マッハの貴公子 C1Runner の熱~い日記でつ(¬_,¬)b フフフ・・・

マッハの貴公子 天才タケスィが熱~く語るでつ( ̄ω ̄)ムフ~

江戸城

2024-05-16 07:10:29 | 歴史
江戸城は、江戸幕府の政庁および徳川将軍家の居城。
だけど大阪城ほど、東京では江戸城が取り上げられることはないでつ。

皇居として使われてるのもあるけど、天守閣がないのが理由かなぁ~
そこで…
江戸城についてはあまり知らないので、いろいろと調べてみたでつ。




江戸城は日本一の広さを誇るでつ。
江戸城の規模は、日本で1番の、それも圧倒的な広さを誇るでつ。
他の主要な城の規模を比較してみると…

 熊本城:約20ha
 姫路城:約23ha
 名古屋城:約35ha
 仙台城:約44ha
 大阪城:約106ha(大阪城公園)
 江戸城:約230ha!(皇居+皇居外苑)

江戸城は大阪城の2倍以上、姫路城のなんと10倍も敷地面積があるでつ。
こりは、徳川将軍の威光を全国に轟かせるため。

江戸城の歴史は…
江戸城は、扇谷上杉家の重臣太田道灌によって築かれたです。
鎌倉時代に建てられた江戸館跡に築かれ、1457年に完成。

当時の江戸城は3つの曲輪で構成されており、多くの堀が設けられていた他、櫓や石門などで守りを固めていたでつ。
その後、江戸城は北条氏の支城のひとつとなるでつ。
北条氏のあと、1590年に徳川家康が江戸城に入城。

徳川家康は江戸城の改修工事を計画。
天下普請により全国の大名を召集し、改修工事に参加させるです。
このとき参加していた大名は、加藤清正や福島正則、加藤嘉明など。

なお、城の設計は、徳川家康の信頼が厚かった築城の名手藤堂高虎が担当。
非常に大規模な改修工事のため、徳川家康の代では終わらず、二代目将軍徳川秀忠、三代目将軍徳川家光に引き継がれたです。
大改修が始まってから約30年後の1636年、ようやく江戸城の全容が完成。

江戸城は日本最大の規模を誇る、徳川幕府の権力を示す威厳あふれるお城となったです。
現在は皇居となってる江戸城。
天守閣跡とかあるみたいだけど…

あまり江戸城周りはブラタケスィしなかったなぁ~
武道館行った時にかなり広いなぁ~とは思ったけど…
入れる場所も限られてるかなね。

江戸城の天守閣を復活させるのは、なかなか声が上がらないけど、
何か理由があるのかなぁ~

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紫式部と藤原道長

2023-11-01 07:10:29 | 歴史
24年大河ドラマ「光る君へ」の主人公が紫式部。
紫式部を知る上で欠かせない人物のひとりに、藤原道長がいるです。

藤原道長は平安時代の貴族であり、政治家としても活躍。
貴族の平安時代
藤原氏の最盛期。




紫式部は源氏物語を執筆するいっぽう、宮中で働いていましたです。
彼女は天皇の妻である彰子に仕え、家庭教師を務めているです。
その仕事のオファーをしたのが、彰子の父である藤原道長。

藤原道長は、彰子に皇后として十分な教養を身につけさせるため、優秀な女性を探していたです
そこで目に留まったのが、宮中でも評判になっていた源氏物語の作者・紫式部です。
紫式部にとって藤原道長は、教え子の父親であり、雇い主だったことになるです。

また紫式部は、藤原道長に執筆活動を支援してもらってもいたです。
当時は高級品だった紙や硯をプレゼントされたり、ときには物語の続きを早く書いて欲しいと激励の手紙もあったです。

藤原道長が執筆を促したのは、彰子と天皇の仲を深めるため。
物語の続きがどんどん発表されれば、源氏物語を愛読していた天皇は、頻繁に紫式部のもとを訪れるです。
すると必然的に、彼女と一緒にいる彰子とも接する機会が多くなるわけ。

もちろん藤原道長自身が、源氏物語の熱心なファンだったともいわれているです。
いずれにせよ、紫式部にとって道長は執筆活動の大きな後援者。
「紫式部なくして藤原道長なし」「藤原道長なくして紫式部なし」と言われる所以。

大河ドラマも戦国はわかりやすいけど、平安時代とかは人間関係が複雑。
まずは、大河ドラマ見る前に歴史を学ぶのが先決になるでつ。
史実をどうアレンジしてドラマを組み立てていくかも楽しみでもあるでつ。

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謙信と信長。

2023-07-13 07:10:29 | 歴史
謙信と信長というと手取川の合戦が有名。
だけど、信玄ほど絡みはなかった気がするでつ。

戦の天才 謙信に対して信長はどう対応してたのかも興味があったでつ。
どちらかというと…
信長、秀吉、家康とは絡みが少なかった気がするでつ。




そんな中で謙信と信長の本が出たでつ。
そこでは…
濃尾の織田信長は、とても野心的な人物と見られているです。

父・織田信秀がそうであるように、もともと一介の武人という意識が強く、はじめのうち為政者とは自認していなかったです。
尾張時代の信長はかつて尾張守護の斯波義銀を追放したが、これもやりたくてやったわけではないです。
このへんは、今までの信長のイメージとは違う新しい信長像な感じ。

戦国時代は、下克上の時代といわれるように、家臣が主君を裏切ったことがよく知られていいるです。
だけど、実は主君も家臣を裏切ることがあったです。

信長より今川義元が怖いからと裏切った家臣がいたように、主君が有力な部下を裏切ることもあり、
そうなったら信長も汚名を甘受してでも対応しなければならなかったです。

結果として将軍や主君を追放した信長だが、人並み以上の忠義の心、それがなければ、足利義昭を救うため命懸けで
本圀寺の変や姉川合戦を戦ったりしないです。

上杉謙信は、前将軍・足利義輝の弟である足利義昭が上洛して新将軍となるのを、そんな信長が支えることを
遠国より応援していたです。
信長は甲斐の武田信玄とも敵対関係に入り、信玄嫌いの謙信は信長と軍事同盟を結んで、同志的関係を深めたです。

「川中島」や「桶狭間」といった合戦により、今川氏との同盟関係に緊張が生じていた武田信玄は、織田信長と同盟関係にあった
徳川家康と協調し、駿河の今川氏領国への侵攻を開始。
それに対抗するため相模の北条氏は、上杉謙信と和睦・同盟を結び武田信玄に対抗したです。

すると武田信玄は同盟関係にあった織田信長に頼み、信長と将軍・足利義昭を通じて上杉氏と和睦を開始。
結果、上杉氏と北条氏の不和から越相同盟は成立しませんでしたが、代わりに1571年には武田氏と北条氏の間で甲相同盟が回復。
その頃の信長は、信玄から頼まれていた甲越和与のために奔走していたけど、1572年10月信長は足利義昭に対して17条の詰問文を送り関係が悪化。

同じころ武田信玄は将軍・足利義昭に応じて「西上作戦」を開始、上杉謙信に対しては石山本願寺や椎名氏・神保氏といった越中の諸将を
調略して越中大乱を起こさせ、謙信を越中に留まらせることに成功。
信長も包囲網に対応するためかなり苦しい状況。

そこで、謙信と織田信長と上杉謙信による濃越同盟で、この同盟が締結したのは1572年11月。
元々、織田信長は甲斐の武田信玄との間に同盟を結んでいました。
今まで友好関係にあった武田信玄の行動に危機を感じた織田信長は、上杉謙信に対して協力を持ちかけ軍事同盟を締結。

その関係も最初は友好だったけど、それもくずれていったです。
1575年、信長は権大納言に任じられ、征夷大将軍に匹敵する右近衛大将を兼任。
このことで朝廷から天下人であることを公認されたです。

1576年に安土城の築城を開始し、順風満帆でしたが、ちょうど安土城の築城が開始されたころ、信長に誼を通じていた丹羽国の波多野氏が反旗を翻し、
石山本願寺が再挙兵、再び信長に対抗する動きが強くなり始めるです。
それに対して信長は明智光秀らをはじめとして、3万の兵を大坂へと送りこみ、さらには信長自らも出陣し本願寺勢を撃破。

