goo blog サービス終了のお知らせ 

マッハの貴公子 C1Runner の熱~い日記でつ(¬_,¬)b フフフ・・・

マッハの貴公子 天才タケスィが熱~く語るでつ( ̄ω ̄)ムフ~

昭和100年、平成37年なんでつなぁ~

2025-05-07 07:10:29 | 歴史
2025年は、昭和にすると100年。
平成にすると37年なんでつなぁ~

で~昭和を振り返ることが多いでつ。
昭和の前半は、戦争だなぁ~
そこから高度成長とバブルだなぁ~




電子部門では世界の先頭を走っていた、昭和末期から平成初期。
ダイエーや西武が流通のトップを走ってたけど今はどこかのグループに入ってるでつ。
昭和の時代には考えられない新旧交代が多かったのが平成だなぁ~

スパルタ、熱血の昭和から、ゆとりの平成。
勢力図も大きく変わったでつ。
車もスポーツカーやセダンではなく、ワンボックスやSUVの2ボックスが主流。

なんでもスマホーということでスマホーがないと成り立たない令和。
時代の流れは速いなぁ~
さて、令和はどんな世代になるのかなぁ~

秀長さん

2025-03-21 07:10:29 | 歴史
2026年の大河ドラマは豊臣秀長が主役。
天下人 秀吉を天下人にした天下の補佐役。

秀長さんは大和郡山城主だったから今、大和郡山は大河ドラマにあやかる感じかなぁ~
やっぱり…
大河ドラマは戦国期が一番面白いなぁ~




戦国の世、生涯兄の右腕として手腕を発揮した豊臣秀吉の弟・豊臣秀長は、
和泉・紀伊・大和に及ぶ100万石もの所領を有し、郡山城主になったです。
一方、秀長の重臣に守備を固めさせた、日本三大山城の一つ・高取城。

秀吉が、強烈な野心と徹底した侵攻で出世し、多くの政敵を作ったのに対して、豊臣秀長は温厚な性格で慕われ、
豊臣政権内の調整役を務めたと考えられているです。
秀吉はエネルギッシュに立ち回って、戦功を挙げて信長から少しでも多く禄をもらい、家臣に分け与えるために、遮二無二動かねばならないです。

調略や工作などで、留守にすることも珍しくないです。
となると、細かいところに目が行き届かないことも多々あったです。
そういうところのフォローをしたのが秀長であり、この構図は、生涯ずっと続いたです。

浅井長政に裏切られ、命からがら撤退した金ヶ崎の退き口では、秀吉隊の一員として殿を務めたです。
これによって秀吉は信長から褒美に黄金20枚をもらっているですが、秀長の働きも大きなものだったと考えられているです。
秀長は殿隊の中でも最も重要な、最後尾を担当。

秀吉から信長様が出発して二刻だけ粘り、その後は粘らずさっと退いて、俺に追いつくようにと命じられてその通りに動き、
見事役目を果たしたです。
はっきりした記録はないものの、黄金20枚のうちいくらかは秀長にも分け与えられたです。

秀長は竹中半兵衛から戦の極意を学んだです。
半兵衛が秀吉の下に来たのは姉川の戦いの前だといわれているし、当然それは信長も知るところ。

軍記物等では秀吉が三顧の礼をして半兵衛を幕下に迎え入れたとか半兵衛が秀吉の将来性を見出して、信長ではなく秀吉に仕えたいと
言ったということになっているですが、現在では信長が秀吉の部下として半兵衛をつけたという説が有力。
となると、信長は秀吉本人を評価するとともに秀長や半兵衛がいれば、秀吉が留守にしているときも横山を守りきれると判断し、この地を任せたです。

秀長の家臣となった人のうち、有名なのがあの藤堂高虎。
秀吉の天下統一へ見事な補佐役に徹したです。
人望は秀吉を凌いでいたとも言われているです。

さて…
大河ドラマはどんな演出されるかなぁ~
黒田官兵衛や真田丸のように直球がいいなぁ~

それにしても秀吉の人気は凄いなぁ~
大河ドラマで秀吉の身内が主役になるのが一番多いです。
秀長さんは、秀吉の影に隠れてたけど、天下人になってもおかしくない人物。

大河ドラマが楽しみだなぁ~

マッカーサ総司令官の日本占領計画

2024-10-25 07:10:29 | 歴史
アルキメデスの大戦で、櫂の戦略を見抜いていたマッカーサー。
日本統治の最高権力者だったです。

終戦後、約2000日日本を統治。
ソ連とのかけひき…
日本政府とのやりとりや憲法もだなぁ~




天皇の終戦宣言・日本軍の敗戦の結果、日本はアメリカを中心とする連合国軍の占領下におかれ、占領政策の最高決定機関としてワシントンに
米英ソ中など11カ国からなる極東委員会が設けれたでつ。
そして、東京にはGHQ・連合国軍最高司令官総司令部は、1945.8.28、横浜税関に設置、同9.15、東京に設置され、最高司令官にマッカーサーが着任。
また、諮問機関として対日理事会がおかれた。以降、占領政策はGHQ・マッカーサー・アメリカの主導で強力に進められたでつ。
日本は、徳川幕政下200余年にわたる鎖国の時代があったこともあり、歴史上、一度も外国に占領された経験のない国。
占領政策は予想もつかない状況。

だけど、同盟国だったドイツやイタリアと異なり、沖縄を除けば、国内での陸上戦や反政府運動もなく、政府は敗戦後も国内統治能力を維持していたでつ。
連合国軍は、日本政府を通じて間接統治を行ったでつ。
このことは、連合国軍の日本占領が大きな混乱もなく行われた重要な要因となったでつ。

アメリカの対日占領政策の基本方針は、日本が再び世界の脅威にならないように、その軍事能力を徹底的に破壊すること。
そのために、国内体制を民主化することにあったでつ。

1945年8月15日内閣は総辞職。
GHQは占領政策に反対する動きに厳しく対処しながら、同年10月9日成立した幣原内閣に対して、①婦人の解放、②労働者の団結権の保障、③教育の自由主義化、
④圧制的諸制度の廃止、⑤経済の民主化の五大改革指令を発するなど、非軍事化と民主化の政策を推し進めさせるために、矢継ぎ早に命令・指令を発したでつ。

以下に、1945年にGHQの発した主な命令・指令は…
・ 9月 2日 ミズリー号艦上で降伏文書に調印する。
      陸海軍解体を命令する。
      軍需工場に終止命令が出る。
・ 9月11日 戦犯容疑者の逮捕命令を出す。
・ 9月29日 新聞・映画・通信その他一切の意思表示の自由に関する制限撤廃を指令する。
・10月 4日 政治信教ならびに民事の自由制限撤廃に関する覚書を発表し、政治犯を即時釈放・思想警察廃止を指令する。
・10月 6日 神道の特権廃止を指令する。
・10月11日 五大改革を指令(前述)する。
・10月22日 教育目標・教育政策を指令する。
・10月31日 軍国主義教員の即時追放を指令する。
・11月 2日 財閥解体を指令する。
・11月 9日 サイクロトロン(原子核の人工破壊に用いるイオン加速器)破壊命令される。
・12月 9日 農地改革を指令する・農地調整法改正法案公布される(第1次農地改革)。
 
