海鳴記

歴史一般

『島津久光=幕末政治の焦点』(16)

2009-07-19 07:16:22 | 歴史
 ただもし私がこの事件の裁判員に選ばれたとしたら、この本だけの「検事調書」では、納得できないのである。
 たとえば、この事件に武市も一枚噛んでいて(注1)、黒幕である滋野井(注2)、西四辻(注3)らに田中を紹介した可能性があるなどという史料でも出されたら、私は躊躇なく田中を暗殺実行犯の一人として有罪としたであろう。それがたとえ状況証拠に過ぎないとしても。だが、黒幕と田中の関係がはっきりしない以上、有罪の評決を下せないのである。
 これまで挙げた田中の行動がある程度正しいとすれば、2度目の入京後は、岡田以蔵と一緒に暗殺をしたという記録も風聞もなさそうだし、ましてや、かれらに指示を与えていた武市が4月に帰国していたとすれば、武市は姉小路の「変節」ぶりも知らなかっただろう。それゆえ、武市が絡んでいたとは言えそうもない。
 では、一体だれが田中と朝廷急進派を結びつけたのだろうか。仁礼源之丞だろうか。はたまた、田中を気遣って名前を変えた藤井良節だろうか。
 慶応3年11月15日の龍馬暗殺に薩摩藩が関わったという説があるそうだが、それ以上にこの事件で薩摩藩が関わったということはありそうもない。田中が嫌疑をかけられただけで、薩摩藩は,乾門の守衛を解かれ、藩士の九門出入りも禁じられ、政治活動を封印されたのだから。それだけならまだしも、朝敵という烙印を押されかねなかったのだから。

 (注1)・・・武市は、この年4月に帰国しているらしいから、この線はありえないだろう。
(注2)・・・天保14年(1843)生まれで、このとき20歳。事件後、慶応4年(1868)1月、相楽総三を隊長とする赤報隊が結成されると、綾小路俊実と共に盟主として擁立された。維新後は甲府県知事等を歴任したらしい。
(注3)・・・天保9年(1838)生まれで、このとき25歳。事件後の慶応2年(1866)、中御門経之らと国事犯赦免等を求めた二十二卿列参に加わり蟄居を命じられる。赦免後、王政復古の際に参与助役に任じられ、明治元年(1868)、東征大総督府参謀として活躍する。町田氏によれば、二人とも筋金入りの過激廷臣であったという。