惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

動画「プリウス車両接近通報装置をブブゼラにしてみた」

2010年09月17日 | 他人様の絵貼らぬでもなし
真夜中に腹抱えて笑ってしまったよ。


ちなみに上は、以前から「お気に入り」に入っているこの動画の関連動画として出てきた。

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「吉本の社会理論」?

2010年09月17日 | miscellaneous
アクセス解析を眺めていたら、わざわざ香港から「吉本の社会理論」という検索語でググって、どういうわけかこのblogを眺めにきた人がいるらしいことがわかった。

この場合の吉本というのはもちろん吉本隆明のことだろう。さすがにウチではそっちはやってないから、お役に立てなくて申し訳なかったが、いま自分で検索してみたら桃山学院大学(社会学部)教授の宮本孝二氏が「吉本隆明の社会理論」という題で論文を書きついでいる。同大学の社会学論集に掲載されているようだが、国立国会図書館のデジタルアーカイブにも(全部ではないようだが)収録されていて、Web上から読めるようだ。



以上は今朝出勤前に慌てて書いた。せっかくだから少し書き足してみる。

他人様の論文まで紹介しておいて言うのも何だが、吉本隆明に社会「理論」というほどのものがあるかというと、わたしは微妙だと思っている。吉本は学者というよりは思想家だと思う。つまり、まとまった理論の形にはなっていなくても、独自に培われた社会認識というか見識があって、学者という立場の人間にはまず絶対言えないようなことを言うわけである。学者にその能がないからというのでは必ずしもなくて、生化学の件で書いたように学者・研究者には知識の客観性とか厳密性ということの縛りがあるわけである。目の前にどう見てもアホな奴がいるからと言って、ただそれだけの主観的な理由でアホと断定してはいけないのが学者の知識というものである。

それはそうだが、物事は常にそうでなければならないかと言えば、もちろんそんなバカな話はない。どう見てもアホな奴がいたら、見た通りにアホだと言ってしまえる能力(自由)が、人間には確かにあるわけなのだ。それが表現(の自由)というものである。吉本隆明の主著のひとつ「言語にとって美とはなにか」も、いわゆる言語学の言語理論ではなく言語「表現」の理論として書かれたものである。それは後に「言語の根本にあるのは沈黙だ」というところまで煮詰められて行った。どんな言語学を考えても「沈黙」を繰り込むことができる客観的な理論など成り立つはずがない。けれどもそうでなければ、言語の理論は表現の理論にはならないということを吉本は言い切ってみせたわけである。

「社会」についても同じことが言える。たとえば吉本の「ひきこもれ」という本は、社会学者や社会哲学者には決して書けない本だとわたしは思う。かといってそこらのオッサンやオバハン(わたしもこっちに含まれる)でも言える程度のことが書かれているのかというと、それも決してそうではない、ひたすら考え続けてきた吉本だからこそ言える何かであるわけなのだ。だから吉本の著作から「理論」を抽出することなど不毛だと言いたいわけでは必ずしもない。「知識」の側からのそうした努力はあっていいし、たぶんなされなければならないことである。ただそれは「知識」にとって、前途遼遠という言葉では追いつかないほど遥か彼方の課題であるように、今のわたしには思える。

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