占領下の政府であり、当然これらGHQの命令・指令に、速やかに従い対応したでつが、国民にとっては、戦時中の弾圧からの解放に両手を上げ受入れるもの、
伝統や習慣や秩序から戸惑いを覚えるもの、当然と考えられるもの、考えられないもの、様々であり対応に右往左往したでつ。
1946年1月1日に発せられた勅書は、明治以来の日本国民の国体の価値観を一変させたでつ。
 
いわゆる天皇の人間宣言。
この勅書は、昭和21年元旦に天皇が国運振興のために発したもので、まず、最初に五箇条の御誓文を全文掲げて、
その趣旨にそって新日本建設を目指せと諭し、次いで、敗戦後の国民の失意と道義の衰えを憂い、天皇と国民とが
心を1つにして国家再建に向かうことを希望したもの。

この中で、天皇が自らの言葉で神格を否定している部分があり、それが重視され天皇の人間宣言と呼ばれたでつ。
後年、1977年8月、天皇自らが語られたところによると、この勅書の第1の目的は五箇条の御誓文の趣旨を改めて強調することにあったでつ。
それはマッカーサーがぜひ御誓文の全文を記して欲しいという要望に答えたものであり、天皇の神格否定は第2の問題であったでつ。

この天皇の人間宣言は大きな衝撃を与え、日本国民の国体に対する価値観を180度変えるものとなり、そして、日本の非軍事化・民主化を加速度的に
進める契機となったでつ。
1946年(昭和21年)元旦、天皇の人間宣言という、天皇自らの神格を否定した勅書に呼応するように、同月、GHQは軍国主義者・超国家主義者と
みなされる各界の旧指導者たちの公職追放を指令したでつ。
教育改革の面では前年のGHQの教育目標・教育政策の指令を受け1947年3月、平和主義と民主主義を基本理念とする教育基本法、6・3・3・4制の新教育制度を
定めた学校教育法が制定され、4月から実施。
この結果、男女共学や9年の義務教育制が採用されたでつ。

次に財閥解体と農地改革。
経済の民主化として特に重要視したのは、財閥解体と農地改革であったでつ。
財閥解体については、前年11月の財閥解体指令に基づき、三井・三菱など財閥の資産凍結にはじまり1947年制定の独占禁止法や
過度経済力集中排除法によって、巨大企業の分割が行われたでつ。
このことは、日本の再軍備化をおそれるGHQの方策でもあったでつ。

農地改革は江戸時代後期から続いた農村構造の革命的改革であったでつ。
改革は2度にわたって実施され、不在地主の全小作地と在村地主の平均1町歩を超える小作地が、国家に強制買収され小作人に安く譲り渡されたでつ。
その結果、長い間農村を支配してきた寄生地主制は一掃されたでつ。

農地改革は1945年12月9日、GHQの指令によって着手された、指令は4項からなり、民主主義推進のために寄生地主制を廃止すること、
そのための計画を至急提出することを命じているでつ。

これに応じて政府は、翌昭和21年2月から第1次の改革を実施したでつが、きわめて不徹底な内容であったので、同年10月に自作農創設特別措置法を
定めて第2次改革が行なわれたでつ。

また、1945年、労働組合法が制定され労働者の団結権・団体交渉権・ストライキ権が保障され、労働運動が行われるようになったことも相俟って、
1946年には各地で、食料メーデーや米よこせデモが行われたでつ。
この年6月末の食料配給の全国平均遅配日数は9.7日にもおよんだでつ。

この対策に、占領軍は同年11月から翌1947年10月まで、約165万トンの食料を放出したといわれるでつ。
これにより日本人は敗戦後の食料・生活危機をなんとか乗り切ることができたでつ。
この危機にあたり、結成されたばかりの労働組合が果たした役割は大きいでつ。
労働運動については、1946年9月、労働関係調整法が公布されさらに充実したでつが、翌1947年1月31日、
官公庁の労働者が中心に宣言された2.1ゼネストは、社会の混乱をおそれたGHQの命令によって中止されたでつ。
以降、官公庁労働者の労働運動については、公共の奉仕者の立場上諸々の歯止めが掛かるようになるでつが、同年4月7日の労働基準法制定により、
労働条件が大きく改善されるようになったでつ。
 
政党の復活もだなぁ~
1940年の大政翼賛会の結成により解散していた政党でつが、民主化の進む中で次々と復活。
旧立憲政友会系の日本自由党、旧立憲民政党の流れをくむ日本進歩党、無産政党諸派を統合した日本社会党、戦前は非合法とされていた日本共産党などの諸政党が続々と
再建・結成され活動を再開し始めたでつ。

そして、1946年5月、婦人参政権獲得後の衆議院議員総選挙では日本自由党が第1党となり、総裁吉田茂を首班とする政党内閣が14年ぶりに復活。
また、この選挙で注目すべきは39名の日本で初めての女性議員が出現し、男女同権・民主主義時代の到来を象徴していたでつ。
社会党政権もこの時期だったでつなぁ~

マッカーサーが日本の復興に果たした貢献度は高いなぁ~

世界遺産 姫路城

2024-08-11 07:10:29 | 歴史
兵庫県姫路市にそびえ立つ姫路城は、1346年(正平元年)に赤松貞範が前身となる姫山城を築いて以来、
黒田官兵衛の居城となって、豊臣秀吉や池田輝政、本多忠政など、あまたの戦国武将によって木造建築の傑作まで高められた、日本屈指の名城。

1931年(昭和6年)には天守閣が国宝に、なったです。
さらに…
1993年(平成5年)には、奈良県の法隆寺とともにユネスコによる日本初の世界文化遺産に指定されたです。




姫路城の特徴は…
標高45.6mの姫山に位置する姫路城は、国宝5城の中でも最大規模の天守を持つお城。

築城以来、大きな戦災を受けず、大天守や小天守、櫓などおおよそ100棟近くの建築物が現存していることから、
不戦・不滅の城と呼ばれています。
近世城郭の比類なき最高傑作として、1993年(平成5年)には、世界遺産にも登録。

また、日本の城の集大成とも呼べる姫路城は、白漆喰で塗り込められた外観が、まるで羽を広げる白鷺の群れに見えることから、
別名白鷺城とも呼ばれ、親しまれているです。
これは、池田輝政が築城した際に、白漆喰総塗籠造という方法で、城壁や屋根瓦の目地を白く塗り込み、今の姿となっtたです。

姫路城の天守は5重6階の大天守と3つの東小天守、乾小天守、西小天守が渡櫓でつながった連立式天守。
いくつもの屋根や唐破風、千鳥破風が重なり、白漆喰の城壁と相まって実に美しい構成を成し遂げているです。
古くから姫路という土地は、西国諸大名の動向を監視するための重要な要衝。

城郭は曲輪と呼ばれる石垣や塀で囲い、天守曲輪を中心に二の丸、三の丸を螺旋状に配置した縄張が築かれ、さらに大小の曲輪で区切ることによって、
まるで迷路のように入り組んだ構造を実現。
これにより敵の侵入を防いでいたです。

同時に、石落としや矢狭間、鉄砲狭間など敵を攻撃するための軍事設備も備わり、優れた要塞としての機能も果たしていたです。
姫路城は、天守が残る現存12天守のひとつとしても名高く、大天守・小天守・渡櫓などの8棟が国宝に、また渡櫓や門、塀など合わせて74棟が重要文化財に指定され、
今も多くの観光客を魅了しているです。

姫路城は近くまでは行くんだけど…
一度は行きたい名城です・

江戸城

2024-05-16 07:10:29 | 歴史
江戸城は、江戸幕府の政庁および徳川将軍家の居城。
だけど大阪城ほど、東京では江戸城が取り上げられることはないでつ。

