海鳴記

歴史一般

松方正義と生麦事件 (42)

2010-12-29 11:47:18 | 歴史
 品川は、誰に説得されて辞任を撤回したか確信はないが、おそらく山県に違いない。さほど尊敬もしていない松方に説得されてしぶしぶ引き受けた、とはとても考えられないからだ。それに、5月17日付けの山県書簡によれば、22日頃にはロシア皇太子も神戸からウラジオストックに向けて出発する予定だというから、大津事件も終息にしつつあった。さらに踏み込んで言えば、品川が山県宛にだした6月2日付けの手紙の追伸で、岩村道俊を内務大臣に自分を御料局長にという希望が入れ替わっていることでも充分納得できる。
 つまり、品川が兼任できなかった御料局長を岩村が引き継いでいるのである。こういう裏工作が可能で、それを首相である松方に説得できるのは、山県ぐらいしか見当たらない。

 もうこの辺で、なぜ奈良原繁が総理大臣松方正義の力をもってしても北海道長官になれなかったのか、という考察を終りにしよう。ただ、一つだけ私が黒田の書簡を漁っているときに出遭った、繁に関する新しい知見を披露させていただいた後に。
 それは、明治25年2月24日夕と日付のある手紙にあった。これを紹介する前に、ざっと黒田の履歴を追ってみる。よく知られているように、国会開設後の初代総理大臣には長州の伊藤博文がなった。黒田はその後を受けて第一次黒田内閣を組閣している。そしてその後は、山県、松方と、薩長が入れ替わり権力の座に就いている。これはともかく、黒田は首相を辞めた後、枢密院顧問官として、比較的閑な立場にあった。だからか、松方が総理大臣になっているときは、後方支援のように様々な情報を松方に送っている。私が披露する書簡もその一つだが、選挙干渉問題で揺れた2月15日の衆議院議員選挙も、結局は民党が過半数を占めたことで終り、内務大臣・品川の辞任も間近であった。この辺りの状況も頭に入れておかないと黒田の書簡もよくわからない。
 先ず、短い挨拶文の後、昨日昇堂して長座し、ご馳走まで頂戴したことを伝え、次に今日繁が来訪したことを次ぎのように伝えている。

又本日奈良原君御入来、首相閣下伊藤老伯へモ、兼ねて御同人身上云々依頼いたし候と、生ヨリも(小字)別ケテ願上くれとの儀ニ付、何分、是れ偏(ひとえ)ニ切願仕候、将又(はたまた)、同人ヨリ石川懸人疋田某子(氏)、生へ(小字)面会、大井憲太郎、岡本柳之助両氏大ニ感動スル所あり・・・




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