海鳴記

歴史一般

大河平事件再考・補遺(1)

2010-09-27 08:05:38 | 歴史
 前回までは、ほぼ『えびの市史』および大河平隆芳の「山林原野御下戻願」を中心に再考してきたが、その間にも、平成9年に地元の郷土史家が編んだ『物語り 大河平史』も参照してきた。ただ今回、事件を物語ることが本題ではなかったので、資料名として挙げなかっただけである。
 では、何を参照してきたかというと、「物語」とは別に、巻末に収めている菊池氏や大河平氏の系図および「大河平家旧臣之由緒並士族御書付候御書付」の写しなどであった。それまでは、事件そのものとは何ら関係ないものとして、また系図につきものの胡散臭さも手伝って等閑に伏していたというのが正直なところだったが、今回、『えびの市史』で大河平家の先祖を菊池氏から辿っているのを見て、何気なくそれと照らし合わせてみたのだった。その結果、あれ、『えびの市史』は、これを使っているのかと思わせるほど正確だったので、やや驚くと同時に、『物語り 大河平史』もそれなりの史料を使って系図を作成していることがわかった。というより、大河平氏の系図に至っては、墓石調査も行っているし、さらに、代が新しくなるにつれ、姻戚関係も詳しく記されてあったので、これは得難い史料だということがわかってきたのである。
 そして、事件そのものとは関係ないが、今までわからなかったことや勘違いしていたことが、この大河平氏の系図でわかってきた。
 これを述べる前に、今回、何回か触れた大河平家の家臣の数というか、大河平にどれくらいの士族がいたのかという問題を先に紹介しておこう。それは、最初に引用した「大河平家旧臣之由緒・・・」(明治2年12月7日付)の写しを見ると、すぐにわかったのである。82名だった。そして、ここには、本家筋にあたる家の主人名しか書かれていない。どのくらい居たのかわからないが、2男、3男が起こした分家は、士族に組み込まれることなく平民になったようだから。
 これはともかく、あの寒村によくぞこれほどの士族を養えたものだと、今さらながら驚いている。私は、地元の郷土史家がいう60家臣という数も、戦国期ならともかく、内心ではどうも信じ難い数だと思っていたのである。
 しかしながら、これだけの武士がいたなら、慶応年間に藩から西洋式銃を揃えた一個小隊80名の編制を命じられたのも頷ける。またこれだけの数がいれば、皆越六郎左衛門以来の直属家臣やその後加わった家臣などの間に派閥ができ、反目や不信があっただろうことも。



16 コメント

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沖津さまへの追伸 (海鳴記(長岡由秀))
2011-03-24 19:24:32
 お尋ねしたいことがあります。沖津さまがヒデさんのご子孫だとしますと、川上家と繋がることになります。川上家について何か聞いていることがあるのでしょうか。もし、あるとしましたら、川上家ではこの事件をどう解釈しているのでしょうか。大河平隆芳氏が言っているようなことでしょうか。
 また、後妻に入った歌の実家である三木原家について何か御存知ではないでしょうか。ささいなことでも結構ですので、ご連絡くださいませ。
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長岡由秀様へ (沖津敏江)
2011-03-25 11:47:27
 お訪ねの件、父から お前達は松方家と親戚でライシャワー夫人のハルさんとも親戚なんだ。と云われていました。
 この事が川上家との事だったのかと「海鳴記」を読ませていただいてはっきりしました。

 父はヒデ(英)の六男で他家を継いで私の実家にきました。
 私も小さかったのでいろいろ聞いても覚えておりませんが、三木原家に関する事はわかりません。
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川上家と松方家のこと (海鳴記(長岡由秀))
2011-03-25 19:14:31
 なるほど、そうだったのですか。
私自身、川上家と松方家それに大河平氏との関係は、これを綴る時点までは資料をもっていながら気がつかなかったのです。
 ところで、お父上が松方家のことを語っていたとしたら、大河平事件のことも話していたと思うのですが、ご記憶ありますか。また、この事件が悲話として広まらなかったのは、私が考えているようなことだと思いますか。鹿児島に住んでいらっしゃるのでしたら、お答えにくいでしょうが。
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長岡由秀様へ (沖津敏江)
2011-03-26 12:21:49
 大河平事件の事は家来の謀反だったと聞いておりました。それとヒデが殺されなかったいきさつも聞いております。