だけど、本願寺の援軍に訪れた毛利氏の水軍800隻を前に織田の水軍は敗れたです。
本願寺は信長に対して挙兵したものの、長島・越前と信長に敗北を喫して追い詰められたです。
そこで、本願寺を束ねる顕如は、長尾能景の時代から敵対していた上杉氏との和睦を模索し始めるです。

また、足利義昭は、上杉・武田・北条の和睦を調停しようしますが失敗に終わるです。
これにより織田と上杉の関係は変化。
北陸の一向門徒が謙信に助力を求めたこともあり、長い間不仲であった顕如と上杉氏は和睦し同盟を結んだです。

信長と謙信は敵対関係になったです。
そして、手取川の合戦。

でもこも手取川の合戦は史実として実際にあったのかというのもあるです。
謙信が信長本体を負かした戦。

手取川の合戦は勝家が、七尾城が落城したことも知らないまま、手取川を渡って水島に陣をはったです。
このことを知った謙信は数万という大軍を率いて一気に南下し、形勢不利を悟って撤退を開始した織田軍を謙信率いる上杉軍本隊が追撃、
手取川を渡ることに手間取っていた織田軍を撃破。

このとき上杉軍2万、織田軍4万という圧倒的兵力差にありながら、これを一蹴したのは、「軍神」と呼ばれるほどの
圧倒的強さを誇った謙信だからこそ。
ここで一気にたたけばというところだけど、謙信は義を重んじるので、春日山へ戻ったです。

結果的に信長は、助かったことになるです。
信玄も謙信も歴史のもしがあるとすれば、勝ったその後をみたいところです。
天下に王手をかけた織田軍をあっさりと破り、「天下統一も容易い」と言った謙信が次にどんな手を打ったのかは興味があるです。

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富雄丸山古墳から蛇⾏剣・鼉⿓⽂盾形銅鏡が出⼟。

2023-02-13 07:10:29 | 歴史
地元富雄から凄いものが発見されたです。
発見されたのは、富雄丸山古墳からです。

富雄丸⼭古墳は、4世紀後半に築造された⽇本最⼤の円墳直径109mです。
北東側には造出しと呼ばれる張り出し部があるです。
富雄にこのような古墳があるのは知らなかったなぁ~

これまで、航空レーザ測量調査(第1次調査)、発掘調査(第2〜5次調査)を⾏い、
古墳の構造等を明らかにする上で重要な成果を得てるです。

富雄丸⼭古墳の造出しは、左右⾮対称で特異な3段構造であることが明らかとなっていでつが、その性格を
⽰すような遺構・遺物はこれまで⾒つかっていないです。

本調査でF 発掘区で造出し上段の確認を⾏ったところ、⻑さ約7.4m、幅約3m、深さ約1m の⻑⽅形を呈する墓坑内で
⻑さ約6.4m、幅約1.2m の粘⼟槨(埋葬施設)を確認。

造出し上⾯の礫敷を埋めた⾯から墓坑が掘り込まれており、墓坑を埋めた後に円丘部2段⽬斜⾯を完成させているです。
そのため、築造当初は計画されていなかったものの、古墳が完成するまでの間に埋葬施設を作るよう計画変更が⾏われたと
みられるです。
粘⼟槨内部には、コウヤマキで作られた割⽵形⽊棺が残存。
棺⾝は、墓坑底を⼀段深く掘りくぼめた部分に設置されているとみられ、棺蓋をのせる位置の約30 cm外側の範囲を
粘⼟と砂で薄く整地しているです。

円丘部側の被覆粘⼟中には、鼉⿓⽂盾形銅鏡1⾯と蛇⾏剣1本が副葬されているです。
鼉⿓⽂盾形銅鏡は⻑さ約64 cm、幅約31 cmで蒲鉾状に棺蓋を覆う被覆粘⼟の形状に合わせ斜めに⽴てかけられているです。
背⾯中央に鈕があり、その上下には倭鏡に認められる鼉⿓鏡の図像⽂様が確認できるです。

ほかにも鋸⻭⽂を中⼼とする⽂様があり、類例のない銅鏡。
表⾯が平滑に研磨されており、倭鏡⼯⼈が製作したとみられるです。

鼉⿓⽂盾形銅鏡をブロック状の粘⼟で埋めてその上に⽔平⾯を作り出し、⻑さ約267 cmの蛇⾏剣が副葬されているです。
⽇本最⼤の鉄剣でもあり、蛇⾏剣としては最古例。

刃部幅は約6cmですが、蛇⾏しているため部分的に残存する鞘の幅は復元で約9cmあるです。
柄頭・柄⼝・鞘⼝・鞘尻には有機質の装具痕跡が残存してい円丘部の中⼼と造出しの中⼼を結んだラインを主軸とし、
そこから90 度南東側にふった1〜2段⽬にあたる部分にU 発掘区を設定。

その結果、2段⽬斜⾯の葺⽯が良好に残存し、その裾を確認。
そして、その北東側で裾より⾼い位置に取り付く⾼まりがみつかったです。
この⾼まりは幅約1m、裾からの⾼さは0.3m であり、2段⽬斜⾯との接続部に湧⽔施設形埴輪を設置。

⾼まりの上⾯には⼩礫敷を⾏っているです。
また、⾼まりの北東側は溝で区画されており、さらに北東側になんらかの遺構が広がっているとみらるです。
ミニチュア⾼杯が4点以上出⼟しており、これらを⽤いた祭祀空間であったと考えられるです。

湧⽔施設形埴輪は、囲形埴輪のなかに家形埴輪を⼊れ⼦状に組み合わせたもの。
さらに家形埴輪の内部には2槽式の構造物が設置され、それぞれに⽔を流すためとみられる刳り込みが
表現されているです。

囲・家形埴輪が組み合う場合、⽊樋を表現した⼟製品が伴うものを導⽔施設形埴輪、井⼾等を表現した⼟製品が伴うものを
湧⽔施設形埴輪としているですが、2槽式構造物は類例がないものの、どちらかといえば湧⽔施設であるとみらるです。
このような湧⽔・導⽔施設形埴輪は全国で約10 例みつかっていますが、富雄丸⼭古墳はそのなかでも最古の事例となるです。

円丘部の中⼼と造出しの中⼼を結んだラインを主軸とし、そこから90 度南東側にふった1〜2段⽬にあたる部分に
U 発掘区を設定。

その結果、2段⽬斜⾯の葺⽯が良好に残存し、その裾を確認。
そして、その北東側で裾より⾼い位置に取り付く⾼まりがみつかったです。
この⾼まりは幅約1m、裾からの⾼さは0.3m であり、
2段⽬斜⾯との接続部に湧⽔施設形埴輪を設置。

⾼まりの上⾯には⼩礫敷を⾏っているです。
また、⾼まりの北東側は溝で区画されており、さらに北東側になんらかの遺構が広がっているとみられるです。
ミニチュア⾼杯が4点以上出⼟しており、これらを⽤いた祭祀空間であったと考えられるです。

湧⽔施設形埴輪は、囲形埴輪のなかに家形埴輪を⼊れ⼦状に組み合わせたもの。
さらに家形埴輪の内部には2槽式の構造物が設置され、それぞれに⽔を流すためとみられる刳り込みが表現されているです。

囲・家形埴輪が組み合う場合、⽊樋を表現した⼟製品が伴うものを導⽔施設形埴輪、井⼾等を表現した⼟製品が伴うものを
湧⽔施設形埴輪としていますが、2槽式構造物は類例がないものの、どちらかといえば湧⽔施設であるとみられるです。
このような湧⽔・導⽔施設形埴輪は全国で約10 例みつかっていますが、富雄丸⼭古墳はそのなかでも最古の事例となりうるです。