皇居として使われてるのもあるけど、天守閣がないのが理由かなぁ~
そこで…
江戸城についてはあまり知らないので、いろいろと調べてみたでつ。




江戸城は日本一の広さを誇るでつ。
江戸城の規模は、日本で1番の、それも圧倒的な広さを誇るでつ。
他の主要な城の規模を比較してみると…

 熊本城:約20ha
 姫路城:約23ha
 名古屋城:約35ha
 仙台城:約44ha
 大阪城:約106ha(大阪城公園)
 江戸城:約230ha!(皇居+皇居外苑)

江戸城は大阪城の2倍以上、姫路城のなんと10倍も敷地面積があるでつ。
こりは、徳川将軍の威光を全国に轟かせるため。

江戸城の歴史は…
江戸城は、扇谷上杉家の重臣太田道灌によって築かれたです。
鎌倉時代に建てられた江戸館跡に築かれ、1457年に完成。

当時の江戸城は3つの曲輪で構成されており、多くの堀が設けられていた他、櫓や石門などで守りを固めていたでつ。
その後、江戸城は北条氏の支城のひとつとなるでつ。
北条氏のあと、1590年に徳川家康が江戸城に入城。

徳川家康は江戸城の改修工事を計画。
天下普請により全国の大名を召集し、改修工事に参加させるです。
このとき参加していた大名は、加藤清正や福島正則、加藤嘉明など。

なお、城の設計は、徳川家康の信頼が厚かった築城の名手藤堂高虎が担当。
非常に大規模な改修工事のため、徳川家康の代では終わらず、二代目将軍徳川秀忠、三代目将軍徳川家光に引き継がれたです。
大改修が始まってから約30年後の1636年、ようやく江戸城の全容が完成。

江戸城は日本最大の規模を誇る、徳川幕府の権力を示す威厳あふれるお城となったです。
現在は皇居となってる江戸城。
天守閣跡とかあるみたいだけど…

あまり江戸城周りはブラタケスィしなかったなぁ~
武道館行った時にかなり広いなぁ~とは思ったけど…
入れる場所も限られてるかなね。

江戸城の天守閣を復活させるのは、なかなか声が上がらないけど、
何か理由があるのかなぁ~

紫式部と藤原道長

2023-11-01 07:10:29 | 歴史
24年大河ドラマ「光る君へ」の主人公が紫式部。
紫式部を知る上で欠かせない人物のひとりに、藤原道長がいるです。

藤原道長は平安時代の貴族であり、政治家としても活躍。
貴族の平安時代
藤原氏の最盛期。




紫式部は源氏物語を執筆するいっぽう、宮中で働いていましたです。
彼女は天皇の妻である彰子に仕え、家庭教師を務めているです。
その仕事のオファーをしたのが、彰子の父である藤原道長。

藤原道長は、彰子に皇后として十分な教養を身につけさせるため、優秀な女性を探していたです
そこで目に留まったのが、宮中でも評判になっていた源氏物語の作者・紫式部です。
紫式部にとって藤原道長は、教え子の父親であり、雇い主だったことになるです。

また紫式部は、藤原道長に執筆活動を支援してもらってもいたです。
当時は高級品だった紙や硯をプレゼントされたり、ときには物語の続きを早く書いて欲しいと激励の手紙もあったです。

藤原道長が執筆を促したのは、彰子と天皇の仲を深めるため。
物語の続きがどんどん発表されれば、源氏物語を愛読していた天皇は、頻繁に紫式部のもとを訪れるです。
すると必然的に、彼女と一緒にいる彰子とも接する機会が多くなるわけ。

もちろん藤原道長自身が、源氏物語の熱心なファンだったともいわれているです。
いずれにせよ、紫式部にとって道長は執筆活動の大きな後援者。
「紫式部なくして藤原道長なし」「藤原道長なくして紫式部なし」と言われる所以。

大河ドラマも戦国はわかりやすいけど、平安時代とかは人間関係が複雑。
まずは、大河ドラマ見る前に歴史を学ぶのが先決になるでつ。
史実をどうアレンジしてドラマを組み立てていくかも楽しみでもあるでつ。

謙信と信長。

2023-07-13 07:10:29 | 歴史
謙信と信長というと手取川の合戦が有名。
だけど、信玄ほど絡みはなかった気がするでつ。

戦の天才 謙信に対して信長はどう対応してたのかも興味があったでつ。
どちらかというと…
信長、秀吉、家康とは絡みが少なかった気がするでつ。




そんな中で謙信と信長の本が出たでつ。
そこでは…
濃尾の織田信長は、とても野心的な人物と見られているです。

父・織田信秀がそうであるように、もともと一介の武人という意識が強く、はじめのうち為政者とは自認していなかったです。
尾張時代の信長はかつて尾張守護の斯波義銀を追放したが、これもやりたくてやったわけではないです。
このへんは、今までの信長のイメージとは違う新しい信長像な感じ。

戦国時代は、下克上の時代といわれるように、家臣が主君を裏切ったことがよく知られていいるです。
だけど、実は主君も家臣を裏切ることがあったです。

信長より今川義元が怖いからと裏切った家臣がいたように、主君が有力な部下を裏切ることもあり、
そうなったら信長も汚名を甘受してでも対応しなければならなかったです。

結果として将軍や主君を追放した信長だが、人並み以上の忠義の心、それがなければ、足利義昭を救うため命懸けで
本圀寺の変や姉川合戦を戦ったりしないです。

上杉謙信は、前将軍・足利義輝の弟である足利義昭が上洛して新将軍となるのを、そんな信長が支えることを
遠国より応援していたです。
信長は甲斐の武田信玄とも敵対関係に入り、信玄嫌いの謙信は信長と軍事同盟を結んで、同志的関係を深めたです。

「川中島」や「桶狭間」といった合戦により、今川氏との同盟関係に緊張が生じていた武田信玄は、織田信長と同盟関係にあった
徳川家康と協調し、駿河の今川氏領国への侵攻を開始。
それに対抗するため相模の北条氏は、上杉謙信と和睦・同盟を結び武田信玄に対抗したです。

すると武田信玄は同盟関係にあった織田信長に頼み、信長と将軍・足利義昭を通じて上杉氏と和睦を開始。
結果、上杉氏と北条氏の不和から越相同盟は成立しませんでしたが、代わりに1571年には武田氏と北条氏の間で甲相同盟が回復。
その頃の信長は、信玄から頼まれていた甲越和与のために奔走していたけど、1572年10月信長は足利義昭に対して17条の詰問文を送り関係が悪化。

同じころ武田信玄は将軍・足利義昭に応じて「西上作戦」を開始、上杉謙信に対しては石山本願寺や椎名氏・神保氏といった越中の諸将を
調略して越中大乱を起こさせ、謙信を越中に留まらせることに成功。
信長も包囲網に対応するためかなり苦しい状況。

そこで、謙信と織田信長と上杉謙信による濃越同盟で、この同盟が締結したのは1572年11月。
元々、織田信長は甲斐の武田信玄との間に同盟を結んでいました。
今まで友好関係にあった武田信玄の行動に危機を感じた織田信長は、上杉謙信に対して協力を持ちかけ軍事同盟を締結。

その関係も最初は友好だったけど、それもくずれていったです。
1575年、信長は権大納言に任じられ、征夷大将軍に匹敵する右近衛大将を兼任。
このことで朝廷から天下人であることを公認されたです。

