海鳴記

歴史一般

沈黙の百二十年

2021-09-28 08:22:52 | 歴史

 ところで、奈良原家の家庭の事情に入る前に、まだ三次の飛行機発明家としての経歴を述べておこう。時間軸に沿ったほうが、すっきりするし、それにまだまだ初期航空界に確固とした名前を刻(きざ)むまでには至っていないのだから。

 三次は、海軍を辞めてから、二号機の設計・製作に取り掛かった。一号機のように四谷の自宅ではなく、新宿角筈(つのばず)の十二社(じゅうにそう)に東京飛行機製作所という看板を掲げ、本格的に取り組み出した。主として木製プロペラを作り、臨時軍用気球研究会に納入したりしていたようだが、二号機を作るほどの収入はない。ではその費用などどうしていたのだろうか。平木は、引き続き父・繁が出していたように書いているが、私は否定的である。海軍を辞めた息子を応援する気も失せただろうし、何より、自分が選んだ嫁を疎(うと)んじているのには我慢ならなかったに違いない。またもし、引き続き出していたとすれば、後にエンジンが差し押さえに合うこともなかっただろう。それに、一号機を気球研究会が買い上げていたとすれば、最初の費用はそれで相殺されているはずだから、男爵家の跡取りとあれば、借金も可能だったと思える。いや、ひょっとすると、母親のスガさんを通して金を引き出していたのかもしれない。

 ともかく、明治四十四(一九一一)年四月、二号機は完成した。そして陸軍が新たに造成した所沢飛行場を使用する許可を得て、同月二十七日、それを持ち込み、飛行練習を開始する。そこでは、徳川大尉や日野大尉も、ファルマン機やライト式複葉機に乗って飛行練習をしていた。

 五月五日になった。その日三次は、ノーム式五十馬力のエンジンを装着した二号機を自ら操縦し、地上四メートル、距離六十メートルの飛行に成功したのである。

 現場で三次の飛行を目撃したのは、東京飛行機製作所の所員とアメリカで操縦資格を取っていた、飛行家の都築(つづき)鉄三郎、そして四名の新聞記者だった。翌日の新聞では、「時事新報」のように「日本飛行機の大成功」と報じる記者もいた半面、「萬朝報」では、「遺憾ながら成功とは言い難い」と評価は分かれた。しかし、徳川好敏なども含め、「めぼしい成績ではなかったにしろ、二号機の飛行は間違いなく国産機の第一歩である」との評価が多く、航空史では、自作飛行機の最初の飛行として定着している。

 この日、二号機の製作に関わった所員たちは、芸者をあげ、明け方近くまでドンチャン騒ぎをしていたそうだが、三次はそれに加わらず、ヨネさんのいる青山の別宅に戻った。そして、しばらく飛行場には顔を出さなかったようである。そして、それ以降、自ら操縦することはなく、徳川好敏大尉から練習生として預かった白戸(しらと)栄之助(えいのすけ)が、後を継ぐことになる。平木は、親戚一同が操縦は危険だから反対したというが、そうなのかもしれない。だが、三次は、飛行機作りに情熱を失ったわけではなかった。

 ところで、二号機の飛行や製作に関して、音次郎青年の名前は出てこなかった。それもそのはずで、彼が三次と直接顔を合わせたのは、三次の飛行成功後だった。三次の周りには、支配人だった住吉貞次郎、工兵軍曹で除隊した白戸栄之助、製作主任の大口豊吉(とよきち)らがいたが、所沢で三次が飛行練習していた時、彼らは近くの宿屋に泊まり込んでいたのである。そこへ、音次郎青年が顔を出し、助手として使って欲しいと頼んだという。それから洋傘商店もすぐに辞し、五月六日、正式に東京飛行機製作所の所員となった。無給だったが、覚悟の上だった。大阪の姉からもらった金で、一年ほど何とかしのげるようだった。

 その後音次郎は、三次が現れない所沢飛行場で、白戸が操縦する二号機の練習を見たり、すぐ壊れる脚部の修理の手伝いをしたりしながら、徐々に飛行機というものを肌で感じとっていった。五月二十日には、白戸が、奈良原式二号機で、「階段を登るように高さ十五メートルに達し、距離四百メートルの距離」を飛んだのも目撃している。そして、その月末、所沢に久しぶりに現れた三次と顔を合わせたのである。平木の作品では、三次は、多忙で手紙の返事を出せなかったことを詫(わ)び、給料のことはともかく、親切に住まいの心配までしてくれた、とある。また音次郎は、すでに面識のあった徳川大尉と同じ育ちのよさを感じとったようである。そして以後、彼は、三次に対して何度か不信感を抱いたこともあったが、終生変わらぬ敬愛の念を持ち続けることになる。

 この年の九月下旬、新宿にある東京飛行機製作所で、三号機が完成した。金のかかった贅沢な作りの飛行機だった。十一月半ば過ぎ、所沢へ運び、白戸が試験飛行し、一応の成績を残したようである。ところが、二、三日後、突風に煽(あお)られ、中破してしまう。また、その数日後には、執達吏(しったつり)が来て、差し押さえにあってしまうのである。

平木は、支配人住吉貞次郎の乱脈経営のためだったと断言している。さらに、彼に実印まで預け、金の流れなどに一向無頓着だった、三次の若様気質も暴(あば)いている。

 ついでだが、父親の繁も、金には無頓着だった。というより、性格破綻(はたん)者とは言えないまでも、何かトラウマでも抱えていたかのように、生涯金遣いが荒かった。

 明治二十五(一八九二)年、繁が七年ほど社長だった日本鉄道会社も、鉄道局から離れ、一民間会社へ変わろうとしていた。それを潮時と考えたのか、繁は当時総理大臣だった松方正義を頼りに猟官(りょうかん)運動を始めていた。黒田清隆などへも根回しをして、北海道長官職を切望していたが、松方にも直接訴えた手紙が残っている。それには、家政困却の上、借金も抱えていることも訴えているのだから、何をか況(いわん)や、である。日本鉄道会社でもかなりの給料を貰っていたにも関わらず、だ。彼は、鉄道会社へ入る前、静岡県令を務めているが、その時の月俸が二百五十円だった。だから、鉄道会社の社長になってからそれを下回る筈がない。正式に社長を辞めたのは、同年三月二十四日だが、その後すぐではなかったにしろ、七千円の退職金を受け取っているのだ。小学校教員の初任給が、十円にも満たない時代に。

 ちなみに、待ち望んだ北海道長官職は、薩摩閥悪弊(あくへい)の温床として新聞で叩かれていたためか、あるいは繁がそこを治める力がないと判断されたのか、結局、沖縄県知事に収まった。七月二十日のことだった。