第5次調査で、墳丘1段⽬に普通円筒埴輪、2段⽬に鰭付円筒埴輪を置き分けしていることを確認。
⼀⽅、墳丘の南⻄側では埴輪列が確認できなかったです。

本調査では、墳丘南側にV 発掘区を設定し、想定位置で3段⽬斜⾯の裾、2段⽬平坦⾯を確認。
斜⾯の葺⽯は崩れて残存してないけど、2段⽬平坦⾯には⼩礫敷が残存。
また、裾から約4m 外側では鰭付円筒埴輪列8本分を確認。

ただし、多くは後世に抜き取られ2本のみ残存。
墳丘南⻄側は、南・⻄側に⽐べて崩れていることが明らかとなり、本来は古墳全体に埴輪列がめぐっていたとみられです。
よって、2段⽬には約400 本の鰭付円筒埴輪が設置されていたと想定できです。

また、墳丘東側に設定したX 発掘区では、1段⽬の普通円筒埴輪列(10 本分)を確認。
ただし、想定位置より外側かつ円周から逸れる位置でみつかっており、湧⽔施設形埴輪を伴う空間に向けて
特殊な構造となっている可能性がるです。

富雄丸⼭古墳の北東側隣接地には、6世紀後半の横⽳式⽯室をもつ富雄丸⼭2号墳、その南東側に3号墳が位置し、
奈良県教育委員会が1972 年に調査しています。ただし、3号墳では埋葬施設がみつかっておらず、古墳であるのかを含めて不明確でした。

昨年度実施した第5次調査では、2・3号墳のUAV レーザ測量も実施し、その等⾼線が前⽅後円形にもみえることから、
これらの可能性を考慮して1972 年の発掘区を再発掘して⼟層等の再確認を⾏ったです。

その結果、3号墳は盛⼟や切⼟が⾏われ⼈為的な造作が認められること、埋葬施設がないことを確認。
また、2・3号墳の間には両古墳を区画するような溝などの区画施設が認められず、測量成果をふまえれば2号墳を後円部、
3号墳を前⽅部とする前⽅後円墳である可能性があるです。

仮に前⽅後円墳であるとすれば、全⻑は概ね40m 程度とみられるです。
本調査では、造出し上段で粘⼟槨を確認し、出現期の造出しの性格を考える上で重要な成果を得たです。
また、そこで出⼟した遺物はいずれも古墳時代前期(4世紀)における国内⼿⼯業⽣産技術の最⾼傑作であるです。

墳丘南東側で確認した祭祀空間は、その⼀部を確認したにすぎないですが、北東側の造出し以外にも特殊な施設や空間が広がることが
明らかとなり、⼤型円墳である富雄丸⼭古墳の重要性を認識できる成果といえるです。

また、富雄丸⼭2・3号墳は前⽅後円墳である可能性が⾼まったです。
富雄丸⼭古墳から約200 年後に築造されたものですが、周辺にはその間を埋めるような古墳はなく、
6世紀後半になって意図して隣接地に築造したとみられるです。

両者の関係性を考える上でも、前⽅後円墳であるかは重要な課題であり、形状や構造を今後明らかにする必要があるです。
う~ん、これだけの大発見。
こんな地下えではとは思わなかったなぁ~

富雄もやっぱりさすがは歴史の奈良県ということです。
だけど身近にこういう歴史的な遺産が出てくるのは、凄いなぁ~

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伊達政宗公の大胆な行動は凄いなぁ~

2023-02-07 07:10:29 | 歴史
戦国武将の人気ランキングでは、常にベスト5位以内には入ってる伊達政宗公。
戦国最後の武将とも言われているです。

ちなみにでき大大河ドラマの視聴率No.1は、独眼竜 政宗。
そりだけの人気もあるけど…
すでに秀吉、家康の天下だったけど、隙あらば天下統一の野望を持ってたです。




初代仙台藩主で、乱世は戦場を駆け抜け、平時は領地経営に勤しみ、大都市・仙台の礎を築き上げたです。
戦国武将として南奥州の山形県、宮城県、福島県の一部を駆け巡り、戦のない江戸時代では仙台藩62万石を
治める為政者として活躍した伊達政宗公。

伊達政宗公は、信長、秀吉、家康より約30歳前後も年下。
生まれた頃は、戦国時代も終盤にさしかかっていたです。
もし政宗が10年早く生まれていたら、日本史は変わっていたかもしれないという意見もある魅力的な武将。

特に秀吉との対面は、大河ドラマでも超名場面だったです。
もともと伊達氏は中央権力である豊臣氏の束縛に対して不服従であり、自由な態度を示していたです。
その上で、同じような立場にある東海の徳川・関東の北条とある種の連合を組んだ形になっていたため、
むしろ本来、政宗は北条側に味方するべきだったといえるです。
実際、北条氏としては伊達氏による援軍を期待して天下の名城・小田原城にこもった節もあったです。

それでも、政宗は北条を見捨てて豊臣氏に味方することを決断し、小田原へ向かったです。
小田原を包囲する未曾有の大軍、また秀吉の機敏な動きを見て、抵抗しても無意味と判断したです。
野心家として知られる政宗としては苦渋の決断だったはず。

関東を大回りして進んだこともあって、ようやく辿り着いたときには完全に「遅刻」の状況。
そのせいか政宗はしばらく幽閉され、使者の詰問に応えた上でようやく秀吉への謁見を許されているです。
政宗はどこまでも大胆不敵だったです。

幽閉されて、もしかしたらという時期に「ぜひ千利休殿に茶を習いたい」などと申し出た挙句、
秀吉との対面に際しても白衣で挑んで見せたです。

この度胸はむしろ秀吉に評価され、杖で首筋を叩かれ「首が危なかったな」と脅されつつも
遅刻を許されることになったです。

やがて小田原城は落ちて、秀吉は東北へ進んで諸大名を降伏させ、天下統一を達成。
そうして始まる豊臣政権の時代において、政宗は自らの領地を守ることに成功。
その背景には、小田原攻めの裏に隠れた政宗の決断と度胸があったです。

いつの時代も、思い切りの良さはしばしば人を救うです。
そして、天下への野望を狙い、それが時々危ない目にあっても、巧みな逃げ口実を作っていたです。

もし本当に、伊達政宗公が10年早く生まれていたら、日本の中心は仙台だったかも
しれないです。
歴史にもしは禁物だけど、伊達政宗公だけは、そう思わせてくれる戦国武将。
だから、高い人気を誇っているです。

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源義経は人の心が読めなかったのかなぁ~

2022-12-16 05:19:51 | 歴史
判官びいきという言葉も残るほど、歴史に名を遺した源義経。
幼いころは、父の敵である平清盛を父と思い、慕っていたというエピソードも残っているです。

長じては兄、頼朝に尽くし、戦果を上げながらも頼朝に追われたです。
悲劇の武将といわれる義経は、なぜ、兄から認められなかったのか。
その人物像を探るです。

源頼朝は、完全に人間不信の人でした。自身を担ぐ坂東武士団も、実の弟たちも、自分に取って
代わろうとする政敵、と疑うです。
武士団の上総介広常や一条忠頼、弟の範頼、義経は追討するです。

対して源義経は、人を信じては裏切られ続けているです。
義経の思い違い、勘違いも多かったかもしれないですが、本人は裏切られたと強く恨んでいたるです。
義経は物心ついたころ、自分の父親は平清盛だ、と思っていたかもしれないです。

義経は平治元年に、源義朝と常盤御前の間に生まれたるです。
だけど、義朝は同年に起こった平治の乱で敗走。
義経に父・義朝の記憶は、ないです。

母の常盤は絶世の美女で、清盛はその美貌に心を動かされ、家を持たせて妾の一人にするです。
乳飲み子だった義経は、常盤と一緒に暮らすです。
足しげく通う清盛を、幼い義経が父親だと思っても不思議はないです。

常盤は、清盛との間に女の子を産むですが、清盛は常盤を公家の大蔵卿・一条長成のもとに再嫁させるです。
そのとき義経は、初めて清盛が父親ではないと知ったです。

常盤が長成と結婚すると、義経は新しい父親とうまくいかず、7歳で鞍馬寺)に預けられるです。
義経は父と慕った清盛にも、愛してやまなかった母にも捨てられたと思うです。