1576年に安土城の築城を開始し、順風満帆でしたが、ちょうど安土城の築城が開始されたころ、信長に誼を通じていた丹羽国の波多野氏が反旗を翻し、
石山本願寺が再挙兵、再び信長に対抗する動きが強くなり始めるです。
それに対して信長は明智光秀らをはじめとして、3万の兵を大坂へと送りこみ、さらには信長自らも出陣し本願寺勢を撃破。

だけど、本願寺の援軍に訪れた毛利氏の水軍800隻を前に織田の水軍は敗れたです。
本願寺は信長に対して挙兵したものの、長島・越前と信長に敗北を喫して追い詰められたです。
そこで、本願寺を束ねる顕如は、長尾能景の時代から敵対していた上杉氏との和睦を模索し始めるです。

また、足利義昭は、上杉・武田・北条の和睦を調停しようしますが失敗に終わるです。
これにより織田と上杉の関係は変化。
北陸の一向門徒が謙信に助力を求めたこともあり、長い間不仲であった顕如と上杉氏は和睦し同盟を結んだです。

信長と謙信は敵対関係になったです。
そして、手取川の合戦。

でもこも手取川の合戦は史実として実際にあったのかというのもあるです。
謙信が信長本体を負かした戦。

手取川の合戦は勝家が、七尾城が落城したことも知らないまま、手取川を渡って水島に陣をはったです。
このことを知った謙信は数万という大軍を率いて一気に南下し、形勢不利を悟って撤退を開始した織田軍を謙信率いる上杉軍本隊が追撃、
手取川を渡ることに手間取っていた織田軍を撃破。

このとき上杉軍2万、織田軍4万という圧倒的兵力差にありながら、これを一蹴したのは、「軍神」と呼ばれるほどの
圧倒的強さを誇った謙信だからこそ。
ここで一気にたたけばというところだけど、謙信は義を重んじるので、春日山へ戻ったです。

結果的に信長は、助かったことになるです。
信玄も謙信も歴史のもしがあるとすれば、勝ったその後をみたいところです。
天下に王手をかけた織田軍をあっさりと破り、「天下統一も容易い」と言った謙信が次にどんな手を打ったのかは興味があるです。

富雄丸山古墳から蛇⾏剣・鼉⿓⽂盾形銅鏡が出⼟。

2023-02-13 07:10:29 | 歴史
地元富雄から凄いものが発見されたです。
発見されたのは、富雄丸山古墳からです。

富雄丸⼭古墳は、4世紀後半に築造された⽇本最⼤の円墳直径109mです。
北東側には造出しと呼ばれる張り出し部があるです。
富雄にこのような古墳があるのは知らなかったなぁ~

これまで、航空レーザ測量調査(第1次調査)、発掘調査(第2〜5次調査)を⾏い、
古墳の構造等を明らかにする上で重要な成果を得てるです。

富雄丸⼭古墳の造出しは、左右⾮対称で特異な3段構造であることが明らかとなっていでつが、その性格を
⽰すような遺構・遺物はこれまで⾒つかっていないです。

本調査でF 発掘区で造出し上段の確認を⾏ったところ、⻑さ約7.4m、幅約3m、深さ約1m の⻑⽅形を呈する墓坑内で
⻑さ約6.4m、幅約1.2m の粘⼟槨(埋葬施設)を確認。

造出し上⾯の礫敷を埋めた⾯から墓坑が掘り込まれており、墓坑を埋めた後に円丘部2段⽬斜⾯を完成させているです。
そのため、築造当初は計画されていなかったものの、古墳が完成するまでの間に埋葬施設を作るよう計画変更が⾏われたと
みられるです。
粘⼟槨内部には、コウヤマキで作られた割⽵形⽊棺が残存。
棺⾝は、墓坑底を⼀段深く掘りくぼめた部分に設置されているとみられ、棺蓋をのせる位置の約30 cm外側の範囲を
粘⼟と砂で薄く整地しているです。

円丘部側の被覆粘⼟中には、鼉⿓⽂盾形銅鏡1⾯と蛇⾏剣1本が副葬されているです。
鼉⿓⽂盾形銅鏡は⻑さ約64 cm、幅約31 cmで蒲鉾状に棺蓋を覆う被覆粘⼟の形状に合わせ斜めに⽴てかけられているです。
背⾯中央に鈕があり、その上下には倭鏡に認められる鼉⿓鏡の図像⽂様が確認できるです。

ほかにも鋸⻭⽂を中⼼とする⽂様があり、類例のない銅鏡。
表⾯が平滑に研磨されており、倭鏡⼯⼈が製作したとみられるです。

鼉⿓⽂盾形銅鏡をブロック状の粘⼟で埋めてその上に⽔平⾯を作り出し、⻑さ約267 cmの蛇⾏剣が副葬されているです。
⽇本最⼤の鉄剣でもあり、蛇⾏剣としては最古例。

刃部幅は約6cmですが、蛇⾏しているため部分的に残存する鞘の幅は復元で約9cmあるです。
柄頭・柄⼝・鞘⼝・鞘尻には有機質の装具痕跡が残存してい円丘部の中⼼と造出しの中⼼を結んだラインを主軸とし、
そこから90 度南東側にふった1〜2段⽬にあたる部分にU 発掘区を設定。

その結果、2段⽬斜⾯の葺⽯が良好に残存し、その裾を確認。
そして、その北東側で裾より⾼い位置に取り付く⾼まりがみつかったです。
この⾼まりは幅約1m、裾からの⾼さは0.3m であり、2段⽬斜⾯との接続部に湧⽔施設形埴輪を設置。

⾼まりの上⾯には⼩礫敷を⾏っているです。
また、⾼まりの北東側は溝で区画されており、さらに北東側になんらかの遺構が広がっているとみらるです。
ミニチュア⾼杯が4点以上出⼟しており、これらを⽤いた祭祀空間であったと考えられるです。

湧⽔施設形埴輪は、囲形埴輪のなかに家形埴輪を⼊れ⼦状に組み合わせたもの。
さらに家形埴輪の内部には2槽式の構造物が設置され、それぞれに⽔を流すためとみられる刳り込みが
表現されているです。

囲・家形埴輪が組み合う場合、⽊樋を表現した⼟製品が伴うものを導⽔施設形埴輪、井⼾等を表現した⼟製品が伴うものを
湧⽔施設形埴輪としているですが、2槽式構造物は類例がないものの、どちらかといえば湧⽔施設であるとみらるです。
このような湧⽔・導⽔施設形埴輪は全国で約10 例みつかっていますが、富雄丸⼭古墳はそのなかでも最古の事例となるです。

円丘部の中⼼と造出しの中⼼を結んだラインを主軸とし、そこから90 度南東側にふった1〜2段⽬にあたる部分に
U 発掘区を設定。

その結果、2段⽬斜⾯の葺⽯が良好に残存し、その裾を確認。
そして、その北東側で裾より⾼い位置に取り付く⾼まりがみつかったです。
この⾼まりは幅約1m、裾からの⾼さは0.3m であり、
2段⽬斜⾯との接続部に湧⽔施設形埴輪を設置。

⾼まりの上⾯には⼩礫敷を⾏っているです。
また、⾼まりの北東側は溝で区画されており、さらに北東側になんらかの遺構が広がっているとみられるです。
ミニチュア⾼杯が4点以上出⼟しており、これらを⽤いた祭祀空間であったと考えられるです。

