぜかと言えば、彼ら生化学者全員にとって20世紀の神様その1であるところのライナス・ポーリング先生のことが頭にあるからだとわたしには思える。ポーリングは言ってみれば量子力学に基礎づけられた現代化学の大成者だと言っていい(まずは上のリンクの先にあるWikipediaの解説をゼヒ読んでもらいたい。計算機科学におけるフォン・ノイマンと同じか、ひょっとするとそれ以上の存在だということがよくわかる)、それほどの偉人なのだが、一方ではまさしく「思いこみ薬」としてのビタミンCの効用を主張することに晩年の執念を傾けた人でもあるわけである。ポーリング先生ほどの人でもそういうことがあるのだから、化学物質が「効く」とか「効かない」というようなことは、あまり簡単に結論的なことを言うべきではない、という自己抑制があるのだと思う。

わたしが講義を受けた教授のひとりは「そもそも病気がどうしてそういう症状を顕すのか、その生化学的なしくみというのは決してそんなによくわかっているわけじゃないんだ。薬が効くとか効かないということの方もね」と語っていた。

その教授に、学生のわたしはあるとき「コラーゲンを飲んでお肌ツルツルってのは、ありゃ何なんですか」と質問したことがあった。言下に「そりゃあ、あんなのは嘘っ八さ」という答が返ってくるものと期待していたら左にあらずで、実際に返ってきたのは「さあ、何なんだろうねえ。もちろん吸収される前に完全に分解されちゃってるはずだけどねえ」という、いくぶんとぼけたような答であった。

そう、ほんとに実験して検証できたこと以外は安易に決めつけるようなことを言わない、それがホントの科学者なのである。



せっかくだから「コラーゲンでお肌ツルツル」の方にもフォローを入れておこう。

経口服用したコラーゲンが直接皮膚組織まで到達するなどということは、まず絶対にありえない。しかし、それなら「コラーゲン」云々の宣伝は全部嘘かというと、必ずしもそうではないだろうと、実はわたしは思っている。日本の伝統的な食生活、あるいは現代的な食生活でもダイエットしている人のそれは、大雑把に言って動物性タンパクの摂取量が恒常的に不足気味であるはずである。そうだとすれば動物性タンパクであるコラーゲンを含んだ健康食品を摂取することは、文字通り不足している成分(アミノ酸など)を補うことにはなっているはずである。

(Sep.18,2010追記)
念のため書くと上の文章は「創造的進化」の感想ではなく、Amazonの書評の感想でもなく、後者を読んでなんとなく心に浮かんだことを書いたものである。で、「創造的進化」の方は今日買ったので画像つきリンクを張っておく。
創造的進化 (ちくま学芸文庫)
アンリ・ベルグソン著/合田・松井訳
筑摩書房
Amazon/7net

このぶ厚さと面倒くささは「土曜日の本」ではないからそっちには入れないが、ベルグソンの著作はだいたい誰でも一度は読んでおいていい本である。

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啄木は暢気な男だった

2010年09月15日 | チラシの裏
普通にそうではないと思われているので、違うと言っておきたい。

  はたらけど
  はたらけど猶わが生活楽にならざり
  ぢつと手を見る

わたしと同じワーキングプアの諸兄は胸に手を当てて考えてみてもらいたい。ほんとに貧困に喘いでいたら、わざわざこんなことしないだろう。したことがあったとしても、この歌が心に迫ってくることは、たぶんないはずである。

そう、いかにも神妙そうに己の手を眺めて溜め息のひとつもついている光景であるかのようで、啄木のやってることというのは実は

  実務には役に立たざるうた人と
  我を見る人に
  金借りにけり

朝日新聞の校正係の給料なんぞたかが知れていたはずである。さほど長くない生涯を借金まみれで過ごしたと言えば、西のモーツァルト、東は啄木が横綱だ。で、借りたら借りたで啄木は

  友がみな我よりえらく見ゆる日よ
  花を買ひ来て
  妻としたしむ

借りたばっかりの有り金はたいて、ものすごいバラの花束か何かを買って帰ったに違いない。「妻としたしむ」なんて、歌の上では格好をつけているが、本当はスゲエ怒られて大変だったのが「したしむ」の内容であったに決まっているわけである。

そして本当はこの種の暢気さを置いて眺めてこそ、「ぢつと手を見る」という字句は我々の心に迫ってくるのである。

  よく笑ふ若き男の
  死にたらば
  すこしはこの世のさびしくもなれ


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鴨川つばめファンのblog

2010年09月14日 | pride and joy
アクセス解析を逆にたどって、他人様のこんなblogがあるのを見つけた。

  鴨川つばめ未収録作品の小部屋‐あんのブログ

鴨川つばめのレア作品と1ページのキャプ、それにblog主のコメントがついた記事が数十件、ほど続いたところで中絶されている。「とにかく、当時絶大な人気を誇った漫画家にもかかわらず、鴨川つばめ作品には未収録や本にならない作品が、あまりにも多すぎです。」(Apr.14,2009)ホントにねえ。

ただ鴨川つばめの場合、単行本化されなかった作品、単行本に収録されなかった話数というのは、出版社よりも本人の意向があったのではないかと考えられる場合が多い気がする。出版社というのは普通、本になるネタがあるなら何だって本にして出してしまいたいものなので、かつて一世を風靡したほどの作家についてこれだけ未単行本化、未収録の作品・話数があるというのは、作家本人の強い意向があるのでなければ考えにくいのである。

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