毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

清明節に祈る   2011年4月2日(土) No.102

2011-04-02 10:44:44 | 中国事情
 タイトルに日付を入れるとき、2201年と押してしまった。5秒ほど(何か変だなあ)と、ボーッとした後ようやく気付いた。
 2201年、日本は、地球はどうなっているだろう。今生きている人たちは全員もうこの世にはいない(だろう)が、今現在が確実に200年後につながっているという実感がある。
個人として名をはせるか、全く目立たずひっそり生きるかを問わず、私たち人間は『人類』として地球の歴史を刻み続けるんだ。

『平和、連帯、思い遣り、生きる歓び、非暴力…。』
こんな言葉をことさら強調しなくても、当たり前にそうであるような世の中に、どうぞ少しでも近づきますように。
人間同士が誤解を解き、支え合って仲良く暮らせますように。
それを助けるシステムが社会にできますように。
自然体系の一部分として、自然を支え、自然に守られて暮らして行けますように。

…と取りあえず、亡き父母に祈るのだが、まあ、私の両親だけではあまり効果は期待できない。なので対象を拡大し、今は亡き全ての愛する人々にお願いする次第である。

 私の勝手な想像だが、昔から代々、この世に生きる人たちは、亡くなった全ての人々の叡智を一まとめにした概念を「神さま」と呼び、困ったときに頼み込んで心の平安を得てきたのではないだろうか。
 「あの世」にはきっと、現世で解決不能な事柄を包み込む優しさや温かさや知恵があると想像するのは、とても嬉しい気持ちだ。今は亡き愛する人々の力を全部合わせれば、総体としてそんな(原子力以上の)パワーができるのでは…と勝手に思い描く。それが現実の厳しさに耐えるエネルギーになる。
 私は一神教信者ではないが、「誰が見ていなくても、お天道様はご存じだ。」と自分自身につぶやくことがある。

 我が大学では、今日2日から5日まで「清明節」(チンミンジエ)の休みだ。日本で言えば「春のお彼岸」のようなもので、ご先祖様の墓参りをしたりする。日本語学科の2年生は30人中10人が家に帰る。3年生は35人中6,7人と少ない。1年生は…?、明日家でカレーパーティーをするので、その時に聞こう。
 清明節休暇は本当は明日の日曜日からだが、私は今日授業がないので実質的にもうスタートしている。朝からときおり花火や爆竹がなっている。正式な清明節は4月5日だけだそうだ。その日にはどれほどたくさんの爆竹や花火が上がることだろう。

 さらに今日は、道路の街路樹に水やりをする車が通って行くのを初めて見た。その放水車は、とても気持ちが落ち着く中南米のケイナの音に似たBGMを流していた。南昌の公的機関が中国国歌でもなく、中国伝統民謡でもなく、そうした音楽を流しているのは珍しい。少なくとも私の経験では初めて聞く音だった。

 今日もいい天気だ。部屋の中は冷え冷えとしているが、外に出るとポカポカと暖かく、とても気持ちがいい。昨夜は、第2回目の理工大との合同「日本語コーナー」があり、朝7時半過ぎから夜8時過ぎまで麦廬園キャンパスで過ごした。(自分の職場なんだなあ)と次第に実感が湧いてきた。ここで働き出してから半年も経つ。かなり遅い実感だ…。
 自分が何でもチャッチャと要領よく体得することができない人間だということを、またまた確認した。こういう人間は、通り過ぎながらパッとポイントを掴む旅行より、1つ処に長期滞在してジワジワ感じる方が適していると思う。旅行に出かけるお金がないということもあるが…。
 

 

 
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