湧⽔施設形埴輪は、囲形埴輪のなかに家形埴輪を⼊れ⼦状に組み合わせたもの。
さらに家形埴輪の内部には2槽式の構造物が設置され、それぞれに⽔を流すためとみられる刳り込みが表現されているです。

囲・家形埴輪が組み合う場合、⽊樋を表現した⼟製品が伴うものを導⽔施設形埴輪、井⼾等を表現した⼟製品が伴うものを
湧⽔施設形埴輪としていますが、2槽式構造物は類例がないものの、どちらかといえば湧⽔施設であるとみられるです。
このような湧⽔・導⽔施設形埴輪は全国で約10 例みつかっていますが、富雄丸⼭古墳はそのなかでも最古の事例となりうるです。

第5次調査で、墳丘1段⽬に普通円筒埴輪、2段⽬に鰭付円筒埴輪を置き分けしていることを確認。
⼀⽅、墳丘の南⻄側では埴輪列が確認できなかったです。

本調査では、墳丘南側にV 発掘区を設定し、想定位置で3段⽬斜⾯の裾、2段⽬平坦⾯を確認。
斜⾯の葺⽯は崩れて残存してないけど、2段⽬平坦⾯には⼩礫敷が残存。
また、裾から約4m 外側では鰭付円筒埴輪列8本分を確認。

ただし、多くは後世に抜き取られ2本のみ残存。
墳丘南⻄側は、南・⻄側に⽐べて崩れていることが明らかとなり、本来は古墳全体に埴輪列がめぐっていたとみられです。
よって、2段⽬には約400 本の鰭付円筒埴輪が設置されていたと想定できです。

また、墳丘東側に設定したX 発掘区では、1段⽬の普通円筒埴輪列(10 本分)を確認。
ただし、想定位置より外側かつ円周から逸れる位置でみつかっており、湧⽔施設形埴輪を伴う空間に向けて
特殊な構造となっている可能性がるです。

富雄丸⼭古墳の北東側隣接地には、6世紀後半の横⽳式⽯室をもつ富雄丸⼭2号墳、その南東側に3号墳が位置し、
奈良県教育委員会が1972 年に調査しています。ただし、3号墳では埋葬施設がみつかっておらず、古墳であるのかを含めて不明確でした。

昨年度実施した第5次調査では、2・3号墳のUAV レーザ測量も実施し、その等⾼線が前⽅後円形にもみえることから、
これらの可能性を考慮して1972 年の発掘区を再発掘して⼟層等の再確認を⾏ったです。

その結果、3号墳は盛⼟や切⼟が⾏われ⼈為的な造作が認められること、埋葬施設がないことを確認。
また、2・3号墳の間には両古墳を区画するような溝などの区画施設が認められず、測量成果をふまえれば2号墳を後円部、
3号墳を前⽅部とする前⽅後円墳である可能性があるです。

仮に前⽅後円墳であるとすれば、全⻑は概ね40m 程度とみられるです。
本調査では、造出し上段で粘⼟槨を確認し、出現期の造出しの性格を考える上で重要な成果を得たです。
また、そこで出⼟した遺物はいずれも古墳時代前期(4世紀)における国内⼿⼯業⽣産技術の最⾼傑作であるです。

墳丘南東側で確認した祭祀空間は、その⼀部を確認したにすぎないですが、北東側の造出し以外にも特殊な施設や空間が広がることが
明らかとなり、⼤型円墳である富雄丸⼭古墳の重要性を認識できる成果といえるです。

また、富雄丸⼭2・3号墳は前⽅後円墳である可能性が⾼まったです。
富雄丸⼭古墳から約200 年後に築造されたものですが、周辺にはその間を埋めるような古墳はなく、
6世紀後半になって意図して隣接地に築造したとみられるです。

両者の関係性を考える上でも、前⽅後円墳であるかは重要な課題であり、形状や構造を今後明らかにする必要があるです。
う~ん、これだけの大発見。
こんな地下えではとは思わなかったなぁ~

富雄もやっぱりさすがは歴史の奈良県ということです。
だけど身近にこういう歴史的な遺産が出てくるのは、凄いなぁ~

伊達政宗公の大胆な行動は凄いなぁ~

2023-02-07 07:10:29 | 歴史
戦国武将の人気ランキングでは、常にベスト5位以内には入ってる伊達政宗公。
戦国最後の武将とも言われているです。

ちなみにでき大大河ドラマの視聴率No.1は、独眼竜 政宗。
そりだけの人気もあるけど…
すでに秀吉、家康の天下だったけど、隙あらば天下統一の野望を持ってたです。




初代仙台藩主で、乱世は戦場を駆け抜け、平時は領地経営に勤しみ、大都市・仙台の礎を築き上げたです。
戦国武将として南奥州の山形県、宮城県、福島県の一部を駆け巡り、戦のない江戸時代では仙台藩62万石を
治める為政者として活躍した伊達政宗公。

伊達政宗公は、信長、秀吉、家康より約30歳前後も年下。
生まれた頃は、戦国時代も終盤にさしかかっていたです。
もし政宗が10年早く生まれていたら、日本史は変わっていたかもしれないという意見もある魅力的な武将。

特に秀吉との対面は、大河ドラマでも超名場面だったです。
もともと伊達氏は中央権力である豊臣氏の束縛に対して不服従であり、自由な態度を示していたです。
その上で、同じような立場にある東海の徳川・関東の北条とある種の連合を組んだ形になっていたため、
むしろ本来、政宗は北条側に味方するべきだったといえるです。
実際、北条氏としては伊達氏による援軍を期待して天下の名城・小田原城にこもった節もあったです。

それでも、政宗は北条を見捨てて豊臣氏に味方することを決断し、小田原へ向かったです。
小田原を包囲する未曾有の大軍、また秀吉の機敏な動きを見て、抵抗しても無意味と判断したです。
野心家として知られる政宗としては苦渋の決断だったはず。

関東を大回りして進んだこともあって、ようやく辿り着いたときには完全に「遅刻」の状況。
そのせいか政宗はしばらく幽閉され、使者の詰問に応えた上でようやく秀吉への謁見を許されているです。
政宗はどこまでも大胆不敵だったです。

幽閉されて、もしかしたらという時期に「ぜひ千利休殿に茶を習いたい」などと申し出た挙句、
秀吉との対面に際しても白衣で挑んで見せたです。

この度胸はむしろ秀吉に評価され、杖で首筋を叩かれ「首が危なかったな」と脅されつつも
遅刻を許されることになったです。

やがて小田原城は落ちて、秀吉は東北へ進んで諸大名を降伏させ、天下統一を達成。
そうして始まる豊臣政権の時代において、政宗は自らの領地を守ることに成功。
その背景には、小田原攻めの裏に隠れた政宗の決断と度胸があったです。

いつの時代も、思い切りの良さはしばしば人を救うです。
そして、天下への野望を狙い、それが時々危ない目にあっても、巧みな逃げ口実を作っていたです。

もし本当に、伊達政宗公が10年早く生まれていたら、日本の中心は仙台だったかも
しれないです。
歴史にもしは禁物だけど、伊達政宗公だけは、そう思わせてくれる戦国武将。
だから、高い人気を誇っているです。

源義経は人の心が読めなかったのかなぁ~

2022-12-16 05:19:51 | 歴史
判官びいきという言葉も残るほど、歴史に名を遺した源義経。
幼いころは、父の敵である平清盛を父と思い、慕っていたというエピソードも残っているです。