室町時代に成立した軍記物語『義経記』には、義経は、鞍馬寺の僧侶から自分が源氏の嫡流で、
父だと思っていた清盛が敵だと知らされ、怒り心頭に発し、平家打倒を決意したとあるです。

そうかと思うと、のちの小説には、平家打倒のために鞍馬寺で中国の兵法書を読み、
剣術の修行に励んだと書いてあるです。
あるいは鞍馬の天狗が出てきて、兵法を義経に教えたとも。

天狗はさておき、人々の安寧を願う寺に兵法書が置かれているとは考えられないです。
承安4年、16歳の義経は僧となるよう出家を促されるです。
ところが彼は、これを拒んで鞍馬寺を出奔。

同年3月3日桃の節句に、東山道・鏡の宿(で、自らの手で元服。
中世の武家社会では、元服の際、地域の有力者や父親の上司などが烏帽子親と呼ばれる後見人になるです。
前髪を落として髷を整えた男子に、烏帽子をかぶせ、自分の名前から一字を取った諱を与えるです。

義経は全て、自分一人でやったでつ。
自分で前髪を落とし、自分で髷を結い、諱も自分で考えたです。
こんな孤独で寂しい元服はないです。

元服を終えた義経は、奥州藤原氏の藤原秀衡を頼って、平泉に行ったといわれるです。

今に伝わる義経の物語のほとんどは、義経が生きた時代から200年以上のちに書かれた『義経記』によるもの。
ちなみに武蔵坊弁慶(しても、『平家物語』では名のみが伝えられ、「安宅の関の勧進帳」も「弁慶の立ち往生」も
語られていないです。

元服後の義経はどこで何をしていたのか。
『平家物語』や鎌倉幕府の正史とされる『吾妻鏡』に、義経の一の郎等として、伊勢三郎義盛が登場。
彼はもと、伊勢・鈴鹿の山賊。

義経の戦法といえば、一ノ谷の戦いでの「鵯越の逆落とし」と呼ばれる奇想天外な攻撃。
屋島の戦いでの民家に火をつけて焼き払い、大軍で攻めてきたと装う擬装作戦。

壇ノ浦での武器を持たない水夫を、弓矢で狙い討ちする禁じ手など。
平安時代から鎌倉時代ごろまでに主流だった武士の戦い方は、日取りを決め、両軍がそろったところで
「やあやあ、我こそは○○の住人、△△なり~!」と名乗ってから、弓馬をもって討ちかかるという方式。

対して義経の戦法は、相手の裏をかく奇襲・奇策が目立つです。
勝ちさえすればよしとする、山賊の生き方から学んだもの。
もちろん、源平合戦のころの武士が、すべて名乗りを上げていたわけでないです。

『今昔物語』に、17歳で初陣を迎えた武士が、「どうやったら生き残れるか」と歴戦の郎党に聞くと、
「まず馬を狙え。馬が驚いて後ろ立ちになって相手が落ちたら、その上に乗りかかって上から刺せ」と答えているです。
馬を射るのは、船の水夫を射るのと同じ、禁じ手。

そうした戦い方が、建前の裏ではまかり通っていたことも事実。
ただ、皆、それが卑怯な手段だと分かってやっていたです。
義経は、自分の戦術が卑怯だとは考えもしないです。

一方で義経と共に戦い、卑怯な手を使った武士は自責の念から、義経のせいで卑怯なまねをさせられた。
もうこれ以上、あのお方には付いていけないと義経に罪をなすりつけたです。

後年、義経と対立した頼朝も、そうした声を利用して、義経排除の流れをつくったです。
NHKの大河ドラマに、源義経はこれまで何度も登場。

いずれにおいても、義経は見目麗しく、線の細い美少年然とした容貌で、物静かで冷静沈着、武勇に優れた
若者として描かれてたです。

対して今回の『鎌倉殿の13人』の義経は、はしゃぎ回るなど、道徳観念や倫理観に乏しい、“明るい無頼漢”として
描かれていたです。

6歳で鞍馬寺を出奔した後、長い空白期間をおいて、義経が突然、歴史の表舞台に現れるのは、治承4年、
黄瀬川で陣を張る兄・頼朝のもとに馳(は)せ参じ、涙の対面を果たす場面。
義経は22歳。

ずっと孤独だった義経にとって、兄が生きていて、しかも平家打倒のために挙兵したと知ったときは、
本当にうれしかったです。
何とか頼朝の役に立ちたい、その一心で駆けつけたです。

ところが義経は、頼朝が坂東の武士団に担がれている本当の理由を、正しく理解していなかったです。
頼朝は坂東の武士団に対し、「私は源氏の棟梁である」と「貴公らの一所懸命を認め、各々の土地は保証する。
戦果を上げれば、新たな土地もやる」という2つのハッタリを述べたです。

武士団にとって、より大事なのは土地。
しかし義経は、頼朝が源氏の棟梁だから皆が付いてきている、と勘違いしたです。
頼朝が棟梁なら、弟の自分は御曹司と思ったです。

頼朝は、この義経の思い違いを正そうとするです。
養和元年7月、武蔵国浅草から呼び寄せた宮大工により、鶴岡八幡宮の社殿が完成し、その上棟式が行われたです。
そして大工たちに褒美の馬が与えられることになるですが、頼朝は棟梁に与える馬を引く役を、義経に命じたです。

すると義経は、「なぜ御曹司である私がこんなことをしないといけないのか」と文句を言うです。
この態度に頼朝は、血相を変えて激怒。「
たとえ兄弟であっても、義経は御家人の一人にすぎない」と義経と武士団の双方に認識させたです。

頼朝は義経と武士団の空気の悪さを察して、当初は戦の大将に義経を据えようしなかったです。
それでも寿永2年10月、朝廷からの上洛の要請を受けた頼朝は、義経を代官として京に送るです。
すると翌寿永3年1月に、義経は京を占拠していた木曾義仲を討ち果たし、2月には一ノ谷の戦いで勝利を収めたです。

義経は、自分の周囲や後方を見ていませんでした。戦いの合間に立ち止まって、周囲や後方を見るです。
これはビジネスパーソンにとっても、大切なこと。
敵は前だけでなく、後ろ、つまり身内の中にもいることを、義経は分かっていなかったです。

頼朝が義経の目付け役にした御家人の一人・梶原景時は、常に義経の戦い方に意見する一方、
頼朝にも注進していたです。

坂東武者は武功を上げることで、領地の安堵や領地の拡大をもくろんでいるです。
義経はそこを無視して自分で戦い、坂東武士各々が戦功を上げる機会を奪ってしまったです。

元暦元年8月、後白河法皇が義経を左衛門少尉、検非違使に任じたです。
頼朝は、法皇が義経を任官することは源氏を割ることになると分かっていたですが、黙ってたです。

義経は元暦2年2月の屋島の戦い、3月の壇ノ浦の戦いで勝利し、平家を滅ぼすです。
義経は頼朝は自分の活躍を喜んでくれていると思い込んでいたですが、頼朝は、義経が壇ノ浦の戦いで
安徳天皇と三種の神器の奪還に失敗したことに怒り、またこのときになって、朝廷から勝手に任官を
受けるとは不届きだと罵って、義経を京で謹慎させ、東国への帰還を禁じたです。
義経は、この命令を無視して、壇ノ浦の戦いで捕らえた平家の総大将・平宗盛らを護送し、鎌倉に歩を進めるです。

頼朝は義経の鎌倉入りを許さないです。
そこで義経は私はこんなに頑張ったのに、なぜ兄上は受け入れてくれないのかと腰越状に書くです。

この後、義経は頼朝打倒という道を選び、関東で頼朝に恨みを持つ者は義経に付けと声を上げるです。
頼朝は怒り、義経の所領を没収。
京に戻った義経は後白河法皇を頼り、頼朝追討の宣旨を得るです。

