発見記録

フランスの歴史と文学

彫像の共和国(1) リベルタンと三位一体

2006-02-17 22:21:12 | インポート

獄中侯爵正装の成蟲(りべるたん)
                       加藤郁乎
句集『球體感覚』の一篇。「侯爵」はサドだとしても「成蟲」に「りべるたん」とルビなのはなぜか(この句集には確か松山俊太郎の評釈があるはずだ)

Libertinは正統的な教説に縛られない「自由に考える人」であり、色好みの「放蕩者」でもある。リベルタンの自由とはとりわけキリスト教(特に「教会」)からの自由だと言えた。
On dit quelquefois d'Un écolier négligent et dissipé, qu'Il est fort libertin.
(だらしなく放埓な学生について、「ひどいリベルタンだ」と言うことがある)アカデミーの辞書第5版 1798
ディドロ『ラモーの甥』冒頭の

...J'abandonne mon esprit à tout son libertinage. Je le laisse maître de suivre la première idée sage ou folle qui se présente, comme on voit dans l'allée de Foy nos jeunes dissolus marcher sur les pas d'une courtisane à l'air éventé, au visage riant, à l'oeil vif, au nez retroussé, quitter celle-ci pour une autre, les attaquant toutes et ne s'attachant à aucune. Mes pensées, ce sont mes catins.http://abu.cnam.fr/cgi-bin/go?neveu2

「私は自分の精神をとことん気ままにさまよわせる。ぱっと浮かんだ考えを、賢明なのもそうでないのも追って行かせる。フォワの小径では若い放蕩者が、蓮っ葉そうで陽気な顔に活き活きした目、鼻はしゃくれた娼婦について行き、また別の女を追いかけ、みんなに言い寄りながら誰にも執心しないのを見る、あれと似ている。私の考え、それは私の娼婦である」

16世紀の医師・思想家、ミシェル・セルヴェの名は写原さんの ちょうど100年前のフランス雑誌瞥見で知った。宗教改革者たちと交流を持ちながらさらに急進的、宗教裁判所のみならずプロテスタントのカルヴァンまで敵に回し、異端信仰を理由に火刑にされたという。
Wikipédiaは、「リベルタン」の思想を古代のエピクロス哲学の再生であり、ルネサンス期イタリアのカルダーノ、パラケルスス、マキアヴェリを経て18世紀哲学者の批判理性に至る流れと位置づける。リベルタンは唯物論的、多くは無神論者、世界は造物主の観念なしでただ理性によって理解できると考える。フランス王政は、王の権力は神から授与された(「神授王権」)との理念に基づく。リベルタンは教会、国家、伝統によって打ち立てられた道徳と宗教を揺るがしかねない危険分子となった。
彼らの無道徳、快楽主義も、神の不在という哲学理念から生まれたものだった。またこれと並行し「懐疑派」の流れもあった。それはアリストテレス=スコラ哲学による固定した宇宙像と自然観を問い直す。信仰と理性の関係もまた厳しく問われることになった。

ミシェル・セルヴェをリベルタンと呼んでいいのかはさて置き、異端扱いが特に三位一体をめぐるものだったことに興味がある。「神の本質は分ちがたい、神においてペルソナの多様はありえない」セルヴェは20歳の時の著書『三位一体論の誤謬』で書いたという。
三位一体がキリスト教の教義の根本にあることは「常識」としてわきまえていても、門外漢にはどうも実感しにくい。
「神は三位のうちの一なりと称する人々あり。彼らは異端者なり」―井筒俊彦『マホメット』(講談社学術文庫)で、マホメットが三位一体を全否定したことを知ると、ああやっぱり、と思うくらいに。「もっともマホメットは三位一体を神とイエスと聖母マリアによって構成されるものと誤解していたのだから今日から見ると話はいささか可笑しくなるが」(同書)

三位一体は教えられる子供にとってもやはりむずかしいものなのだ、そう感じさせてくれるサドの短篇が『哲学教師』L’instituteur philosophe(Hitoriettes,contes,fabliaux p.31)である。先生はデュ・パルケ神父、生徒は美少年ネルクイユ伯爵。
De toutes les sciences qu’on inculque dans la tête d’un enfant lorsqu’on travaille à son éducation, les mystères du christianisme, quoique une des plus sublimes parties de cette éducation sans doute, ne sont pourtant celles qui s’introduisent avec le plus de facilités dans son jeune esprit. Persuader par exemple à un jeune homme de quatorze ou quinze ans que Dieu le père et Dieu le fils ne sont qu’un, que le fils est consubstantiel à son père et que le père l’est au fils, etc., tout cela, quelque nécessaire néanmoins que cela soit au bonheur de la vie, est plus difficile à faire entendre que de l’algèbre et lorsqu’on veut y réussir, on est obligé d’employer de certaines tournures physiques, de certaines explications matérielles qui, toutes disproportionnées qu’elles sont, facilitent pourtant à un jeune homme l’intelligence de l’objet mystérieux.

(教育のため子供の頭に詰め込む知識の内、キリスト教の秘蹟は恐らく最も崇高なるものの一つだとしても、未熟な頭にはそうそう入りやすくない。たとえば、十四、五歳の少年に父なる神と子なる神が一体であり、子は父と本性を同じくし、父は子と云々を納得させるのは、人生の幸福に欠かせないとはいえ、代数を教えるより厄介である。首尾よくやるにはある程度の身体表現に訴え、物を使い説明することもやむをえない、どれほど不釣合いでも、そういう工夫は少年が幽遠なる主題を理解する助けとなるのだ。)

参考記事26 octobre 1553 : Michel Servet est brûlé dans la ville de Calvin http://www.herodote.net/histoire10261.htm