長じては兄、頼朝に尽くし、戦果を上げながらも頼朝に追われたです。
悲劇の武将といわれる義経は、なぜ、兄から認められなかったのか。
その人物像を探るです。

源頼朝は、完全に人間不信の人でした。自身を担ぐ坂東武士団も、実の弟たちも、自分に取って
代わろうとする政敵、と疑うです。
武士団の上総介広常や一条忠頼、弟の範頼、義経は追討するです。

対して源義経は、人を信じては裏切られ続けているです。
義経の思い違い、勘違いも多かったかもしれないですが、本人は裏切られたと強く恨んでいたるです。
義経は物心ついたころ、自分の父親は平清盛だ、と思っていたかもしれないです。

義経は平治元年に、源義朝と常盤御前の間に生まれたるです。
だけど、義朝は同年に起こった平治の乱で敗走。
義経に父・義朝の記憶は、ないです。

母の常盤は絶世の美女で、清盛はその美貌に心を動かされ、家を持たせて妾の一人にするです。
乳飲み子だった義経は、常盤と一緒に暮らすです。
足しげく通う清盛を、幼い義経が父親だと思っても不思議はないです。

常盤は、清盛との間に女の子を産むですが、清盛は常盤を公家の大蔵卿・一条長成のもとに再嫁させるです。
そのとき義経は、初めて清盛が父親ではないと知ったです。

常盤が長成と結婚すると、義経は新しい父親とうまくいかず、7歳で鞍馬寺)に預けられるです。
義経は父と慕った清盛にも、愛してやまなかった母にも捨てられたと思うです。

室町時代に成立した軍記物語『義経記』には、義経は、鞍馬寺の僧侶から自分が源氏の嫡流で、
父だと思っていた清盛が敵だと知らされ、怒り心頭に発し、平家打倒を決意したとあるです。

そうかと思うと、のちの小説には、平家打倒のために鞍馬寺で中国の兵法書を読み、
剣術の修行に励んだと書いてあるです。
あるいは鞍馬の天狗が出てきて、兵法を義経に教えたとも。

天狗はさておき、人々の安寧を願う寺に兵法書が置かれているとは考えられないです。
承安4年、16歳の義経は僧となるよう出家を促されるです。
ところが彼は、これを拒んで鞍馬寺を出奔。

同年3月3日桃の節句に、東山道・鏡の宿(で、自らの手で元服。
中世の武家社会では、元服の際、地域の有力者や父親の上司などが烏帽子親と呼ばれる後見人になるです。
前髪を落として髷を整えた男子に、烏帽子をかぶせ、自分の名前から一字を取った諱を与えるです。

義経は全て、自分一人でやったでつ。
自分で前髪を落とし、自分で髷を結い、諱も自分で考えたです。
こんな孤独で寂しい元服はないです。

元服を終えた義経は、奥州藤原氏の藤原秀衡を頼って、平泉に行ったといわれるです。

今に伝わる義経の物語のほとんどは、義経が生きた時代から200年以上のちに書かれた『義経記』によるもの。
ちなみに武蔵坊弁慶(しても、『平家物語』では名のみが伝えられ、「安宅の関の勧進帳」も「弁慶の立ち往生」も
語られていないです。

元服後の義経はどこで何をしていたのか。
『平家物語』や鎌倉幕府の正史とされる『吾妻鏡』に、義経の一の郎等として、伊勢三郎義盛が登場。
彼はもと、伊勢・鈴鹿の山賊。

義経の戦法といえば、一ノ谷の戦いでの「鵯越の逆落とし」と呼ばれる奇想天外な攻撃。
屋島の戦いでの民家に火をつけて焼き払い、大軍で攻めてきたと装う擬装作戦。

壇ノ浦での武器を持たない水夫を、弓矢で狙い討ちする禁じ手など。
平安時代から鎌倉時代ごろまでに主流だった武士の戦い方は、日取りを決め、両軍がそろったところで
「やあやあ、我こそは○○の住人、△△なり~!」と名乗ってから、弓馬をもって討ちかかるという方式。

対して義経の戦法は、相手の裏をかく奇襲・奇策が目立つです。
勝ちさえすればよしとする、山賊の生き方から学んだもの。
もちろん、源平合戦のころの武士が、すべて名乗りを上げていたわけでないです。

『今昔物語』に、17歳で初陣を迎えた武士が、「どうやったら生き残れるか」と歴戦の郎党に聞くと、
「まず馬を狙え。馬が驚いて後ろ立ちになって相手が落ちたら、その上に乗りかかって上から刺せ」と答えているです。
馬を射るのは、船の水夫を射るのと同じ、禁じ手。

そうした戦い方が、建前の裏ではまかり通っていたことも事実。
ただ、皆、それが卑怯な手段だと分かってやっていたです。
義経は、自分の戦術が卑怯だとは考えもしないです。

一方で義経と共に戦い、卑怯な手を使った武士は自責の念から、義経のせいで卑怯なまねをさせられた。
もうこれ以上、あのお方には付いていけないと義経に罪をなすりつけたです。

後年、義経と対立した頼朝も、そうした声を利用して、義経排除の流れをつくったです。
NHKの大河ドラマに、源義経はこれまで何度も登場。

いずれにおいても、義経は見目麗しく、線の細い美少年然とした容貌で、物静かで冷静沈着、武勇に優れた
若者として描かれてたです。

対して今回の『鎌倉殿の13人』の義経は、はしゃぎ回るなど、道徳観念や倫理観に乏しい、“明るい無頼漢”として
描かれていたです。

6歳で鞍馬寺を出奔した後、長い空白期間をおいて、義経が突然、歴史の表舞台に現れるのは、治承4年、
黄瀬川で陣を張る兄・頼朝のもとに馳(は)せ参じ、涙の対面を果たす場面。
義経は22歳。

ずっと孤独だった義経にとって、兄が生きていて、しかも平家打倒のために挙兵したと知ったときは、
本当にうれしかったです。
何とか頼朝の役に立ちたい、その一心で駆けつけたです。

ところが義経は、頼朝が坂東の武士団に担がれている本当の理由を、正しく理解していなかったです。
頼朝は坂東の武士団に対し、「私は源氏の棟梁である」と「貴公らの一所懸命を認め、各々の土地は保証する。
戦果を上げれば、新たな土地もやる」という2つのハッタリを述べたです。

武士団にとって、より大事なのは土地。
しかし義経は、頼朝が源氏の棟梁だから皆が付いてきている、と勘違いしたです。
頼朝が棟梁なら、弟の自分は御曹司と思ったです。

頼朝は、この義経の思い違いを正そうとするです。
養和元年7月、武蔵国浅草から呼び寄せた宮大工により、鶴岡八幡宮の社殿が完成し、その上棟式が行われたです。
そして大工たちに褒美の馬が与えられることになるですが、頼朝は棟梁に与える馬を引く役を、義経に命じたです。

すると義経は、「なぜ御曹司である私がこんなことをしないといけないのか」と文句を言うです。
この態度に頼朝は、血相を変えて激怒。「
たとえ兄弟であっても、義経は御家人の一人にすぎない」と義経と武士団の双方に認識させたです。

頼朝は義経と武士団の空気の悪さを察して、当初は戦の大将に義経を据えようしなかったです。
それでも寿永2年10月、朝廷からの上洛の要請を受けた頼朝は、義経を代官として京に送るです。
すると翌寿永3年1月に、義経は京を占拠していた木曾義仲を討ち果たし、2月には一ノ谷の戦いで勝利を収めたです。

