よく知らんがこの「ファッキンホット」はいま一番ファッキンホットな流行語であるらしい(笑)
註:英俗語のfuckingは日本語で言うところの「超↑」のこと、つまり、どうでもいいただの強意語だと思っていればだいたいあってる
とはいえfuckingの使い方にもちゃんと文法がある。入れていいところといけないところ(普通の英米人なら絶対入れないところ)があるのである。向こうの言語学者でわざわざそれを研究して画定した人がいたりする。どんだけヒマなんだかw
fuckingとかshitとかの最も正確で美しい(笑)用法の例はメタリカのジェームズ・ヘットフィールドの喋りの中にみることができる
コミケ二日目まとめ
・今日も気温40度越え
・スタッフと一般によるポルナレフ
・なんと会場内で霧発生
・艦これ公式本が密かに頒布され大盛況
・突然のゲリラ雷雨により一部の雷電ファンが発狂、「雷ちゃんのおしっこだあああああああああ!!!!」と叫びながら落雷を浴びに行く
#c84
”わたしは1月15日の国連対イラク武力行使決議の期限のまえ1月10日に、こういう意味のことを書いた。もしわたしが架空の国家の責任者だったら、イラクのフセインのところに飛んで、クウェート侵略によってイラクが獲得する権益額と同等の経済的贈与を保障するから、クウェートから撤退せよと→
→説得するだろう、というように。2月8日付の『熊本日日新聞』は、英国の保守系週刊誌『スペクテータ』の記事として、保守政府の責任者海部首相が「クウェートから撤退すれば50億ドルを提供する」と昨年末イラクのフセインに提案して、拒否されたと報道している→
→もしこれが本当ならわたしが架空の国家責任者だったらという真面目な悪ふざけの考えと一致する。拒否したイラクのフセインが、アラブの盟主気取り愚かな社会国家主義者にすぎないのだ。わたしは海部を見直した→
→日米構造協議の米国案で社会経済分析に頭脳と見識の国家的な威信の敗北を喫した日本国は、たとえ屈辱と拒絶感のうちであれアメリカの要求を受け容れるほかない→
→海部保守政府のやり方は肯定するより仕方がないのだ。このことが理解できなかったら、現在の世界を理解できないこととおなじだ”
(吉本隆明「わたしにとって中東問題とは」Apr,1991『中央公論』初出)
NHKで湾岸戦争当時の海部首相とパパブッシュの電話会談、当時そう呼ばれた「ブッシュホン」の内容を公開する番組をやっているらしい。それで、当時わが国ではほとんど唯一に近かったのではないかと思う、海部首相支持の意見を表明した吉本の文章を引用してみた
ハナシは吉本の「悪ふざけの考え」から始まってはいるが、しめくくりに「このことが理解できなかったら、現在の世界を理解できないこととおなじだ」と書かれている。吉本がこんな風に言ってるときは絶対に本気で言っている(そうでない場合も冗談はほとんど言わないのだが)
ちなみにこの「わたしにとって中東問題とは」という一文は、わたしの知る限りでは、吉本隆明が「日本国憲法九条をよしとする」ことを積極的に、また可能な限り徹底的に述べた最初の文章である。このあとでそれも引用してみる(今から打ち込むのでちょっと時間がかかるww)
”戦争と非戦の弁証についてわたしが立っている場所をいってみる。日本国憲法第二章(戦争の放棄)第九条は、戦後新憲法のなかではただひとつの取柄のあるものだ→
→この条項だけは現在のところ世界の資本主義「国」と社会主義「国」と、それ以外の諸国の軍隊規定のなかで、いちばん進歩した優れたものだといえる。そこでわたしの願望を理想化していえば現存している地球上の国家は、この日本国の憲法第九条にならうべきだとおもう→
→はっきり断っておきたいのだが、このわたしの場所は、遠い距りから平和憲法に照らしてこの中東(湾岸)戦争に反対だ、戦争は人命と環境の破壊だからという社共や市民主義者の主張とは似て非なるものだ→
→とくにどんな資本主義「国」も社会主義「国」も、この第九条にならうほかに未来への切符を手にすることはできないから、これにならうべきだという積極的な主張が、わたしが願望として固執したいところだ”
(吉本隆明「わたしにとって中東問題とは」)
全文引用するわけにいかないので、一番肝心なことを言ってる(と思う)箇所だけを引用した。この文章の全文は初出誌『中央公論』の1991年4月号のほか、『大情況論』(弓立社、1992)『情況へ』(宝島社、1994)などにも収録されている
正直に言ってしまえば、わたし自身は今でも吉本のこの一文に現れた、徹底的な「憲法九条貫徹すべし」の主張を、まったく自分の言葉と論理で完全になぞってみせる自信をもっていない
ことは「戦争」すなわち人間の行為の領域にかかわることなので、『「反核」異論』の場合のように、つまり「半衰期がどんな長かろうと短かろうと、放射性物質の宇宙廃棄(還元)は、原理的にはまったく自在なのだ」というほどの自明な根拠を、もとからもっているわけではない主張なのである
「どんな資本主義『国』も社会主義『国』も、この第九条にならうほかに未来への切符を手にすることはできない」これは本当は何を言っていることになるのか、また何を根拠としてそう言えるのか
もちろん吉本は吉本なりに述べてはいる。またこの「わたしにとって中東問題は」の以後でも、言葉をかえながら何度も述べてはいたことである、けれども、当たり前だが、最後まで十分に述べられたわけではなかったし、読んでるわたしの方も完全に得心して読んだということはない
だから「俺はまだ宿題を解いていないな」という気分を、ずっと抱いているのだが、それはそれとしてこの吉本の主張は、憲法論議に関する限り他の誰も言わないことが明瞭に述べられていることは確かである
つまり、資本主義「国」だろうと社会主義「国」だろうと、国家を閉じた政治社会的存在として前提してかかるようないかなる理念も未来にかかわることはできないし、そのもとでなされるいかなる議論も応酬も、つまり党派的議論はすべて無効で、それらを乗り越えた先にしか未来はないのだということである