惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

ある考察(1)

2011年07月03日 | わけの判らぬことを云う
コドモのころから不思議で仕方がないと思っていることのひとつに、「人はひとりでは生きられない」云々という言い方がある。それが事実であるかどうかはさしあたりどうでもいい、というかだいたい事実なのだろうが、それが気に食わないとか不思議だとかいうわけではない(気に食わないのだが)。

不思議だというのは、そうしたことを口にする、あるいは文字にして書く人達は、ほとんどの場合「ちっとも残念そうな顔をしていない」ことが不思議なのである。字で書いてある場合でも、字面の上にそれらしい表情を読み取ることは、ほとんどできないことになっている。どちらかと言えばむしろ「どや顔」で言っているか書いているかしているように感じられることの方が圧倒的に多い。つまりそう言ったり書いたりする人のほとんどは、「人はひとりでは生きられない」ということを、物理法則に似た、いわば「生の法則」か何かのように思っているばかりでなく、それを肯定的なことだと思っている、というか、そうでなくてはいけないと思っている、ようである。実際そう言って説教される側からすると疑問の余地はないと感じられる、それくらい言葉や表情の上に、その事実に対する肯定的な心情がはっきり現われているし、読み取れるものである。

特に後者の肯定的な心情がいったいどこからどうして出てくるのか、わたしにはまったく理解できないという意味で不思議なのである。本気で本当に不思議なことだと思っている。「とても残念なことだが、それが事実なのだ」というなら、その残念には共感できるという意味で、むしろ理解はたやすいことであったはずである。だが生憎とわたしの心情の傾向はまるっきり逆だったのである。それが事実で、どうしようもなく動かしがたいことであるなら、それは心の底から残念でならない何事かである。だから、同じ事実を反対の心情のもとで述べる人には共感も理解もできないし、あまつさえ前者の事実に対してさえ、どうかして何かヒネリをきかせて逆らってみせることはできないだろうか、というようなことを考えたりするようになる、というか、事実なったのである。だから今もこんな風であるし、こうして時々blogに書きつけてみることをするわけである。

そんな基本的なことに逆らうことなどできるのかと言って、その可能性だけはいつでも容易に示せることである。「人はひとりでは生きられない」というのを「人は空気のないところでは生きられない」に置き換えてみればいい。これだって一見すると動かしがたい事実のように思えるが、実際には少しも絶望的な事実ではないことを、現代の我々は知っている。事実として人類は大気圏外でも月面上でも一定期間生存し、意味のある活動を行うことができているのである。もちろん莫大なコストをかけてようやく実現できているのだが、しかしそれはコストの問題であって、絶対の不可能事ではない。コストの問題にすぎないことを絶対の不可能事のように述べたり思い込んだりしてはならない、とは、最近ではたいていそう教わるようになったらしい「エンジニアの心得」の筆頭項目である。

ところで、後者の例で「空気がないと生きられない」という言い草の意味は、それを文字通り受け取った場合の「生物体としての人体の生存と活動には、体外から酸素が継続的に供給されることが必要不可欠である」という意味ではなかったということに注意してみる。つまり、この種の言い草の主の言わんとすることが「酸素の継続的な供給」ということであったとしたら、現在あるものとは物理化学的にまったく異なる原理で生物体としての人体を(再)構成する──しかもそのとき、意識の連続性や人格の同一性が損なわれないような──方法が存在して、かつ再現可能な手順として確立されない限り「人間が空気なしで生きる」ことはほぼ絶対に不可能だと言わざるをえないことになるだろう。でも実はそういう意味じゃないわけである。たいていは単に「大気圏内、それもほとんど地べたにへばりついていなければ生きられない」という意味である。だから、別の人工的な手段で体内に酸素を供給するしくみを作ってやりさえすれば、大気圏内であるかどうかにかかわらず、人間は一定期間生存し、大なり小なり意味のある活動を行うことができるということを示せば、それは意味のある指摘だということになるわけである。

(このシリーズの主題がいったい何であったのか本人が忘れなければ、つづく)
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