惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

無題

2011年11月29日 | わけの判らぬことを云う
「高速哲学入門(318)」で「反文明主義をどうすれば、またどうやって克服できるのか」というようなことを書いたわけだが、もちろん容易なことで答の出る話だとは思っていないわけである。

ヴィゴツキーの「発達の最近接領域」(この最近接というのは英語ではclosestと訳されているのだが、どちらかと言えばnearest neighborとかadjacentのニュアンスである)の話を読んでいると「ええ話やな」とわたしでも思うわけだが、言うは易しだと言えば言える気もしてくる。それは言ってみれば、相場の値動きから「トレンド」を読み取って「時間発展(time-development)の最近接領域」をポジる、というのとどこが違うのかとツッコミを入れたら、誰かは答えてくれそうな気があまりしないことである。

人間の発達はともかくとして、相場の場合、現在価格(ないしレート)がx円だとしたら、直近の任意のm分の動きからする任意のn分後の価格(レート)の最尤推定はやっぱりx円なのである。普通に思いつくような統計的手法をこねくり回す限りそれ以外の結論はない。相場談議の中で「トレンド」という単語が出てきたら、1000回のうち少なくとも999回は確実にただの錯覚だと思っていいし、残りの1回もまあ結果論だと言っていいようなことなのである。

もちろん人間の発達には確かな「トレンド」がある。5歳児の1年後の最尤推定がやっぱり5歳児だということはありえなくて、だいたい普通の6歳児のようになっているだろうというのは確かなことである。よほどうっかり者の母親でも、コドモに着せる服を買うのに今日の背丈にぴったり合わせて買ったりはしないわけである。

それはそうだが「最近接領域」ということを問うとしたらそれほどはっきりした話になるのかどうかは判らない気がする。何が言いたいのかというと、コドモの発達の、特に知的な側面というのは、本当は対象として可観測ではないし、可制御な対象ではいよいよないはずだということを言ってみたいわけである。

もちろん生物の個体集団の適応とか進化というのも同じことだが、生物の適応とか進化の場合はだから「自然選択」ということになるわけである。いまわが国の学校で進化論というのはどんな風に教えられているのか、わたしは知らないのだが、出戻り学生をやっていた頃に改めて進化生物学を聴講していて目からウロコを落としたことは、適応とか進化というのはどんな場合でも「種」について言うことであって「個体」の問題ではないのだ、ということだった。当たり前と言えば当たり前のことだが、我々が日常「適応」とか「進化」という言葉に対してもっているイメージが実際にそうしたものなのかと言ったら、たぶんそうではないのである。

実際、今でも「弱肉強食」「競争原理」というようなことをどや顔して語る人ならたくさんいる。適応や進化が「『種』について言うことであって『個体』の問題ではない」というのをこれに即して言い直せば、「真っ先に食われるのは(いついかなる場合でも)自分自身でありうる」ということにほかならない。本当は我々は誰も「無知のヴェール」の外には出られないのだということだ。そうと知ってて言うのでない限り「弱肉強食」「競争原理」などということを過剰に強調して言うのは、少なくともそれを進化論の文脈に重ねて言うのは間違いだということである。つまり、そんなことをどや顔して語るのは進化論が判ってない証拠だと言っていいのである。
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