義経は、自分の周囲や後方を見ていませんでした。戦いの合間に立ち止まって、周囲や後方を見るです。
これはビジネスパーソンにとっても、大切なこと。
敵は前だけでなく、後ろ、つまり身内の中にもいることを、義経は分かっていなかったです。

頼朝が義経の目付け役にした御家人の一人・梶原景時は、常に義経の戦い方に意見する一方、
頼朝にも注進していたです。

坂東武者は武功を上げることで、領地の安堵や領地の拡大をもくろんでいるです。
義経はそこを無視して自分で戦い、坂東武士各々が戦功を上げる機会を奪ってしまったです。

元暦元年8月、後白河法皇が義経を左衛門少尉、検非違使に任じたです。
頼朝は、法皇が義経を任官することは源氏を割ることになると分かっていたですが、黙ってたです。

義経は元暦2年2月の屋島の戦い、3月の壇ノ浦の戦いで勝利し、平家を滅ぼすです。
義経は頼朝は自分の活躍を喜んでくれていると思い込んでいたですが、頼朝は、義経が壇ノ浦の戦いで
安徳天皇と三種の神器の奪還に失敗したことに怒り、またこのときになって、朝廷から勝手に任官を
受けるとは不届きだと罵って、義経を京で謹慎させ、東国への帰還を禁じたです。
義経は、この命令を無視して、壇ノ浦の戦いで捕らえた平家の総大将・平宗盛らを護送し、鎌倉に歩を進めるです。

頼朝は義経の鎌倉入りを許さないです。
そこで義経は私はこんなに頑張ったのに、なぜ兄上は受け入れてくれないのかと腰越状に書くです。

この後、義経は頼朝打倒という道を選び、関東で頼朝に恨みを持つ者は義経に付けと声を上げるです。
頼朝は怒り、義経の所領を没収。
京に戻った義経は後白河法皇を頼り、頼朝追討の宣旨を得るです。

頼朝がこれを知って御家人に上洛の命を出し、自らも鎌倉を発つと言うと、法皇は逆に、
義経追討の宣旨を頼朝に下すです。
義経は後白河法皇からも、裏切られたです。

義経追捕の網をかいくぐり、各地を転々とする長い逃避行の末に、文治3年2月、最後に頼ったのが奥州の藤原秀衡。
藤原秀衡は、息子のうち2人に「義経を主君として仕え、3人でともに結束して、頼朝の攻撃に備えよ」と指示してたです。
けれど秀衡の跡を継いだ泰衡は、頼朝からの圧力に屈してこの遺言を破り、翌々年の閏4月に義経を襲ってしまったです。

信じて頼った秀衡の息子に、またしても裏切られたです。
藤原秀衡が主導していたら…
もしは禁物だけど、歴史は大きく変わっただろうなぁ~

どうする家康。

2022-12-06 07:10:29 | 歴史
2023年1月8日から始まる大河ドラマ第62作『どうする家康』。
室町時代後期から江戸時代を舞台に徳川家康を描くです。

主演は松潤。
たぶん…
松潤が、NHKのドラマに出るのって初めてかもでつ。




大河ドラマの主人公としては、2回目。
前回の大河 徳川家康は、家康が滝田 栄さんだったでつ。
滝田さんが、今までの家康像を変えたでつ。

そして…
信長役が役所広司さん。
信長と言えば、役所さんが一番適役だなぁ~

秀吉役は、武田鉄矢さん。
秀吉も武田さんが一番だなぁ~
キャスト的にも前回の徳川家康は完成度が高い大河史上でも1,2を争う出来。

今回はどうなのかなぁ~
信長役は、岡田准一くん。
こり、ハマりそうだなぁ~

ジャニーズの先輩後輩ってのもいいでつなぁ~
秀吉役は、ムロツヨシくん。
松潤と仲いいし、意外にハマりかなぁ~

信玄役に阿部寛さん。
阿部さんは、天地人で上杉謙信役やったから、ライバルの信玄を
どう演じるかみもの。

最近は、ストーリをかなりアレンジしてる感じ。
いまいち面白味がないとこあるけど、戦国ものならなんとかまとめてくれそう。

久々の戦国だし、ちと注目だなぁ~

奈良国立博物館と正倉院展

2022-10-08 07:10:29 | 歴史
奈良公園内には、いろんな遺産があるです。
奈良公園は、東大寺、興福寺、春日大社などに隣接しているです。




奈良公園内を歩いていると洋風建築のモダンな建物があるでつ。
こりが、奈良湖国立博物館。
なら仏像館(本館)は、明治27年に完成した奈良で最初の本格的洋風建築。




フレンチルネサンス高揚期の様式。
玄関まわりの装飾は意匠的にすぐれ、明治中期の欧風建築として代表的なもの。
昭和44年(1969)に「旧帝国奈良博物館本館」として重要文化財に指定されたです。

なら仏像館では、飛鳥時代から鎌倉時代にいたるまでのすぐれた仏像を数多く展示しているです。
また中国・朝鮮半島の仏像も展示。
国内の博物館では、もっとも充実した仏像の展示されているです。

そして、秋の奈良のビックイベントが正倉院展。
天平文化の遺産が展示されるです。






正倉院宝物は、かつて東大寺の倉であった正倉院に収納されていた品々で、その数はおよそ9000件を数えるです。
正倉院展は、これらの中から毎年60件前後が厳選され公開される展覧会で、今年で74回目。
今年の正倉院展も例年と同様に、美しい工芸品から、奈良時代の世相がうかがえる文書まで、様々な品が出陳されるです。

無事に正倉院展が開かれることに感謝するとともに
無地に展示物が正倉院に戻ることを祈るです。

さて…
正倉院展で展示物を見た後は…




小腹が空くので…
和菓子をいただきたいところでつ。




奈良町に和菓子の、おくた奈良町店があるでつ。




東大寺正倉院宝物の一つとされている香木の形を模したお菓子があるでつ。




蘭奢待と言う名の和菓子で、昭和天皇よりご寵愛頂いた銘菓。




讃岐の和三盆と吉野本葛のみで作られているでつ。




そういえば、奈良国立博物館も正倉院展も長く行ってないなぁ~
新型コロナで入場制限されてるのかなぁ~
そうすると、ゆっくりと天平の神秘な文化をじっくりと見れるです。

真珠湾と原爆投下

2022-08-09 07:10:29 | 歴史
真珠湾攻撃は、日本の奇襲攻撃だったけど、ルーズベルト大統領が事前に
知っていたかどうかということが、どうなのかというとこは謎。

だけど、当時のアメリカは戦争に関わらないという前提があったから
どうしても参戦するには、攻撃される必要があったでつ。
そういう意味で、黙認した可能性は高い。




アルキメデスの大戦では、どう描かれるのかなぁ~
だけど、ルーズベルト大統領が知っていたには、被害は大きかったのは
そこまで日本の力を侮ってたとこはあったかもでつ。

日本が一発撃たなければ、戦争は始まらなかったけど、軍の暴走を止めることが
出来なかったというより、アメリカと交渉出来るだけの人材が日本にいなかった。
というのもあるけど、日清、日露、第一次世界大戦と常勝だったのもあるでつ。

そいと海軍は世界三大と言われてたし、航空機技術も高かったでつ。
そういう意味で、日本に過信があったのも事実。
アメリカの挑発に乗ってしまったということ。

その始まった戦争をなかなか終わらせることが出来なかったでつ。
ドイツとイタリアは早めに終戦したけど、日本は最後までというより
政府は誰も責任取りたくないからなかなか終戦出来なかったでつ。

