カプチーノノート cappuccino note

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「悪魔が来りて笛を吹く」1979年東映版を見る。映画はドラマを超えられるか。

2018-04-01 | 金田一耕助もの

西田敏行金田一。等々力警部は夏木勲。

等々力警部が今までとイメージ違う。シャープです。

さて1977年のテレビドラマの豪華な俳優陣と違って、この映画の方がどうしても地味に感じてしまいます。

西田さんは脂ぎっていてもみあげが長くて時代を感じさせます。

金田一がメインに動き回る内容なので、活動的な西田さんが似合っています。

犯人役の宮内淳さんももみあげ長いです。

闇市で天銀堂事件の犯人飯尾と一緒の場面が出た時点で犯人は明らかになっていました。

映画の出だしはスピーディでさすが映画と思うほど展開が早く、原作やテレビドラマを知らなかったら理解できないのではないかと思うくらいです。

しかも、三島の指がないくだりはなくて、フルートを吹くことの意味が薄れています。

映画らしいのはラブシーンが濃厚なところと美禰子が金田一と一緒に須磨に行くところです。

ここで美禰子と金田一が抱き合ったりするのは原作にはないけれどよいシーンでした。

さて、原作からの大きな改変は、原作では自殺した小夜を生かしてお種と同一人物にしたところと、秋子の子どもを治雄から小夜(映画では小夜子)にしたことです。

このことで、肩の後ろに「悪魔の紋章」を持つ男女が抱き合うという非常にエロティックなシーンが撮れたのですが、その反面、椿英輔が残した「悪魔ここに誕生す」の意味がおかしくなってしまいました。

ここで悪魔とは小夜子を指すことになりますが、椿英輔を恐喝したのはたぶん三島だったでしょうから、小夜子のことを悪魔とまでは呼ぶはずがありません。

原作どおり、秋子の子が治雄ならば、それをネタに恐喝した三島を椿英輔が悪魔呼ばわりすることは考えられます。

また、三島が復讐したのはつらい戦争から帰り、自分の唯一の生きる望みだった小夜と子どもを失ってしまったことを知ったからです。

その瞬間、三島にとって実の父母に復讐することが唯一の生きる理由となったのです。

その裏側には実の父母に会いたいという気持ちもあったでしょう。

そこに、美禰子という妹がいた(原作では新宮一彦という弟もいた)ことは三島の魂の救いにもなったはずです。

映画のような設定であれば、三島にとって実の母は生きており、愛してはいけないとしても小夜子は生きているので、わざわざ復讐などせず、小夜子とひっそりどこかで暮らすか、小夜子が拒否するなら陰から彼女を見守っていたはずです。

映画では秋子と利彦のベッドシーンを美禰子に見せないようにするお種(小夜子)の涙が悪魔の子の悲しみを表していて、演じる二木てるみさんがうますぎて、ついほろりともらい泣きしそうになりました。

この辺は改変がうまく働いたところでした。

で、問題なのが梅宮辰夫さんの扱いです。

なぜ、風間役として梅宮さんが出てきて、もっと大事なシーンに費やすべきフィルムを無駄遣いしたのか理解できません。

梅宮さんに等々力警部は無理だったのか?目賀博士でもやらせりゃよかったのになんて思ってしまいました。

東映映画としては梅宮さんが出てくるシーンは最高でしたが、金田一映画としてはまったくいりませんでした。

コメント
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