頼朝がこれを知って御家人に上洛の命を出し、自らも鎌倉を発つと言うと、法皇は逆に、
義経追討の宣旨を頼朝に下すです。
義経は後白河法皇からも、裏切られたです。

義経追捕の網をかいくぐり、各地を転々とする長い逃避行の末に、文治3年2月、最後に頼ったのが奥州の藤原秀衡。
藤原秀衡は、息子のうち2人に「義経を主君として仕え、3人でともに結束して、頼朝の攻撃に備えよ」と指示してたです。
けれど秀衡の跡を継いだ泰衡は、頼朝からの圧力に屈してこの遺言を破り、翌々年の閏4月に義経を襲ってしまったです。

信じて頼った秀衡の息子に、またしても裏切られたです。
藤原秀衡が主導していたら…
もしは禁物だけど、歴史は大きく変わっただろうなぁ~

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どうする家康。

2022-12-06 07:10:29 | 歴史
2023年1月8日から始まる大河ドラマ第62作『どうする家康』。
室町時代後期から江戸時代を舞台に徳川家康を描くです。

主演は松潤。
たぶん…
松潤が、NHKのドラマに出るのって初めてかもでつ。




大河ドラマの主人公としては、2回目。
前回の大河 徳川家康は、家康が滝田 栄さんだったでつ。
滝田さんが、今までの家康像を変えたでつ。

そして…
信長役が役所広司さん。
信長と言えば、役所さんが一番適役だなぁ~

秀吉役は、武田鉄矢さん。
秀吉も武田さんが一番だなぁ~
キャスト的にも前回の徳川家康は完成度が高い大河史上でも1,2を争う出来。

今回はどうなのかなぁ~
信長役は、岡田准一くん。
こり、ハマりそうだなぁ~

ジャニーズの先輩後輩ってのもいいでつなぁ~
秀吉役は、ムロツヨシくん。
松潤と仲いいし、意外にハマりかなぁ~

信玄役に阿部寛さん。
阿部さんは、天地人で上杉謙信役やったから、ライバルの信玄を
どう演じるかみもの。

最近は、ストーリをかなりアレンジしてる感じ。
いまいち面白味がないとこあるけど、戦国ものならなんとかまとめてくれそう。

久々の戦国だし、ちと注目だなぁ~

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奈良国立博物館と正倉院展

2022-10-08 07:10:29 | 歴史
奈良公園内には、いろんな遺産があるです。
奈良公園は、東大寺、興福寺、春日大社などに隣接しているです。




奈良公園内を歩いていると洋風建築のモダンな建物があるでつ。
こりが、奈良湖国立博物館。
なら仏像館(本館)は、明治27年に完成した奈良で最初の本格的洋風建築。




フレンチルネサンス高揚期の様式。
玄関まわりの装飾は意匠的にすぐれ、明治中期の欧風建築として代表的なもの。
昭和44年(1969)に「旧帝国奈良博物館本館」として重要文化財に指定されたです。

なら仏像館では、飛鳥時代から鎌倉時代にいたるまでのすぐれた仏像を数多く展示しているです。
また中国・朝鮮半島の仏像も展示。
国内の博物館では、もっとも充実した仏像の展示されているです。

そして、秋の奈良のビックイベントが正倉院展。
天平文化の遺産が展示されるです。






正倉院宝物は、かつて東大寺の倉であった正倉院に収納されていた品々で、その数はおよそ9000件を数えるです。
正倉院展は、これらの中から毎年60件前後が厳選され公開される展覧会で、今年で74回目。
今年の正倉院展も例年と同様に、美しい工芸品から、奈良時代の世相がうかがえる文書まで、様々な品が出陳されるです。

無事に正倉院展が開かれることに感謝するとともに
無地に展示物が正倉院に戻ることを祈るです。

さて…
正倉院展で展示物を見た後は…




小腹が空くので…
和菓子をいただきたいところでつ。




奈良町に和菓子の、おくた奈良町店があるでつ。




東大寺正倉院宝物の一つとされている香木の形を模したお菓子があるでつ。




蘭奢待と言う名の和菓子で、昭和天皇よりご寵愛頂いた銘菓。




讃岐の和三盆と吉野本葛のみで作られているでつ。




そういえば、奈良国立博物館も正倉院展も長く行ってないなぁ~
新型コロナで入場制限されてるのかなぁ~
そうすると、ゆっくりと天平の神秘な文化をじっくりと見れるです。

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真珠湾と原爆投下

2022-08-09 07:10:29 | 歴史
真珠湾攻撃は、日本の奇襲攻撃だったけど、ルーズベルト大統領が事前に
知っていたかどうかということが、どうなのかというとこは謎。

だけど、当時のアメリカは戦争に関わらないという前提があったから
どうしても参戦するには、攻撃される必要があったでつ。
そういう意味で、黙認した可能性は高い。




アルキメデスの大戦では、どう描かれるのかなぁ~
だけど、ルーズベルト大統領が知っていたには、被害は大きかったのは
そこまで日本の力を侮ってたとこはあったかもでつ。

日本が一発撃たなければ、戦争は始まらなかったけど、軍の暴走を止めることが
出来なかったというより、アメリカと交渉出来るだけの人材が日本にいなかった。
というのもあるけど、日清、日露、第一次世界大戦と常勝だったのもあるでつ。

そいと海軍は世界三大と言われてたし、航空機技術も高かったでつ。
そういう意味で、日本に過信があったのも事実。
アメリカの挑発に乗ってしまったということ。

その始まった戦争をなかなか終わらせることが出来なかったでつ。
ドイツとイタリアは早めに終戦したけど、日本は最後までというより
政府は誰も責任取りたくないからなかなか終戦出来なかったでつ。

無責任な政治家さんは昔も変わらないでつ。
戦争を終わらせるため、ソ連が参戦したこともあって、早く決着を付けるために
原爆が投下されたです。

日本が早く終戦してれば、広島と長崎は無事だったんだけど、無責任な政治家さんのために
原爆を投下されてしまったです。
もし長崎の後まだ終戦してなければ、京都かもしかすると東京へ投下されてたかもしれないです。

今から77年前、長崎に投下された原爆。
広島も長崎も軍事工場があることが投下された一番の理由。
結局は、アメリカの戦略に乗せられて、アメリカの属国になってしまったということ。

もしルーズベルト大統領が知っていたとしたら、真珠湾の被害は少しだった気もするでつ。
そう考えると正確な情報は掴んでないけど、攻撃はしてくることは理解してたと
いうのが推理としてはただしいかなぁ~

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日本の原爆開発してたでつなぁ~

2022-08-06 07:10:29 | 歴史
原爆が広島に投下されたのが、今から77年前。
もう、二度と合ってはいけない核戦争。


だけど、日本も原爆を開発してた事実があるでつ。
そりが、太平洋戦争中、旧陸軍がひそかに進めたのが原爆開発「ニ号研究」。
計画を率いた理化学研究所の仁科芳雄博士。

基礎研究を好んだ「日本の物理学の父」が戦局の悪化とともに原爆開発に
巻き込まれてでつ。

2018年、仁科記念財団の資料棚で古い菓子箱が見つかったでつ。
中には仁科氏が1938~47年にしたためた手紙の複写約1500通が入っていたでつ。
同氏は手紙を書く際にカーボン紙で複写し、手元に残していたでつ。

一部は未公開の手紙は、当時の考えの変遷がわかるでつ。
仁科氏は基礎科学推進のために外部の資金を得ることに熱心だったでつ。
軍も有力なスポンサー。

1940年5月5日付で書いた手紙で「陸軍関係者に対し、待ッテ居テハ駄目デ……
積極的ニ出カケテ見テハ如何ガデス」と助言。
陸軍は膨大な予算を抱え、軍事に役立たない基礎研究を支援する余裕があったでつ。

仁科氏は安田武雄中将ら幹部と懇意にしていたでつ。
安田中将の戦後の証言によると40年夏に仁科氏が原爆研究を持ちかけたでつ。
陸軍は41年6月、理研に研究を委託。

内容は人工ラジウムを使う材料検査技術と核分裂エネルギーの利用。
エネルギー利用は動力源と爆弾をにらみ、研究費は1万円(現在の価値で約500万円)で
実現性の調査が目的た。