無責任な政治家さんは昔も変わらないでつ。
戦争を終わらせるため、ソ連が参戦したこともあって、早く決着を付けるために
原爆が投下されたです。

日本が早く終戦してれば、広島と長崎は無事だったんだけど、無責任な政治家さんのために
原爆を投下されてしまったです。
もし長崎の後まだ終戦してなければ、京都かもしかすると東京へ投下されてたかもしれないです。

今から77年前、長崎に投下された原爆。
広島も長崎も軍事工場があることが投下された一番の理由。
結局は、アメリカの戦略に乗せられて、アメリカの属国になってしまったということ。

もしルーズベルト大統領が知っていたとしたら、真珠湾の被害は少しだった気もするでつ。
そう考えると正確な情報は掴んでないけど、攻撃はしてくることは理解してたと
いうのが推理としてはただしいかなぁ~

日本の原爆開発してたでつなぁ~

2022-08-06 07:10:29 | 歴史
原爆が広島に投下されたのが、今から77年前。
もう、二度と合ってはいけない核戦争。


だけど、日本も原爆を開発してた事実があるでつ。
そりが、太平洋戦争中、旧陸軍がひそかに進めたのが原爆開発「ニ号研究」。
計画を率いた理化学研究所の仁科芳雄博士。

基礎研究を好んだ「日本の物理学の父」が戦局の悪化とともに原爆開発に
巻き込まれてでつ。

2018年、仁科記念財団の資料棚で古い菓子箱が見つかったでつ。
中には仁科氏が1938~47年にしたためた手紙の複写約1500通が入っていたでつ。
同氏は手紙を書く際にカーボン紙で複写し、手元に残していたでつ。

一部は未公開の手紙は、当時の考えの変遷がわかるでつ。
仁科氏は基礎科学推進のために外部の資金を得ることに熱心だったでつ。
軍も有力なスポンサー。

1940年5月5日付で書いた手紙で「陸軍関係者に対し、待ッテ居テハ駄目デ……
積極的ニ出カケテ見テハ如何ガデス」と助言。
陸軍は膨大な予算を抱え、軍事に役立たない基礎研究を支援する余裕があったでつ。

仁科氏は安田武雄中将ら幹部と懇意にしていたでつ。
安田中将の戦後の証言によると40年夏に仁科氏が原爆研究を持ちかけたでつ。
陸軍は41年6月、理研に研究を委託。

内容は人工ラジウムを使う材料検査技術と核分裂エネルギーの利用。
エネルギー利用は動力源と爆弾をにらみ、研究費は1万円(現在の価値で約500万円)で
実現性の調査が目的た。

研究に必要な大型の円形加速器建設が仁科氏の狙いだったと推測。
積極的に軍事研究に踏み出すというよりも、研究費を陸軍から得ようとしたでつ。
核爆発や原子力発電の基盤となる核分裂連鎖反応は理論的には可能だったが、実現性は未知数。

仁科氏らが積極的に研究に取り組んだ様子はないでつ。
変化するのは42年秋以降。
ミッドウェー海戦とガダルカナル島の戦いで日本は相次ぎ敗れたでつ。

仁科氏は10月13日付の新聞に研学にも滅私奉公という記事を寄稿。
12月20日に、科学者と軍の協力体制づくりで海軍幹部と意見が一致したことなどを報告。

43年になると「お国のため」という姿勢が強くなるでつ。
1月上旬に出した4通の手紙では、原爆に欠かせないウランをかき集めようと
苦労する様子がうかがえるでつ。

ニ号研究が始まる直前の手紙にこう書いているでつ。
戦時欠くべからざる研究を重点的に推進することと相成申候。
戦局が悪化するにつれ、悲壮感が漂う。

軍関係者には研究の遅れをわびる手紙を送り続けたでつ。
かつての部下には「どうにかして敵を撃退すべき武器を作らねばならぬ」と
書いたでつ。

45年7月、陸軍はニ号研究を中止。
1カ月後、広島に原爆が投下されたでつ。

翌日の8月7日、仁科氏は理研の部下にこう宛てたでつ。
「『ニ』号研究の関係者は文字通り腹を切る時が来たと思ふ」

仁科氏が軍事研究を進めた背景には若い研究者の出征を止める狙いがあったでつ。
軍関係者に兵役免除を要請したり、実現して感謝したりする内容の手紙は
複数見つかったでつ。

軍がスポンサーだったため、戦況が悪化すると戦争に貢献する成果を出す責任が
生じたと指摘。
仁科氏は戦後、考えを改め、日本学術会議の副会長として科学者による軍事研究を
拒否する声明をまとめたでつ。

「戦争はしてはならぬ」という遺志は、核兵器廃絶として多くの弟子たちに
受け継がれたでつ。

当時の仁科氏らは原爆が製造できるとは考えていなかったでつ。
研究に携わるのは若手を中心に20人ほど。総費用2000万円(当時の為替で約500万ドル)で、
20億ドルを投じた米国とは比較にならないでつ。

物資が不足し、欧米の研究情報が途絶えて理論研究も行き詰まっていたでつ。
ノーベル物理学賞を受賞する朝永振一郎氏が協力する意思を伝えたが、
必要ないと断っているでつ。

核の恐ろしさを知ってるのは、日本だけ。
研究はしてても継続させなかったのは、懸命だったでつ。

山本 五十六さんは、日本最高の提督です。

2022-07-31 05:19:55 | 歴史
アルキメデスの大戦で、櫂の上司として、描かれてる山本五十六さん。
ハワイの真珠湾攻撃を計画、実行した日本海軍の提督。

最後の最後まで日米開戦を回避するように頑張ったけど、
結局、日米開戦の戦火を切る形となったです。




アルキメデスの大戦では、櫂と黒岩で真珠湾攻撃を計画。
櫂は、架空の人物だけど、黒岩はたぶん、黒島さんだと思うです。
ちなみに大和を設計した平山は、実際に大和を設計した平賀さんがモデル。

アルキメデスの大戦を読んでて、どこまでが史実で
どこからがアレンジなのかわかんないとこあるでつが、
五十六さんの本を読んでると、ある程度史実通りだなぁ~とわかるです。

真珠湾攻撃も櫂の作戦とどう違うのかなぁ~
大和に乗ってる五十六さんは、ハワイへ当直するのかなぁ~
史実では、真珠湾の頃は、大和は建造中のはず。

だけど、アルキメデスの大戦の五十六さんと五十六さんの本読んでると
なんとなく、イメージは合うなぁ~
アメリカは、五十六さんが一番怖かったみたいです。

日本で、五十六さんを超える提督はいなかったです。
先見の目はすごい。
戦略も古い巨大戦艦の時代ではなく、航空機の時代というのも読んでたです。

そのため、航空機と空母の充実を訴えて、太平洋戦争が始まる頃は、
アメリカより空軍というカテゴリでは上回っていたです。
だけど、日本は古い格式と日露戦争での戦果から巨大戦艦主義も捨てきれなかったです。

やはり先駆者というのは、難しいけど、五十六さんは、統率力も抜群。
古い日本の格式を打ち破ることもやった成果が真珠湾だなぁ~
もうすぐ終戦だけど、五十六さんの作戦通りなら、早期に日米戦争も終了してたと思うです。

歴史をよむと改めて、五十六さんの凄さを認識させられるです。