長電話

~自費出版のススメ~

アナログ終了とエイミーワインハウスの死

2011-07-24 | メディア
エイミーワインハウスが死んでしまいました。

60年代に次々に死んでいったジミヘンやブライアンジョーンズ、ジムモリソンなど、縁起の悪い連中よろしく、亡くなった年齢27でという数字は、彼女の奇行の目立つアナログな生き方を象徴しているようで、さもありなんと思うのは私だけではないでしょう。

元気がある時にしか聴けないという難点はありますが、彼女の遺した作品は少ないながらどれも鮮烈で、そのスクリーミン・ジェイ・ホーキンスにも似た差し迫ったような緊張感は、才能や生き方が世代的なものではなく、個人に属するものであると再確認させられます。

今週は昭和時代から活躍していた大関魁皇の引退、女子サッカーの世界一があり、テレビではアナログ放送が終了しました。

衛星デジタルにすれば、もっと短い期間、安い費用で出来るはずのシステム変更に、これだけの無駄を費やすのは、いかにも日本らしいバカバカしさ。親会社の同じ新聞も、デジタル化している国は相当数に上ると言い訳し、利点を強調していますが、大方の国は衛星デジタルであり、地上デジタルなどという、それこそアナログな着想の計画などないということには触れません、地上波か衛星波かということが重要なのに、その後のデジタルを強調することで、自ら犯した罪(無駄)を糊塗しているわけです。

そして、なぜ地上波デジタルなのかということ、なぜこの日時を横並びで従わなければならなかったのか。

これには無駄に多いローカル放送局の存在、放送免許利権、地元自民党政治家との放送局の繋がり、設備投資に対して旨みのないこのシステムに対する対応から生まれたといえる、携帯電話会社への1800億円もの借りがあったりします。

美空ひばりや、石原裕次郎が亡くなった昭和から平成に以降する時代、村上龍はそれらの死を「テクノロジーの嵐による淘汰」と呼びました。

そう言われれば確かにそのような気もしますが、今回の、こんな地デジ化と、魁皇の引退、エイミーワインハウスのもったいな死に因果関係などあるわけはありません。村上氏の言うことが正しかったとすれば、今日は、デジタル化によって引き起こされる、テレビというアナログの死の始まりの日と解釈するしかないでしょう。

脱原発がアナログだとすれば、アナログがいかに体にいいかが分かるってもんです。

そういや、清志郎も、ソニーのアンプみたいなCDの音が大嫌いだと言ってましたね。