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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

ちょっとした冗談

2016年05月01日 | わけの判らぬことを云う
以下は『言語美』の一節で、今やってる「要約」プロジェクトとは直接関係しないので別カテゴリに分類して投稿するのだが ──

・・・劇が成立するためには、現実の空間と、そこから手のとどく物語の空間と、第二の架空間(舞台)とのあいだを、自在に通れるくらいに表現の意識が飛躍〔傍点〕できることが必要な条件になる。つまり演者、作者、観客は、それぞれちがった仕方で、かならずこのような〈飛躍〉の過程を通らなくてはならないのだ。

こういう劇のほんとうの構成のすすみかたに耐えうるものは〔近世においては〕たれか?

社会的身分は同然でありながら、観念の世界ではとても高度な飛躍にたえる条件をもったものはたれか?

ここではじめて遊郭、私娼街の人物、そこにあつまり足をふみいれる人物、その特殊な世界の倫理的宗教を背負う人物たちが登場するのだ。・・・浄瑠璃、歌舞伎の劇としての構成が成り立ったのは、この世界とこの世界の倫理とにいちばん身近な鏡をみたといえる。

浄瑠璃、歌舞伎が奇妙な世界だということは、たれでも感じることができよう。どんな主題もみんな遊郭、私娼窟の世界にむすびつけられてしまう。それはたんに世俗的な趣向に投じやすいためという以上に、世界の中心にかかわりをもっていることを、信じないわけにいかない。

(吉本隆明『言語にとって美とはなにか II』第V章 構成論・第III部 劇・第II篇 展開論・3 構成の思想(I)より)

この引用にある「浄瑠璃、歌舞伎」を「学園モノ」に、「遊郭、私娼窟」を「学校」に置き換えたら、マンガやアニメ、あるいは最近のライトノベルを含めた(しばしばSF的な近未来あるいは「異世界」の)学園モノの、劇としての構成はこの記述にぴったり沿ってくるのではないだろうか。なんとなくそんな気がした。もちろん根拠はないから、これはあくまで冗談だ。
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