 明治10年6月15日 事件の日ヒデ(英)とトキ(候)は縁側で遊んでいたところ、庭の隅に白ウサギがいるのを見つけた。庭下駄を履いて近寄ったが逃げる様子もない。手を出して捕まえようとするとぴょんぴょんと逃げる。
 又追いかけるとぴょんぴょんと逃げる。
まるでここまでおいでと言うように山へ逃げる白ウサギを追って山を登った。
 中腹まで来たとき 屋敷の方から家人の悲鳴がきこえて振り返ると、母親(ウタ)が 四女悦(七ヶ月)を抱いて廊下を逃げるところを日本刀で切られた所だった。
 髪の元結が切れて黒髪がばっさりと散り、倒れこむ母の姿にヒデは山を一目散に駆け上った所までは覚えていたが、気を失っているいる所をお百姓さんに助けられたとの事です。
 ヒデは白うさぎに夢中で トキさんが後ろから着いてきていたのかどうか覚えていないとの事でした。

 この悲劇が語り継がれなかったのは、長岡さんが書かれているように、その後起こった西南の役という大きな戦乱の陰に埋没してしまったという事ではないでしょうか?
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物語について (海鳴記(長岡由秀))
2011-03-26 19:34:29
 いやー、こういう話が聞きたかったのです。
 私が綴ったのは、「物語り大河平史」の中にあった事件のいきさつですが、事実、真実はどうだったにしろ、様々なバリエーションの物語が残っていてしかるべきだったと思うのです。それが、無理やり沈黙させられたように、あの「物語り大河平史」だけだったのです。ヒデさんのこの話は、代々語り継がれるべきだと思いますね。今からでも遅くないと思います。
 なぜなら、私は、物語る<隠された事をオープンにする>という行為こそ、大河平事件のような悲惨な事件をなくしていく有力な一方法だと考えているからです。
 ところで、トキさんは川野道貫や清藤泰助に関する記録を残しておりますが、ヒデさんは彼らについて何か言っておりましたか。
 
 トキさんは
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長岡様 (沖津敏江)
2011-03-27 10:32:35
 トキさんは桑波田景晴に嫁ぎました。
 推測するに4人の男の子がいたようです。
 
 なぜそう思うかといいますと、我が家に大河平家系図がありますがこれを写し残してくれたのがトキの四男桑波田弘雄氏です。
 宮崎 大河平 斉藤家にて写す となっております。
 
 桑波田弘雄氏 又はその縁者の方がわかればもっと詳しい事がわかるかもしれません。
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大河平家系図について (海鳴記(長岡由秀))
2011-03-28 11:51:53
 そうですね。ただ、大河平、斉藤家 で写したものだとすると、「物語り大河平史」と同じだと思います。といいますのは、「物語り大河平史」は斉藤(賢次)氏が調べたものを下敷きにしているからです。
 ところで、現在、大河平家の墓を守っているのは、誰なのでしょうか。私は、大河平家に花を供えている花屋さんに尋ねたことがあるのですが、県外(千葉県?)に住んでいると言っていた記憶があります。そうなのでしょうか。
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大河平家のお墓 (沖津敏江)
2011-03-30 13:03:44
 おたずねの件 鹿児島にいる弟 静岡にいる妹にも尋ねてみましたがだれがお墓を守っているのか知らないそうです。
 
 2人にも長岡さんの『海鳴記」を読むように伝えています。
 長岡さんが言われるように今からでも大河平事件の事を語り継いでゆかなくてはならないとおもっています。
 
『海鳴記」は私たちにとって貴重な歴史資料です。ありがとうございます。


 
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長岡由秀様 (沖津敏江)
2011-04-01 11:13:56
 大河平事件再考(7)を読ませて頂いて、この事件の首謀者 川野道貫と鷹丸の最初の妻との関係に関する記述がありますが、思い出した事があります。

 私が小さい頃、大河平家の事を大人同士でヒソヒソ話をしていた時 父が・・・・が「 横恋慕 」していた。という表現をした事を思い出しました。
 この事が離縁の理由かどうかはわかりませんが・・・。
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謀反と横恋慕 (海鳴記(長岡由秀))
2011-04-02 19:50:34
 やはり、かつてはそういう話がされていたのですね。それもヒソヒソ話で。
 私も最終的に横恋慕のような私怨と謀反のような集団的な恨みが絡み合った事件のように結論づけました。しかし、未だにすっきりしないところもあります。まだまだ調べなければならないことがあるようです。(たとえば、川野道貫の墓とか)
 ところで、興味がありましたら、えびの市在住の郷土史家・橋口善昌氏にお会いになってください。橋口氏は『物語り大河平氏』を編纂した方です。
 私も余裕があれば、再度お会いして確認したいことがあるのですが・・・。
 
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