海鳴記

歴史一般

町田明広氏の論文について(2)

2010-01-11 10:49:56 | 歴史
 そしてこの久光の答書の中に、「・・・就而家来奈良原幸五郎江委細申含候趣も御座候間(ついてはけらいならはらこうごろうへいさいもうしふくめそうろうおもむきもござそうろうあいだ)、不悪御聞取被成下候様(あしからずおききとりなしくだされそうろうよう)、・・・」<ついては家臣の奈良原幸五郎へ詳しく言い含めた趣意もありますので、あしからずお聞き下されますように>という案文があったことから、奈良原幸五郎に申し含められた「趣意」の内容が、何だったのかというのが研究者の間で問題になったのである。
 これを時間的な順序で追っていくと、この問題に最初の推論を提起したのが芳即正(かんばしのりまさ)氏で、氏は、奈良原繁に政変への具体的な指示を出したと言明している。これに対して原口清氏が、氏の論文「幕末政局の一考察―文久・元治期について」の中で、「在京の高崎佐太郎・奈良原幸五郎らは、久光の指令を受けることなく、否、指令を待つ時間的余裕もなく、彼らの独自の判断で政変に参加したものである」と芳氏の結論を真っ向から否定したのである。ただ原口氏は、これ以上具体的に述べることはなく、町田明広氏が指摘しているように、結論は同じであるものの、その具体的実証に著しく欠け、結論のみ急いだ感が否めなかった。
この原口氏の反論の次に、佐々木克氏の重厚長大な論文「文久3年8月政変と薩摩藩」が出されるのだが、これは原口氏への反論、つまり久光や大久保の指示があったとする芳氏の結論と同じだった。そして私は、この佐々木論文に対して、私なりの批判を試み、その結果、いまここで展開しようとしている町田氏の論文にも踏み込まざるを得なかったのである。

 ところで、佐々木氏の論文に対する私の批判は、拙ブログ「8・18政変再び」に目を通して戴ければお分かりになると思うが、私はかなり否定的だった。なぜなら、芳氏もそうだったが、やはり「<8・18政変>の事実を知りえた者が逆算して編み出した推論」(町田氏)であるという感を否めなかったからである。要するに、指示があったと最初から思い込み、その先入観で史料を読み解いている印象を否定できなかったのである。