研究に必要な大型の円形加速器建設が仁科氏の狙いだったと推測。
積極的に軍事研究に踏み出すというよりも、研究費を陸軍から得ようとしたでつ。
核爆発や原子力発電の基盤となる核分裂連鎖反応は理論的には可能だったが、実現性は未知数。

仁科氏らが積極的に研究に取り組んだ様子はないでつ。
変化するのは42年秋以降。
ミッドウェー海戦とガダルカナル島の戦いで日本は相次ぎ敗れたでつ。

仁科氏は10月13日付の新聞に研学にも滅私奉公という記事を寄稿。
12月20日に、科学者と軍の協力体制づくりで海軍幹部と意見が一致したことなどを報告。

43年になると「お国のため」という姿勢が強くなるでつ。
1月上旬に出した4通の手紙では、原爆に欠かせないウランをかき集めようと
苦労する様子がうかがえるでつ。

ニ号研究が始まる直前の手紙にこう書いているでつ。
戦時欠くべからざる研究を重点的に推進することと相成申候。
戦局が悪化するにつれ、悲壮感が漂う。

軍関係者には研究の遅れをわびる手紙を送り続けたでつ。
かつての部下には「どうにかして敵を撃退すべき武器を作らねばならぬ」と
書いたでつ。

45年7月、陸軍はニ号研究を中止。
1カ月後、広島に原爆が投下されたでつ。

翌日の8月7日、仁科氏は理研の部下にこう宛てたでつ。
「『ニ』号研究の関係者は文字通り腹を切る時が来たと思ふ」

仁科氏が軍事研究を進めた背景には若い研究者の出征を止める狙いがあったでつ。
軍関係者に兵役免除を要請したり、実現して感謝したりする内容の手紙は
複数見つかったでつ。

軍がスポンサーだったため、戦況が悪化すると戦争に貢献する成果を出す責任が
生じたと指摘。
仁科氏は戦後、考えを改め、日本学術会議の副会長として科学者による軍事研究を
拒否する声明をまとめたでつ。

「戦争はしてはならぬ」という遺志は、核兵器廃絶として多くの弟子たちに
受け継がれたでつ。

当時の仁科氏らは原爆が製造できるとは考えていなかったでつ。
研究に携わるのは若手を中心に20人ほど。総費用2000万円(当時の為替で約500万ドル)で、
20億ドルを投じた米国とは比較にならないでつ。

物資が不足し、欧米の研究情報が途絶えて理論研究も行き詰まっていたでつ。
ノーベル物理学賞を受賞する朝永振一郎氏が協力する意思を伝えたが、
必要ないと断っているでつ。

核の恐ろしさを知ってるのは、日本だけ。
研究はしてても継続させなかったのは、懸命だったでつ。

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山本 五十六さんは、日本最高の提督です。

2022-07-31 05:19:55 | 歴史
アルキメデスの大戦で、櫂の上司として、描かれてる山本五十六さん。
ハワイの真珠湾攻撃を計画、実行した日本海軍の提督。

最後の最後まで日米開戦を回避するように頑張ったけど、
結局、日米開戦の戦火を切る形となったです。




アルキメデスの大戦では、櫂と黒岩で真珠湾攻撃を計画。
櫂は、架空の人物だけど、黒岩はたぶん、黒島さんだと思うです。
ちなみに大和を設計した平山は、実際に大和を設計した平賀さんがモデル。

アルキメデスの大戦を読んでて、どこまでが史実で
どこからがアレンジなのかわかんないとこあるでつが、
五十六さんの本を読んでると、ある程度史実通りだなぁ~とわかるです。

真珠湾攻撃も櫂の作戦とどう違うのかなぁ~
大和に乗ってる五十六さんは、ハワイへ当直するのかなぁ~
史実では、真珠湾の頃は、大和は建造中のはず。

だけど、アルキメデスの大戦の五十六さんと五十六さんの本読んでると
なんとなく、イメージは合うなぁ~
アメリカは、五十六さんが一番怖かったみたいです。

日本で、五十六さんを超える提督はいなかったです。
先見の目はすごい。
戦略も古い巨大戦艦の時代ではなく、航空機の時代というのも読んでたです。

そのため、航空機と空母の充実を訴えて、太平洋戦争が始まる頃は、
アメリカより空軍というカテゴリでは上回っていたです。
だけど、日本は古い格式と日露戦争での戦果から巨大戦艦主義も捨てきれなかったです。

やはり先駆者というのは、難しいけど、五十六さんは、統率力も抜群。
古い日本の格式を打ち破ることもやった成果が真珠湾だなぁ~
もうすぐ終戦だけど、五十六さんの作戦通りなら、早期に日米戦争も終了してたと思うです。

歴史をよむと改めて、五十六さんの凄さを認識させられるです。

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秀吉が「信長の後継者」になれたのは、情報取集の差でつ。

2022-06-25 07:10:29 | 歴史
なぜ羽柴秀吉は「信長の後継者」になれたのか。
本来であれば後継者に近いのは織田家の筆頭家老だった柴田勝家。

だけど、情報不足などの理由で、光秀討伐に出遅れたのが響いたでつ。
こりが…
この『空白の10日間』が勝家と秀吉の命運を分けることになったでつ。

本能寺の変から明智光秀が討たれた山崎の戦いの時期のこととして注目されてきたのが、
羽柴秀吉による奇跡の「中国大返し」。

秀吉は、本能寺の変の翌日にあたる天正十年(一五八二)六月三日深夜から四日朝までに、
その正確な情報を得ていたでつ。

ただちに対戦していた毛利氏との講和を結ぶや、上方めざして全力で進軍し、
六月十三日の山崎の戦いで快勝したでつ。
この行軍が「奇跡」といわれるのには理由があるでつ。

第一が、変の情報をきわめて早く確保したこと。
光秀の使者が誤って陣所に迷い込んだ、というのはありえないことでつ。
それは、備中高松の古戦場に行けば氷解するでつ。

毛利方の陣所は遥か遠いところにあるため、そのような初歩的なミスを犯すとは
考えがたいからでつ。

もしかりに事実だったとしても、その情報がインテリジェンスであることを、
即座に確信することはできない。

第二が、進軍しながら光秀方勢力の動きを正確に把握して、丹後宮津城の細川藤孝を説得したり、
淡路洲本城の長宗我部方の水軍菅達長を攻撃したりしたことでつ。

細川氏には、親しい家臣を本隊に先行して派遣して秀吉に協力するように説いたでつ。
また淡路の味方勢力に菅氏攻撃を命じたのは、長宗我部氏が摂津に渡って秀吉軍の背後を
襲わないようにするため。

このように、あたかも変以前から光秀の行動を見抜いていたかのような完璧な対応。
光秀は、このような秀吉の動きに関してはほとんどノーマーク。
変以前に毛利氏が推戴していた将軍足利義昭と連携していたからでつ。

副将軍だった毛利氏が、備中高松合戦における形勢逆転のチャンスを無駄にするはずがないと
確信していたでつ。

秀吉方は動くことができないどころか、毛利方に揉み潰されるとみていたのではないか。
光秀が警戒していたのは、大坂城に籠城した織田信孝と副将丹羽長秀でもないでつ。

なぜなら、本能寺の変の情報を得た彼らの軍隊が、その衝撃から雑兵を中心に
逃げ去ってしまったからでつ。
信孝のもとにあった伊勢・伊賀出身の兵士たちは、一目散に逃げ帰ったと言われるでつ。

結局、二人は籠城するしかなかったでつ。
光秀がマークしていたのは、越中出陣中の柴田勝家。
光秀が戦略上抑えておかねばならないのは信長の本拠安土城と近江一国。

天下人の本城を確保することは当然であるでつが、近江には自らの居城坂本城や、
秀吉の長浜城と長秀の佐和山城もあったでつ。
織田家を支える重臣たちの居城を接収しておくことは、戦略上きわめて重要。

