惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

自殺統計のはなし

2010年03月28日 | 机上の空社会学
昨日の「土曜日の本」で、中井久夫の「隣の病い」を一番にオススメしなかった(オススメしないわけではない)理由のひとつは、たまたまこの本が「1986年から1996年まで」の中井の文章を集めた本だからであった。わかりやすく言えば「バブルと社会主義圏崩壊から阪神大震災まで」の時期に書かれた文章だということだ。

それはそれで、日本も世界も激動していたあの空前絶後の時期に、わが国屈指の精神科医のひとりが何を考え、何を書いたのかということに興味があれば、読むべきことがたくさん書かれているわけだが、なにしろ扱われている事象が歴史的に大きいので、それについて書く中井の視野も自然と大きく広くなっているところがあるわけである。いつもこんな調子なのだと思って読んだら勘違いしてしまう人もいるだろうと思ったのである。

もうひとつは、これもそのことに関連しているわけだが、そういう視野の広い話に限って言えば、本当を言ったらいま一番肝心なのは「1997年以後の日本」をどう見るのかだという思いが以前からわたしの中にはあって、それを伺える本でなかったのが少し残念だったのである。もちろん、そういうのを読みたければ中井の最近の著作を読めばいいわけだが。

それで「1997年以後の日本」とは何のことを言っているのかと言えばほかでもない、1998年はわが国で自殺者が急増した年である。以来ずっと横ばい傾向にあるのは、今や誰でも知っている通りである。一般的にはこれは1997年後半に大手銀行や証券会社の破綻が相次ぎ、年をまたいで1998年初頭から企業の大規模なリストラが横行するようになって失業者が急増したことに関連があると言われているし、この年に急増したこと自体は実際そのためだろうと思う。


(リンクと画像は「社会実情データ図録」様)

しかし、統計資料を眺めていると、その後の失業者数と自殺者数の推移は必ずしもよく連動しているとは言えないのである。わかりやすいところで言えば去年(2009)で、失業者数は1998年以来の急激な伸びを示しているにもかかわらず、自殺者数はそれを追って増えてはいない。「ほぼ横ばい」と言っていいのである。つまり1998年に起きたことは単なるリストラの嵐ではなく、わが国の社会の構造全体に生じた何らかの不可逆的な変化なのではないかということである。

ちなみに日本で人口あたりの自殺率が過去最高だったのは1958年である。自殺率の長期推移の統計資料を見ると、その年をピークに、1950年代の日本はちょうど現在と同じくらい自殺率の高い国であったことがわかる。同じ敗戦国のドイツと比較してもはるかに高い、ほとんど世界最悪の自殺国だったようである。


(リンクと画像は「社会実情データ図録」様)

1950年代後半の日本は不景気にあえいでいたのか。そんなわけはない。むしろ朝鮮戦争特需以来、戦後復興に弾みがついていた時期である。この時期の自殺率の高さは、当時の日本には現在あるような健康保険の制度がまだなかったことや、「戦後の価値観の大きな転換の中で」ワカモノの自殺率が急増したことが原因だと説明されている。実際、ワカモノの自殺率がこの時期に限って異常に高いのである。ただ、それが「戦後の価値観の大きな転換」のためであったかどうかは、この統計資料から直ちに読み取ることはできないようにも思える。そもそも全社会的な価値観の転換があったのなら、ワカモノだけではなく他の世代も大なり小なり同様の傾向を示していなければならないはずである。けれども統計の数値はそれを示していない。他の世代の自殺率は、特需景気以来むしろ急激に低下しているのである(※リンク先のサイトでは「価値観の大きな転換」ということの意味と、自殺率の増加した理由をそこに求める所以が、もう少し詳しく述べられている。わたしがここで言っていることは、その見方を否定するものではなく、別のことを考えている結果だと言っておく)。


(リンクと画像は「社会実情データ図録」様)

日本の自殺率の長期統計からは他にも興味深い動きが読みとれる。1998年ほどの大幅増ではないが、1985年をピークとして前後数年にわたるひとつの「山」が存在する。1985年はプラザ合意で急激に円高が進んだ年であるが、自殺率の上昇はそれ以前から起きている。景気そのものはむしろ1983年頃から基本的にはずっとよかったので、景気のせいで自殺率が上昇したわけではなかっただろう。

いずれにしても自殺率の長期統計を見る限り、自殺率の増減と景気動向あるいは社会動向の表面的な現われは、必ずしも明確には連動していない。何が言いたいかと言えば、ここには社会の無意識とでも呼ぶべきものの傾向が表れているのではないかということである。

以上の話で「統計資料」と呼んでいるのは専ら以下のサイトの資料である。
社会実情データ図録(リンクは同サイトのトップページ)
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