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日本の原爆開発してたでつなぁ~

2022-08-06 07:10:29 | 歴史
原爆が広島に投下されたのが、今から77年前。
もう、二度と合ってはいけない核戦争。


だけど、日本も原爆を開発してた事実があるでつ。
そりが、太平洋戦争中、旧陸軍がひそかに進めたのが原爆開発「ニ号研究」。
計画を率いた理化学研究所の仁科芳雄博士。

基礎研究を好んだ「日本の物理学の父」が戦局の悪化とともに原爆開発に
巻き込まれてでつ。

2018年、仁科記念財団の資料棚で古い菓子箱が見つかったでつ。
中には仁科氏が1938~47年にしたためた手紙の複写約1500通が入っていたでつ。
同氏は手紙を書く際にカーボン紙で複写し、手元に残していたでつ。

一部は未公開の手紙は、当時の考えの変遷がわかるでつ。
仁科氏は基礎科学推進のために外部の資金を得ることに熱心だったでつ。
軍も有力なスポンサー。

1940年5月5日付で書いた手紙で「陸軍関係者に対し、待ッテ居テハ駄目デ……
積極的ニ出カケテ見テハ如何ガデス」と助言。
陸軍は膨大な予算を抱え、軍事に役立たない基礎研究を支援する余裕があったでつ。

仁科氏は安田武雄中将ら幹部と懇意にしていたでつ。
安田中将の戦後の証言によると40年夏に仁科氏が原爆研究を持ちかけたでつ。
陸軍は41年6月、理研に研究を委託。

内容は人工ラジウムを使う材料検査技術と核分裂エネルギーの利用。
エネルギー利用は動力源と爆弾をにらみ、研究費は1万円(現在の価値で約500万円)で
実現性の調査が目的た。

研究に必要な大型の円形加速器建設が仁科氏の狙いだったと推測。
積極的に軍事研究に踏み出すというよりも、研究費を陸軍から得ようとしたでつ。
核爆発や原子力発電の基盤となる核分裂連鎖反応は理論的には可能だったが、実現性は未知数。

仁科氏らが積極的に研究に取り組んだ様子はないでつ。
変化するのは42年秋以降。
ミッドウェー海戦とガダルカナル島の戦いで日本は相次ぎ敗れたでつ。

仁科氏は10月13日付の新聞に研学にも滅私奉公という記事を寄稿。
12月20日に、科学者と軍の協力体制づくりで海軍幹部と意見が一致したことなどを報告。

43年になると「お国のため」という姿勢が強くなるでつ。
1月上旬に出した4通の手紙では、原爆に欠かせないウランをかき集めようと
苦労する様子がうかがえるでつ。

ニ号研究が始まる直前の手紙にこう書いているでつ。
戦時欠くべからざる研究を重点的に推進することと相成申候。
戦局が悪化するにつれ、悲壮感が漂う。

軍関係者には研究の遅れをわびる手紙を送り続けたでつ。
かつての部下には「どうにかして敵を撃退すべき武器を作らねばならぬ」と
書いたでつ。

45年7月、陸軍はニ号研究を中止。
1カ月後、広島に原爆が投下されたでつ。

翌日の8月7日、仁科氏は理研の部下にこう宛てたでつ。
「『ニ』号研究の関係者は文字通り腹を切る時が来たと思ふ」

仁科氏が軍事研究を進めた背景には若い研究者の出征を止める狙いがあったでつ。
軍関係者に兵役免除を要請したり、実現して感謝したりする内容の手紙は
複数見つかったでつ。

軍がスポンサーだったため、戦況が悪化すると戦争に貢献する成果を出す責任が
生じたと指摘。
仁科氏は戦後、考えを改め、日本学術会議の副会長として科学者による軍事研究を
拒否する声明をまとめたでつ。

「戦争はしてはならぬ」という遺志は、核兵器廃絶として多くの弟子たちに
受け継がれたでつ。

当時の仁科氏らは原爆が製造できるとは考えていなかったでつ。
研究に携わるのは若手を中心に20人ほど。総費用2000万円(当時の為替で約500万ドル)で、
20億ドルを投じた米国とは比較にならないでつ。

物資が不足し、欧米の研究情報が途絶えて理論研究も行き詰まっていたでつ。
ノーベル物理学賞を受賞する朝永振一郎氏が協力する意思を伝えたが、
必要ないと断っているでつ。

核の恐ろしさを知ってるのは、日本だけ。
研究はしてても継続させなかったのは、懸命だったでつ。
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