勝家は、近江の北隣越前の北庄城に配置されていたでつ。
もし彼が越中から無事に帰還すれば、もっとも至近の強敵になるでつ。
光秀は、それを想定して変前から勝家シフトを敷いていたでつ。

なお上杉氏関係史料には、光秀が本能寺の変の情報をあらかじめ越中魚津城で
知らせていたことを示す書状があるでつ。

六月三日の魚津落城後から山崎の戦いまでの十日間の勝家の動向については、
これまで関係史料がないことからわかなかったでつ。
ところが、近年個人蔵ではあるが関係史料群が発見され勝家の動向が判明したでつ。

新史料からは、勝家の率いた北国軍が魚津城を陥落させ、さらに越中宮崎城を落として越後に侵入し、
上杉景勝の春日山城をめざしていたことが確認されたでつ。

勝家は、六月六日に変の情報を得て退却を開始。
あわせて春日山城に迫っていた信濃の森長可や関東の滝川一益の軍隊も退却することで、
上杉氏は危機を避けることができ、反転攻勢の動きをみせたでつ。

勝家は、与力の越中の佐々成政や能登の前田利家をそれぞれの居城に帰還させ領内を固めさせ、
彼自身は六月九日に北庄に帰城したことが確認されたでつ。

情報を得てからわずか三日間で、直線距離にして約一七〇キロメートルもの道のりを無事に
全軍を帰還させるのに成功したでつ。
これを勝家の「北国大返し」と呼んで、その見事な手腕を評価してもよいでつ。

帰城直後から、勝家は光秀を討つための作戦にとりかかったでつ。
ここに、大問題が浮上。

若狭守護家武田氏と北近江の京極氏とその麾下の国人たちが蜂起して、佐和山城や長浜城を落城させて、
北近江を占拠していたでつ。

当時の若狭は、丹羽長秀が国主となっていたでつが、先述したように彼が家臣たちとともに大坂に籠城したため、
信長に抑圧されていた勢力が息を吹き返したでつ。
しかも当主の武田元明の母は足利義昭の姉であり、正室竜子は京極高次の妹だったでつ。

彼らの迅速で効果的な軍事行動は、やはり光秀あるいは義昭サイドとの接触なしにはありえなかったでつ。
武田・京極両氏の出陣によって、北庄と大坂を結ぶ動脈北国街道が不通になったでつ。

勝家は、長秀重臣溝口氏の若狭高浜城(福井県高浜町)を経由して、大坂城の長秀と家臣の若狭衆に
対する書状を届けようとしたでつ。

だけど、山崎の戦いがあった六月十三日まで、情報不足と背後から武田牢人衆に襲われることを懸念して、
勝家は近江に向けて出陣することができなかったでつ。
光秀方勢力による北近江路の封鎖は、成功していたでつ。

大坂方も勝家方の情報が入らないことには、容易には動けなかったでつ。
膠着こうちゃく状態を打ち破ったのが、秀吉の京都をめざす爆発的な進軍だったでつ。

したがって秀吉の「中国大返し」さえなかったら、上杉氏の反転攻勢や近江で展開していた若狭武田氏や
京極氏の光秀への協力、長宗我部氏の摂津進軍とそれを支える菅氏ら淡路水軍の蠢動、
さらには将軍足利義昭の帰洛への動きも予想され、光秀による室町幕府再興の可能性もあったでつ。

勝家が上方に向けて出陣を開始したのは、結局のところ山崎の戦いが終結した後のことであったでつ。
信長の弔い合戦に間に合わなかったことが、結果的に勝家の政治的な地位をおとしめ、
翌年の賤ヶ岳の戦いにおける敗戦につながったでつ。

新史料によると、勝家は大坂城にいる織田信孝を推戴して、畿内諸地域に散在する織田家臣団が
包囲網を形成して光秀を討ち取ることを構想している。
天正十年六月十日付勝家書状があったでつ。

他の史料では、光秀が近江にいるので、大坂籠城衆をはじめとする反光秀方勢力が相互に連携・協力して、
一刻も早く討ち果たしたい。
そのうえで、信長在世時のように戻したいと語っている勝家書状があるでつ。

このような勝家の意志を、書状で長秀に伝えていたのだが、きわめて常識的な戦略を主張していたでつ。
これに対して秀吉は広く情報を収集したばかりか、情報操作まで試みたでつ。

摂津茨木城主中川清秀に宛てた書状の内容を紹介しよう。信長様と信忠様は、無事切り抜けられました。
近江の膳所に退かれていますと天正十年六月五日付秀吉書状を送っていたでつ。

毛利氏と講和を締結し備中高松から撤退している時期に認めたもので、信長父子の無事を伝えたものであるが、
明らかに虚偽内容でつ。

京都に近く情報を得やすい立場の中川氏に堂々と知らせたのは、日頃から情報通として知られる秀吉の言うことであるから、
あるいはそうなのかもしれないと思わせるためだったでつ。

当時、秀吉は摂津高槻城の高山氏とも交信していたから、情報を攪乱して畿内の大名たちが光秀方に
ならないようにするための作戦だったでつ。

既にこの時期に、秀吉は長浜城までのルートを確保し、使者を往復させていたこともわかっているから、
正確な情報を得たうえでの作戦あることは確実。

なお、柴田勝家が越中方面を平定して、急ぎ上方に向けて進軍しようとしている由、丹羽長秀からの書状で
拝見しました。天正十年六月十日付秀吉書状。
勝家が北庄に帰城した翌日にあたるでつが、この頃明石に到着し、淡路の長宗我部方への軍事対応を
すませた秀吉は、光秀の居場所と軍事行動に関するかなり正確な情報を記しているでつ。
引用はその追伸部分であるが、秀吉が長秀と交信し、勝家の情報も得ていることがわかるでつ。

秀吉の情報収集力と対応能力のすさまじさを感じる書状。
この時期の反光秀陣営のキーマンは、織田信孝。
勝家も秀吉も光秀攻撃の首将として大坂城の信孝をみなしていたからであり、彼の副将として一緒にいる実力者長秀の存在も
クローズアップされたでつ。
だれがこの二人を掌握するのかが、次の天下人の行方を決めたでつ。

この解答は、六月十三日の山崎の戦いの直前に、秀吉と長秀が合流し、信孝の命令を奉じる連署副状を
発給することで出た(六月十三日付筒井順慶宛秀吉・長秀連署副状)でつ。

一時は光秀方を表明した大和郡山城の筒井氏に対して、正式の軍事命令を伝えたでつ。
これまでわからなかった勝家の動きが判明した結果、北近江に展開した武田・京極両氏の軍事行動が効いており、
光秀の勝家シフトが有効だったことが判明。

本能寺の変は完璧だったでつが、その後の動きの拙劣さが長らく指摘されてきた光秀。
だけど、それはあくまでも結果からみた誤解。

まったく予想外の秀吉の「中国大返し」さえなければ、帰洛を遂げた足利義昭を、
光秀や藤孝といった幕府衆はもとより、毛利氏をはじめ上杉氏や長宗我部氏ら諸大名が
支える室町幕府体制の復活もありえたでつ。

本能寺の変から山崎の戦いに至る歴史の流れは、結果的に五十歳以上の光秀や勝家といった
老齢の宿老層が敗れた」でつ。

秀吉に代表される、室町時代以来の古い権威を相対化するかわりに、正確な情報を収集し、
より合理的な判断にもとづく意志決定ができる武将のみが生き残る段階へと突入するでつ。

信長、秀吉が天下を取れたのは、情報戦を制したからでつ。

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北条義時

2022-01-16 07:10:29 | 歴史
2022年の大河ドラマ。
主演の小栗くんが演じるのが、北条義時。

北条氏は源頼朝を陰日向に支えながら勢力を拡大し、頼朝のあとを継いで鎌倉幕府の
実権を握る一族。
当時は、政治の実権が公家から武家へと移り変わろうとしている時代。




平治の乱では皇室・摂関家の争いに源氏と平氏がそれぞれ力添えをして争い、平氏が味方に付いた後白河上皇側が勝利。
源氏の総領であった源義朝は敗走中。
他方、北条家は伊豆蛭ヶ島に流された源頼朝を監視する役目を命じられたでつ。

