奈良原繁が鹿児島に建てた喜左衛門の墓には、妻・ひろ子とあるのですが、政雄氏の家の系図では、峰(子)なのです。ですから、最初の頃、貢氏と同様、政雄氏も何か世間の注目を浴びたいだけの「騙りや」的人物なのではないかと疑ったりもしました。しかし、鹿児島で政雄氏の周辺を洗ってみても、特に変わったところはありませんでした。むろん、私が調べ出そうとした頃には、政雄氏は亡くなっておりましたが、何度か政雄氏の長男に会って話を聞いても、実直で嘘などつけない人物の像しか結べませんでした。
それなら、どうしてこんなことになったのでしょうか。貢氏の場合は何とか残された文書等で繁の子孫だといえるのですが、喜左衛門の子孫に関しては、それらを証明する資料がほとんどないと言ってもいいほどなのです。それなら、喜左衛門には娘二人がいたとどうしていえるのでしょうか。それは、私が主張しているのではなく、喜左衛門の子孫だと名乗る二系統の子孫がいたからです。
一系統は、すでにお話した山口政雄氏ですが、もう一系統は東京に移り住むようになった子孫氏です。この系統の解明には、かなりの時間がかかりました。その糸口となる解明に至ったのは、ほんのごく最近のことなのです。おそらく調査から9年は経過していたでしょう。
さて、この調査の発端は、鹿児島県の地方法務局にあった旧土地台帳をめくっていたときでした。私は、鹿児島で亡くなった奈良原繁名義の土地がどうなっているのか調べる意味で、ここに通い出したのですが、それがわかってからも、鹿児島における奈良原姓名義の土地を探しておりました。するとある日、明治23年(1890)7月26日時点で、鹿児島市内の174坪ほどの土地を原田雅雄という人物が所有権保存した記録を見出したのです。そして、その隣の欄に、同日、更正、奈良原雅雄とあったのです。つまり、原田姓から奈良原姓に変更したことも記録してあったのです。
最初、私はここに書かれてあった意味合いがまったくわからず、弱ってしまいました。しかしながら、日が経つにつれてますます、この原田雅雄すなわち奈良原雅雄に対する興味が湧き立ち、抑えることができなくなりました。そこで、法務局の係員や知り合いの大学の先生に頼んで、その除籍謄本の入手しようとしたのでしたが、「学術的例外を除いて、他人の戸籍を閲覧してはならない」という法の壁にはどうしようもありませんでした。ところが、あまり日参する私に同情した法務局の係員が、その抜け穴のようなことを教えてくれたのです。
どういうことかと言いますと、戸籍に関しては、地方の市町村が管理しているのだから、その開陳の裁量はその地方が持っている、というようなことを言ったのです。これに勇気を得た私は、早速市役所の戸籍課の窓口に向かい、奈良原雅雄氏の除籍謄本を見せてくれるように頼みました。もちろん、断られました。そこで、また大学の先生にも交渉してもらったりしましたが、「学術」というのは、裁判や何かの血縁証明のためのものであって、それ以外は前例がないからダメだと言われたというのです。しかし、私は諦められませんでしたので、その後もねばり強く交渉しました。最後は泣き落としのようなやや卑屈な態度を取ったせいかどうかしりませんが、ようやく市の担当者は、奈良原雅雄氏の除籍謄本、ではなく、抄本だけをコピーさせてくれたのです。
それなら、どうしてこんなことになったのでしょうか。貢氏の場合は何とか残された文書等で繁の子孫だといえるのですが、喜左衛門の子孫に関しては、それらを証明する資料がほとんどないと言ってもいいほどなのです。それなら、喜左衛門には娘二人がいたとどうしていえるのでしょうか。それは、私が主張しているのではなく、喜左衛門の子孫だと名乗る二系統の子孫がいたからです。
一系統は、すでにお話した山口政雄氏ですが、もう一系統は東京に移り住むようになった子孫氏です。この系統の解明には、かなりの時間がかかりました。その糸口となる解明に至ったのは、ほんのごく最近のことなのです。おそらく調査から9年は経過していたでしょう。
さて、この調査の発端は、鹿児島県の地方法務局にあった旧土地台帳をめくっていたときでした。私は、鹿児島で亡くなった奈良原繁名義の土地がどうなっているのか調べる意味で、ここに通い出したのですが、それがわかってからも、鹿児島における奈良原姓名義の土地を探しておりました。するとある日、明治23年(1890)7月26日時点で、鹿児島市内の174坪ほどの土地を原田雅雄という人物が所有権保存した記録を見出したのです。そして、その隣の欄に、同日、更正、奈良原雅雄とあったのです。つまり、原田姓から奈良原姓に変更したことも記録してあったのです。
最初、私はここに書かれてあった意味合いがまったくわからず、弱ってしまいました。しかしながら、日が経つにつれてますます、この原田雅雄すなわち奈良原雅雄に対する興味が湧き立ち、抑えることができなくなりました。そこで、法務局の係員や知り合いの大学の先生に頼んで、その除籍謄本の入手しようとしたのでしたが、「学術的例外を除いて、他人の戸籍を閲覧してはならない」という法の壁にはどうしようもありませんでした。ところが、あまり日参する私に同情した法務局の係員が、その抜け穴のようなことを教えてくれたのです。
どういうことかと言いますと、戸籍に関しては、地方の市町村が管理しているのだから、その開陳の裁量はその地方が持っている、というようなことを言ったのです。これに勇気を得た私は、早速市役所の戸籍課の窓口に向かい、奈良原雅雄氏の除籍謄本を見せてくれるように頼みました。もちろん、断られました。そこで、また大学の先生にも交渉してもらったりしましたが、「学術」というのは、裁判や何かの血縁証明のためのものであって、それ以外は前例がないからダメだと言われたというのです。しかし、私は諦められませんでしたので、その後もねばり強く交渉しました。最後は泣き落としのようなやや卑屈な態度を取ったせいかどうかしりませんが、ようやく市の担当者は、奈良原雅雄氏の除籍謄本、ではなく、抄本だけをコピーさせてくれたのです。