海鳴記

歴史一般

沈黙の百二十年

2021-09-20 07:46:17 | 歴史

 奈良原吉之助氏が生まれたのは、その翌年の十一月で、西洋人との間の子供だった。それゆえ、世間体を憚(はばか)ったのか、谷山(現・鹿児島市)士族であった奈良原市郎家に預けたのである。市郎家は当時、西南戦争に従軍した他の士族同様困窮(こんきゅう)していた。だから、それなりの扶養(ふよう)料も出したであろう。そればかりではない。二年後の明治十八(一八八五)年には、市郎家を屯田兵家族の一員として、北海道に渡らせているのである。これは、鹿児島からの第一回屯田兵派遣で、城下士族が優先されたのにも関わらず、市郎家だけはいわば地方郷士出身士族だったのである。これには、繁の力が働いていたと言っても過言ではない。なぜなら、自分の子供を預けた家族なのだから。

 これだけでは、吉之助氏は本当に繁の子供なのかと疑う人は多いだろう。あくまで繁の戸籍には入っていないのだから。

 吉之助氏は、市郎家の次男として入籍したが、長男の吉次郎(きちじろう)氏や他の姉妹とはひと際顔立ちが違っていた、と貢氏の親族はいう。私も、後年の吉之助氏の写真を見せてもらったことがある。鼻筋が通り、おまけに高かった。ただ、精悍(せいかん)な薩摩隼人(はやと)と見えなくもない。そんな顔立ちだった。どちらかと言えば、貢氏のように彼の子供である三代目のほうが、母方の血が濃く出たようである。

 また、奈良原家には、養父の嫡男・吉次郎氏に宛てた繁の書簡が二通残っていた。一通は明治三十四年。もう一通は明治四十年の日付である。繁が、沖縄県知事をしていた頃である。吉次郎氏に対する返信なので、内容はよくわからないが、一通は、役人をしていた吉次郎氏が、転職を望んでいたのか、有力者紹介の依頼していたようだった。それに対して繁は、懇切に対応し、北海道の薩摩閥に連なる有力者と思(おぼ)しき人物を紹介しているのである。

 さらに、北海道に渡った養父は、実子も多く鹿児島同様厳しい生活を送っていた。しかし、吉之助氏だけは、関東の私立中学出ているのである。そして、旧制中学卒業後、後に国有鉄道になる北海道炭鉱鉄道会社に就職し、大正十三(一九二四)年には四十一歳で室蘭駅長、そして翌年には函館駅長、最終的には、函館運輸事務所長としてキャリアを終えている。昭和九(一九三四)年、五十一歳の時だった。吉之助氏自身、能力があったのはもちろんだが、中学の学費なども含め、背後に繁がいたのはほぼ間違いないと思える。父親の繁は、明治十八(一八八五)年から明治二十五(一八九二)年までの七年間、のち国鉄の母体の一つになる日本鉄道会社の社長を務めていたし、辞めてからもそれなりの影響力はもっていたのだから。