ここから北条一族と源氏の関わりが始まったとされるでつ。
頼朝が平氏を打ち倒すために挙兵した際、時政、義時親子も参戦するでつ。
葦屋浦の戦いでは義時が大活躍したでつ。

北条家は戦に参加するだけでなく、関東地方の武士の協力を得られるように働きかけしたとも言われているでつ。
こうして時政、義時親子は源氏内での地位を確立していったでつ。
頼朝が、奥州藤原氏を攻略しますが、そのときも義時が頼朝の近くに控え、信頼を得ていたでつ。

源頼家という子どもが二代将軍として家督を継いだでつ。
ところが、家臣たちは頼家の独裁政治を防ぐために、「13人の合議制」という仕組みを考えたでつ。
将軍だけでなく有力な御家人たちが話し合いで政治の方向を決めることになったでつ。

そのなかに、時政・義時親子の姿もあったでつ。
13人の御家人たちは決して仲が良かったわけではないでつ。

たとえば、二代将軍頼家に娘を嫁入りさせていた比企能員は北条氏の台頭を面白く思ってなかったでつ。
将軍家の権力が、13人の合議制で削られてしまうわけですから当然。
頼家が病気になったことをきっかけに、頼家の領地を頼家の子どもたちで分割することが13人の合議制で決定。

これを知って頼家は大いに腹を立てるでつ。
そこで頼家は、妻の父親である比企能員に時政を征伐するように命じたでつ。
それを知った義時はすぐさま比企一族を討ち滅ぼしたでつ。

頼家も北条家によって追放。
三代将軍についたのは頼朝の子どもである源実朝。

義時の父、時政は政所別当)に就任して執権となり、政治の実権を握ったでつ。
北条氏は比企氏以外の有力御家人たちの排除を続けたでつが、とうとう時政と義時親子が対立するときがきたでつ。

時政が三代将軍源実朝を将軍から変えようとしたとき、義時は実朝側に付き、北条時政の企てを阻んだでつ。
この出来事により、時政は失脚。執権の地位は義時に移ったでつ。
義時は時政が就いていた政所別当だけでなく侍所別当も兼ねるようになり、執権としての地位を確固たるものしたでつ。

義時が、北条家の地位を盤石なものにしたのが、承久の乱。
頼家も実朝いなくなって、頼朝直系血族は絶えてたでつ。

そこで義時は京都の天皇家から将軍を迎えようとするでつが、朝廷の権力拡大を目論む後鳥羽上皇にこれを拒否。
後鳥羽上皇は天皇家の領地をまとめ、強力な院政を敷いていたでつ。

鎌倉での北条氏の台頭を恐れた後鳥羽上皇は義時追討の命令によって武将に号令をかけ、討伐軍を結成。
そこで義時は姉の政子と協力して、鎌倉幕府の武士たちを説得。協力して後鳥羽上皇軍を打ち破り、
関わった上皇三人を島流ししたでつ。

承久の乱で北条氏が勝利したことによって、天皇家の権力は弱体化し、鎌倉幕府の支配は全国に及ぶことになったでつ。
以後、鎌倉幕府の将軍は摂関家や皇室から迎えられるようになるでつが、どれも形式的な存在で、
鎌倉幕府の実権は北条氏が握ることになるでつ。

義時は争いに次ぐ争いの人生のなかで、ついに覇権を手に入れたでつ。
ただ、これらの歴史は後世に鎌倉幕府の中枢によって編纂された「吾妻鏡」によるものが多く、
争いのきっかけや経緯については諸説あるでつ。

頼朝は義時のことを「他日必ず子孫の補佐たらん」「義時を持って家臣の最となす」と称していたとも
伝えられているでつ。

「他日必ず子孫の補佐たらん」というのは、「いつか必ず私の子孫の補佐になるであろう」という意味。
北条一族は執権として鎌倉幕府を支えることになるのですから、頼朝の予想は的中したとも言えるでつ。

ただ、将軍家は北条氏によって完全にあやつり人形のようになっていったので、そういう意味では間違いとも言えるでつ。
頼朝に信頼されていた義時はどのような性格だったか。
今から1000年近くも前に生きた人物の性格は、残された文書などから推測しかないでつ。

すると見えてくるのは、義時の時流の見る目の鋭さ。
義時は常に「勝ち馬」を当てているでつ。
源氏と平氏の争いの際は、不利だと思われていた源氏に付くでつ。

また、鎌倉幕府内に権力争いがあった際も、強い側に付いたでつ。
頼家でなく実朝を選んでいたでつ。

家族でも主君でもなく、強きを見極め、地位を確立していったでつ。
そこには、時流を見る目に加えて、冷静な判断力、そして選んだ側を必ず「勝ち馬」にすることができる実力と
強い意志があったと思われるでつ。

義時は父である時政とともに、伊豆の豪族から武家の頂点にまで成り上がった人物。
義時の人生からの学びは臨機応変に行動することの大切さ。

義時は固定観念にとらわれずに選択し続けることで、鎌倉幕府での権力を握るでつ。
また、自らの勢力を拡大、維持するために、ときには主家に刃を向け、父親とも対立。

ただ、明治時代には目上の人間を監視したり、追放したりした義時に対して、
「大悪人」というイメージを多くの人が持っていたでつ。
だけど、近年の研究で、一方的な悪人というイメージだけで捉えきれない義時の人物像も見えてきているでつ。

注目すべき点は、義時の臨機応変ぶり。
次々と直面する危機、状況の変化に対して、彼は冷静に自分がとるべき行動を判断し、生き残ったでつ。
義時が生きた時代はサバイバルの時代。

現代とは単純に比較できませんが、義時の生き方は現代の社会生活にも応用できるはず。
困ったとき、ピンチに陥ったときは、自分の固定概念にとらわれて判断を狭めるのではなく、
広い視野を持って柔軟に判断すると、よりよい結果が得られるでつ。

さて、どういう風にドラマが展開していくか楽しみでつ。

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「天空の城」竹田城跡

2021-11-20 07:10:29 | 歴史
竹田城跡は、標高353.7mの古城山山頂に築かれた山城。
古城山の山全体が虎が伏せているように見えることから、別名「虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)」とも
呼ばれているでつ。




天守台・本丸を中心に、三方に向けて放射状に曲輪が配置されてて、縄張りの規模は東西に約100m、南北に約400m、
「完存する石垣遺構」としては全国屈指の規模を誇るでつ。




築城当時は土塁で守られていた城が、最後の城主赤松広秀により、今に残る総石垣造の城に改修されたと
されてるでつ。
平成18年に「日本100名城」に選定され、平成24年には「恋人の聖地」として認定されたでつ。



この地域は、しばしば秋の良く晴れた朝に濃い霧が発生するでつ。
この朝霧が竹田城跡を取り囲み、まるで雲海に浮かぶように見える姿から、
いつの頃からか竹田城跡は「天空の城」と呼ばれるようになったでつ。








朝来市に行った時に、竹田城付近で泊まったでつが、行かなかったなぁ~
行く機会があれば、朝早く起きて見に行きたいなぁ~

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奈良の歴史に触れるでつ。

2021-07-10 07:10:29 | 歴史
今日7月10日はナントの日だなぁ~と思いつつ、最近は奈良をブラブラしてないなぁ~
奈良公園とか世界遺産がたくさんあるんだけど…




そういえば最近は、万葉集にも触れる機会少ないなぁ~
というか…
学生時代なNHK奈良しかなかったから自然と触れられたでつ。




奈良ふしぎ旅は、奈良の歴史に触れられていいでつ。
興福寺の五重塔とか今から1000年も前、コンピュータもクレーンもない時代に
建立したんだから、その凄さが伝わってくるです。




昔の人が出来て、今の人に出来ないことはないと思わせてくれるでつ。
奈良にはパワースポットも多いでつ。




久々に奈良の街をブラタケスィして、奈良の文化を学びに行くかなぁ~
東向き商店街から猿沢池から奈良公園のお決まりコースだなぁ~

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