長々と引用しましたのは、事件を直接目撃していない、また事件から20日ほど経た一般の薩摩藩士の状況認識を汲み取っていただきたいためであります。ただ、私が強調しておきたいことは、英国人4人をアメリカ人だと思っていたことや、無傷で逃げおおせたボラデイル夫人も怪我をしたという誤った伝聞が流布していたことなどではありません。
ともかく、内容を追ってみます。久光の駕籠から1キロほど前を進んでいた宮里らは、馬に乗った4人のニクキ姿をした「アメリカ」人、その内一人は女性らを、歯噛みしながらそのままやり過ごし、しばらくすると、かれらのうち2人が激しく馬に鞭をあてながら駆け戻って来ました。仲間うちで何事か起ったのだろうかなどとささやきながら後ろを振り返りますと、また一人、馬で戻って来ます。そしてその後に一頭だけ離れてやって来るのが見えました。そこで、彼らは行列にぶつかり誰かが斬り殺そうとしたのだと思い、通り過ぎる異人の後ろ姿を見ると、左の脇の下からおびただしい血が流れています。これはたいへんな事が起きた、と一旦久光の駕籠の所へ駆けつけようとしましたが、思い通りにはいかずまた引き返しました。そんなところへ、お供衆の本多源五殿と黒田良助殿が逃げたアメリカ人どもを追いかけて来ましたので、かれらに事情を尋ねると、「奈良原喜左衛門殿はお供目付の事故、一人を斬り殺し一人に傷つけた」と申しましたので、これを(六郎殿か誰かに)届けました。
以上のようなことを書いているのですが、問題は、「奈良原喜左衛門殿はお供目付のことゆえ」というところです。なるほど、確かにここで奈良原喜左衛門の名前は出てきました。しかし、どうも奇妙な表現です。直接誰が斬りつけたか見聞したと考えられるお供衆の本多や黒田から聞いたのであれば、なぜ宮里孫八郎は、「お供目付の奈良原喜左衛門殿、一人を斬り殺し一人を傷つけた」と明確に書かなかったのでしょうか。そう書かれておれば、私もやはり喜左衛門が最初に斬りつけたのか、と少しは納得せざるを得ません。ところが、「奈良原喜左衛門殿はお供目付だから、あるいはお供目付けなので、一人を切り殺し」と言うのは、何か奥歯に物が挟まった言い方、というより、どうものちに様々な情報が付け加わってきたため自信がなくなってきた、という印象が強いのです。さらに、そもそも本多も黒田もそのとき正確な情報を伝えたのかさえわからないのです。だいたい、本多や黒田が4人を追いかけてくる段階では、誰も死んではいないのですから、一人を斬り殺したと言ったのであれば、事実認識としてすでに間違いがあるのです。
かりに百歩譲って、一人を斬り殺したという情報だけが宮里の単なる聞き間違いあるいは書き間違いだったとしましょう。それはそれでいいことにします。しかし、誰が斬りつけたかは、事件後すぐに緘口令がしかれ、ごく少数の者しか事実がわからなくなっていたのですから、ほとんどの一般武士たち口には、お供目付でその日の当番供頭、すなわち行列統率の最高責任者だった奈良原喜左衛門の名前が最後まで残るのは、ある意味で必然でした。だからこそ、本多や黒田がどんなことを言っていたとしても、宮里には、当番供頭の喜左衛門がなすべきことをやったということが頭から離れなかったのではないか。それで、あんなふうな表現になったのではないか、ということなのです。
ともかく、内容を追ってみます。久光の駕籠から1キロほど前を進んでいた宮里らは、馬に乗った4人のニクキ姿をした「アメリカ」人、その内一人は女性らを、歯噛みしながらそのままやり過ごし、しばらくすると、かれらのうち2人が激しく馬に鞭をあてながら駆け戻って来ました。仲間うちで何事か起ったのだろうかなどとささやきながら後ろを振り返りますと、また一人、馬で戻って来ます。そしてその後に一頭だけ離れてやって来るのが見えました。そこで、彼らは行列にぶつかり誰かが斬り殺そうとしたのだと思い、通り過ぎる異人の後ろ姿を見ると、左の脇の下からおびただしい血が流れています。これはたいへんな事が起きた、と一旦久光の駕籠の所へ駆けつけようとしましたが、思い通りにはいかずまた引き返しました。そんなところへ、お供衆の本多源五殿と黒田良助殿が逃げたアメリカ人どもを追いかけて来ましたので、かれらに事情を尋ねると、「奈良原喜左衛門殿はお供目付の事故、一人を斬り殺し一人に傷つけた」と申しましたので、これを(六郎殿か誰かに)届けました。
以上のようなことを書いているのですが、問題は、「奈良原喜左衛門殿はお供目付のことゆえ」というところです。なるほど、確かにここで奈良原喜左衛門の名前は出てきました。しかし、どうも奇妙な表現です。直接誰が斬りつけたか見聞したと考えられるお供衆の本多や黒田から聞いたのであれば、なぜ宮里孫八郎は、「お供目付の奈良原喜左衛門殿、一人を斬り殺し一人を傷つけた」と明確に書かなかったのでしょうか。そう書かれておれば、私もやはり喜左衛門が最初に斬りつけたのか、と少しは納得せざるを得ません。ところが、「奈良原喜左衛門殿はお供目付だから、あるいはお供目付けなので、一人を切り殺し」と言うのは、何か奥歯に物が挟まった言い方、というより、どうものちに様々な情報が付け加わってきたため自信がなくなってきた、という印象が強いのです。さらに、そもそも本多も黒田もそのとき正確な情報を伝えたのかさえわからないのです。だいたい、本多や黒田が4人を追いかけてくる段階では、誰も死んではいないのですから、一人を斬り殺したと言ったのであれば、事実認識としてすでに間違いがあるのです。
かりに百歩譲って、一人を斬り殺したという情報だけが宮里の単なる聞き間違いあるいは書き間違いだったとしましょう。それはそれでいいことにします。しかし、誰が斬りつけたかは、事件後すぐに緘口令がしかれ、ごく少数の者しか事実がわからなくなっていたのですから、ほとんどの一般武士たち口には、お供目付でその日の当番供頭、すなわち行列統率の最高責任者だった奈良原喜左衛門の名前が最後まで残るのは、ある意味で必然でした。だからこそ、本多や黒田がどんなことを言っていたとしても、宮里には、当番供頭の喜左衛門がなすべきことをやったということが頭から離れなかったのではないか。それで、あんなふうな表現になったのではないか、ということなのです。