海鳴記

歴史一般

島津77万石とは(62) 拾遺12

2010-01-03 11:47:53 | 歴史
 そう考えると、『富士川町史』の「米は一俵三斗七升余、籾は一俵五斗二升一合」と書いている意味合いがよくわかってくる。
 ただよくわからないのは、(玄)米俵と籾俵の割合もそうだが、5斗2升1合、玄米換算にして2斗6升5夕(せき)という量である。米俵とほぼ同じ重さにした場合の量なのだろうか。それとも同じ大きさにするための量だろうか。
 もっとも、玄米は籾米の半分に換算しているということは、嵩(かさ)としては同量ということになる。つまり、籾米1升は、玄米5合と籾殻5合で1升になるということなのだ。だから、玄米1俵と籾1俵を同じ大きさ(嵩)にするためには、籾米の量は、玄米の半分の1斗8升余りということになる。
ということは、籾1俵の5斗2升1合というのは、玄米俵とほぼ同じ重さにするための量なのだろうか。
 そうだと考えたほうが納得できるのは、重さを統一するということは、舟積み、荷積みでも俵数で重さが分かるということだ。これは、簡単に積める限度がわかるという意味で重要なことだろう。さらに、重さを同じくするということは、俵の大きさは関係ない、あるいは違っているということだろうから、見た目で玄米か籾か判断できるので、保管や収納等でも効率的だったということではないだろうか。
 しかしながら、どうもこの籾1俵5斗2升1合というのも、籾俵の「標準」量ではなさそうだ。たまたま『富士川町史』を見出したあと、ある必要のため『清水市史資料 近世一』に目を通していた。すると、その中に一つの「覚」書きがあって、以下のような記述があった。
     
    覚
一(ひとつ) 籾壱俵(もみいっぴょう)但四計(=斗)入(ただし4といり)
一 大麦壱俵             同      入
右者去暮被為 仰附候(みぎはさるくれおおせつけられそうろう)貯夫食之儀(たくわえふじきのぎ)是迄江尻地方一所ニ貯仕候処(これまでえじりじかたいっしょにたくわえつかまつりそうろう)・・・

 内容は、貯夫食、つまり飢饉などのために備蓄米を江尻(宿)一箇所だけでなく他地区にも置いてもらえるように役所に届け出た「覚」書きである。当然ここでの米は、保存用なのだから籾俵の状態であるのはわかるが、その量が、甲州廻米の量とはかなり違っている。
 この2例だけの数字で明確な結論を引き出すことはできないが、年貢米の籾1俵は5斗2升余りが標準だとしても、最終的には玄米として市場に出すのだろうから、俵から出さざるをえまい。その際、幕府に納める米の中から備蓄用とか保存用とかの用途に応じた籾米の俵替を行っていたのではないだろうか。